伊能忠敬
2015年07月06日
6月19日、千葉県香取市によって、伊能忠敬が残した国宝の測量記録や地図の計705点が、「世界記憶遺産」として日本ユネスコ国内委員会に登録申請されました。1800年から1816年の間に全国を測量した際、経緯や場所を記した「測量日誌」など146点と、原図や彩色地図、測量地の風景絵図など地図559点です。香取市が所有する「伊能忠敬関連資料」2345点のうち測量隊が直接作成したものに限ったそうです。
香取市の申請説明によると、
“伊能忠敬はヨーロッパの技術と在来の技術を組み合わせ、欧米列強以外で初めて自国の地図を自国の人員のみで実測によって作成しました。忠敬のつくった地図は、ドイツ人シーボルトやイギリス海軍を通じて、ヨーロッパに正しい日本の姿を紹介するきっかけになりました。さらに、忠敬がつくった地図は明治政府が進める測量の基礎資料となり日本の近代化に寄与しました。申請資料は、こうした忠敬の事業を明らかにする資料であり世界的に貴重な資料である。”
としています。
「世界記憶遺産」は、歴史的な文章や絵画、音楽などが対象で、現在「世界記憶遺産」には、イギリスの「マグナ・カルタ(大憲章)」など301点が登録されており、日本からは「慶長遣欧使節関係資料」など3点が登録されています。
国内申請には、このほか第二次大戦中、外交官の故杉原千畝氏がユダヤ人に発行した「命のビザ」など16件が申請されました。国内選考を経て、来年3月にユネスコに申請され、伊能忠敬没後200の前年の2017年夏ごろにユネスコ本部で登録かどうかが決まるとのことです。ただ一度の申請できるのは一つの国で2件までですので、国内から出るのも大変な状況です。
(H)
2014年09月01日
これは8月25日の朝日新聞夕刊に載っていた伊能図に関する記事のタイトルです。大日本沿海輿地全図(伊能図)に関し、蝦夷地は伊能忠敬の第1次測量では、函館付近に上陸し、太平洋岸の根室の近くの別海町西別までしか行っていないため、そのほかは間宮海峡を発見した間宮林蔵が測量した結果を利用した合作であるのが定説でした。それに対して伊能忠敬研究会が、この定説を覆す内容で、蝦夷地は全て間宮林蔵の測量結果であると18日発表しました。
その根拠は、下図のように伊能忠敬の測量した海岸線と伊能図の最終版との海岸線がほとんど一致せず、ズレは最大数kmあったことからです。以下の図は朝日新聞に載っていたものですが、赤が伊能忠敬の測量した海岸線、青が伊能図の最終版の海岸線で、新聞には書いてありませんでしたが、形から言って、襟裳岬周辺と推定されます。
右側の地図は国土地理院発行の20万分の1地勢図を縮小したものですが、やはり青の伊能図の最終版の方が正確であることがわかります。
また伊能忠敬は第1次測量で南側だけしか測量していないこと、間宮林蔵は蝦夷地を測量したデータを1817年に伊能忠敬に引き継いだとされているからです。間宮林蔵は伊能忠敬から測量を学んでおり、また幕府の役人であったことから、大日本沿海輿地全図の作成に協力したことは推定できます。間宮林蔵の測量結果については残っていませんが、伊能忠敬研究会の渡辺一郎・名誉代表は、「最初の測量で自信がなかった第1次のデータでなく、間宮林蔵のデータを用いて正確な地図を作ろうとしたのでは」と話しています。第1次測量は、子午線1度の長さを測ることが最大の目的だったのかもしれません。
2013年07月29日
NHKの朝の連続テレビ小説“あまちゃん”は岩手県久慈市とそこから東南東へ約6kmの小袖集落が前半の舞台です。小袖の集落には若干の平地がありますが、その南北の海岸は名勝の“北山崎”に象徴されるように歩くことができないほどの絶壁が続くところです。小袖集落も南の“北山崎”も北リアス線が通っていません。
今から200年以上前、伊能忠敬はこの海岸を歩いて測量し、後に伊能図と言われる「大日本沿海輿地全図」をほぼ完成させました。海岸を通るだけでも大変困難があったと思われますが、ほぼ正確に海岸線が描かれています。現在の地図を並べてみますとよくわかります。
左)出典:国土地理院のホームページ
右)出典:グーグルマップに加筆
久慈市から小袖海岸までの拡大図の比較では、伊能図に書かれている久慈湊はもちろん久慈市として現在も残っていますが、二子村も“二子”という字名として残っていることが確認できます。
左)出典:国土地理院のホームページ
右)出典:電子国土Webサイト
なお「大日本沿海輿地全図」が、伊能忠敬の死後取りまとめた高橋景保により幕府に献上されたのは、1821年8月7日です。