本の紹介
2014年08月08日
起伏に富んだ地形上に都市が築かれた、東京の地形を紹介する本は数多く出版されています。今回とりあげる書籍『地形のヒミツが見えてくる 体感!東京凸凹地図』(東京地図研究社 編・著)は、地形の起伏を色と陰影で表した「凸凹地図」を用い、東京とその近郊にみられる特徴的な地形をピックアップして紹介した一冊です。
7章から構成される本文のうち、1章では凸凹地形の形成概念や、各種地図の作り方、地形用語の解説といった、地形に関する基礎知識を養うコーナーになっています。2章以降は、東京を中心に関東各地の特徴的な凸凹地形の事例を紹介しています。東京23区内最高峰の「山」や、東京湾の埋立地内にある巨大な「台地」、丘陵地に開かれたニュータウンの地形や、各所に点在する「富士塚」など、数々の特徴的な凸凹地形をとりあげています。
全ページがカラー版で、文章よりも地図と写真の掲載割合を大きく取っているため、ただ誌面を眺めているだけでも楽しむことができる構成になっています。最近はウェブ地図でも地形の様子を無料で簡単に閲覧できますが、拡大すると細かい地形を読み取ることができないものが多く、地形をもっと知りたいという方には物足りなさを感じることも多いと思います。本書に掲載された凸凹地図は、いずれも縮尺が小さいものばかりなので、道路や街区レベルでの高低差を読み取ることができ、現地に行かずとも誌面上でその場所の雰囲気を想像することができます。これは地形好きにとって、大きな魅力と言えるでしょう。
厳しい暑さが続く今夏ですが、この本を片手に、凸凹地形をめぐる東京の旅を楽しんでみてはいかがでしょうか。 (T)
(2014年4月24日発行、価格1,880円+税)
2014年05月07日
文庫本10ページほどの短編ですが、頂点にある者が、ふとしたことで人間的な面を見せていることを書いた小説です。オランダ人と王の会話の中に、地図の本質も描かれていると思います。
この小説は、大正14年秋に太宰治が仲間と一緒に創刊した同人雑誌『蜃気楼』の11・12月合併号に発表されたもので、当時の中学校3年生の16歳の時でした。16歳でよくここまで書けるのか感心しています。
写真は太宰治生誕100年記念出版として平成21年5月に出された新潮文庫の『地図』初期作品集の表紙ですが、この中に「地図」など28作品収められています。この表紙から、「地図」が初期作品集の代表作だといっていることはうれしく思い、「地図」の代表的場面が世界地図であること納得できますが、オランダ人の首をはねるところが代表的場面であることは疑問が残ります。
2014年03月19日
小説を読むのを楽しみにして通勤していますが、芥川賞候補に3度もなった柴崎友香女史の小説『わたしがいなかった街で』を先日読んでいたところ、その中に「地図センター」に行った話が載っていることを発見しました。驚くと同時に大変うれしく思いました。小説では、“2週間前に、池尻大橋のあたりをバスで通るときに見えて気になっていた「地図センター」に行って、広島の昔の地図を探したが、母方の祖父がコックをしていたと聞いたホテルの名前は結局どの地図にも載っていなかった・・・”と言う文書が載っていました。「国土地理院」と言う言葉が出てくる小説には、村上春樹の『ノルウェイの森』や『蛍』、さだまさしの『眉山』、内田康夫の推理小説などがありましたが、「地図センター」が出てきたのは初めてした。単に名前が出てきたのではなく、池尻大橋云々とリアルに地図センターの場所が示されており、しかも見ただけでなく気になっていたところに訪ねて地図を探したことまで書かれていることから、実際の彼女自身地図センターに来られたものと思われます。
この『わたしがいなかった街で』の中には、米軍写真を使った大学の授業のことも載っていました。昭和22、3年頃の大阪を写した米軍写真で、彼女の小学校の校区は戦災で焼けてしまったところがわかり、焼け残っていたところが隣の小学校の校区なのがわかったそうです。それが今では、隣の校区は長屋や古い建物が多く道幅の狭い状況が、自分の校区は市営住宅の団地や新しい家や工場が並ぶ、幅の広い道が規則正しく交差しており、“何十年経っても、今も、はっきりと街の形に一目でわかるように、(米軍写真では)分かれていた。”とありました。米軍写真が単に記録としてではなく、その後の歴史をも示していることを教えてくれていました。なお彼女は大阪府立大学出身なので、そこで米軍写真を使った授業が行われていたのかもしれません。
2014年01月31日
東京や横浜の地形は起伏に富んでいます。ビル街の間に急な坂道が現れたり、丘陵を覆いつくすように住宅が立ち並んでいたりと、さまざまな地形を目の当たりにします。私事ながら、生まれ育った地が関東平野の「ど真ん中」ともいえる某市の市街地で、自宅周辺には坂という坂も見当たらない「まっ平ら」な場所でした。市街地を抜ければ一面の田畑が広がり、遠く富士山や秩父山地、浅間に赤城、筑波と、関東平野を取り囲む山々を望むことができます。そのような土地の起伏とは無縁の場所で生活してきたこともあってか(?)、私自身は「坂道」「丘陵」「台地」といった言葉に興味を惹かれるものがあります。
私ども日本地図センターの建物は、周辺から一段下がった「谷底」にあります。建物前を横切る道路は山手通りですが、その向かい側の道はすぐに上り坂となり、周りを見渡せばコンクリートで固められた崖が迫っています。崖の上は、静かな佇まいを見せる住宅地です。こうした日頃から目にする地形でも、それがどのような経緯で形成されたのかを深く考えることは、なかなか無いのではないでしょうか。
松田磐余・著『対話で学ぶ江戸東京・横浜の地形』(出版元・之潮)は、主に東京・横浜の都心部とその周辺に広がる、バラエティ豊かな地形について解説しています。これまでも東京の地形を扱う書籍や雑誌記事は数多く出版され、テレビ番組等でも取り上げられていますが、本書は特に「地形の形成過程」に重点を置き、自然地理学的な観点から記述している点が特徴です。タイトルに「対話で学ぶ」とあるように、本書内の文章は「著者」と「読者」の対話形式を想定した文体で執筆されています。
本書では日本橋や銀座をはじめとする東京23区、横浜市中心部および横浜市南部の金沢地区等を具体事例として、地形の形成過程とその要因を詳細に解説しています。地図センターの周辺では、目黒川とその周辺の地形が取り上げられていました。センターより南西方向の、目黒川を越えたところには「東山貝塚」という貝塚があります。縄文時代にあたる5500年前から2500年前の間に人々が居住していた跡で、貝類のほかイルカやクジラの骨も出土されています。しかし、本書によれば縄文時代に入り江がこの近くまで達していたことは否定されており、実際は貝塚よりもずっと海側の、現在の東横線の線路と目黒川との交差部付近が縄文海進の限界だったと推測しています。貝塚には、あたかも縄文時代に入り江がすぐ近くまで迫っていたかのように描かれた看板が掲げられていますが、「昔はこの付近まで海だったのか」などと思いを馳せていた方々にとっては少々残念な考察結果かもしれません。
防災の研究者としての著者の視点から、本書では地形や地質、地盤にかかわる多くの専門用語が登場します。それらは大学で地形地質を学んだ方にはなじみ深い言葉だと思いますが、そうでない方は、予備知識のないまま本書の内容を読み解くことはやや難しいかもしれません。第1章にて基本的な用語の解説と、現在の地形が形成されるまでの大まかな変遷が説明されているので、まずはその点をしっかり理解しておくのがよいでしょう。
このほか、本書内では、東京の地形に関して各種メディアが扱った際、いくつか誤った説明がなされていた点も指摘し、正しい理解を読者に促しています。
なお、本書の表紙および口絵には、当センターが販売・配信するiPad用アプリ「東京時層地図 for iPad」に収録されている段彩陰影図が掲載されており、東京・横浜周辺における地形の凹凸感をよりリアルにイメージすることができます。
(2013年12月21日発行、価格1,800円+税)
2013年08月29日
ちょうど6年前の本日、2007年8月29日に地理空間情報活用推進基本法が施行されました。この法律(以下「基本法」と表記します)は、地理空間情報を活用し、安心して豊かに暮らす社会を実現するため、その推進に関する基本理念、国や地方公共団体の責務、施策の基本となる事項を定めたものです(同法第1条から要約)。
地理空間情報とは、空間上の位置を示す情報(位置情報)とそれに関連づけられた情報(属性情報)とからなる情報、と第二条で定義されています。
ひとは社会生活を営むなかで、いろいろ位置情報と関わっています。たとえば会話のなかで「いつ」「どこで」は重要な事項です。公共サービスや行政文書にも、位置・時刻に関する情報が必ず入っています。私たちは、多くの地理空間情報とともに暮らしているわけです。
しかし、地理空間情報はいつも体系立って提供されるとは限らず、それによる不都合も少なくありません。幸いにも日本はじめ多くの先進国では、地図という優れた媒体が日常的に活用され、その恩恵を享受してきました。基本法が目指す社会では、地図を含む多様な手段で地理空間情報を共有し活用することで、一層の豊かさを実現しようとしています。
そのような地理空間情報化社会の究極の姿を描いたSFが、半世紀以上昔の1956年に刊行されています。『2001年宇宙の旅』小説版の作者として知られているアーサー・C.クラーク著『都市と星(The City and the Stars)』です。
10億年後(!)、地球最後の都市ダイアスパーに住む青年の冒険譚から、そこに至る人類史・宇宙史が明らかにされ、闇が迫りくる宇宙のなかで、新たな可能性が示唆されるという、『2001年・・』にも通じるやや哲学的なテーマを含んだ物語です。
ダイアスパーでは、都市それ自体が市民社会を護りつつ外宇宙との接触を待つ一種の総合知性体のようにふるまいます。都市全域に遍在するセンサ・情報処理装置・万能の工作機械が、「記憶バンク」と訳された巨大データベースに連動して都市インフラを維持更新し、市民の輪廻転生まで管理しています。一見ディストピアのようにもみえますが、砂漠化し尽くした地球上に燦然と輝くダイアスパーを起点に、そのような価値判断を乗り越えるような、卓越したイメージが次々と展開されていきます。
主人公が、時間軸に沿ってダイアスパー内部世界を検索するときに参照している立体画像は、現在の時層地図の最終的な発展型のようです。一方、地下遺跡の中に発見するダイアスパーの外の世界を表す巨大「地図」は、超絶的なテクノロジーに裏打ちされているハズにもかかわらず、17世紀オランダあたりの古地図を彷彿とさせます。
さすがに今となっては古めかしい場面も少なくないのですが、「充分に発達して魔法と見分けが付かない」程になった地図類を垣間見てください。
2012年12月26日
新年早々の2013(平成25)年1月6日(日)、ニフティ株式会社が運営する東京台場のライブハウス《東京カルチャーカルチャー》で、(一財)日本地図センターが協力し「地図ナイト4・新年会「凸凹vsスリバチ!東京びみょ〜地形!」が催されます。地図・地理・地形の大好きなひとたちが集まり、東京の微地形を肴に飲んだり食べたりしながら楽しく語り合います。
地図や鉄道について多数の著書があり最近は『東京凸凹地形案内』を監修された今尾恵介さん、《東京スリバチ学会》の会長で『凹凸を楽しむ 東京「スリバチ」地形散歩』著者の皆川典久さん、地図センターの気象予報士・平井史生、地図センター研究員でエンタメ担当の小林政能が出演します。
17時に開場、17時30分にイベントを開始し、20時までの予定でたっぷり楽しみます。前売り券は、イープラスやファミリーマート店頭のファミリーポートで24時間受け付けています。ネット予約も可能です。お一人2,800円は一見高いようにみえますが、1:25,000デジタル標高地形図「東京都区部」付き(当日開場で受け取り)です。
ライブレポート
> 地図ナイト1 | 地図ナイト2
2012年12月19日
⇒ 第18回地図地理検定(一般)の解説 (PDF:31.3MB)
⇒ 第18回地図地理検定(専門)の解説 (PDF:27.7MB)
今回の検定では地図地理力博士が2名、準地図地理力博士が2名誕生しました。一般の合格者は160名、専門3級は77名、同2級は20名、同1級は13名の方々が各々認定されました。最高得点は、一般では100点、専門では94点でした。
なお、この機会に地図地理検定ホームページも更新し、参考書に委員のひとり政春尋志さん著の『地図投影法』(朝倉書店・2011年9月刊)を加えました。地図投影法(図法)について、日本で最も新しくかつ最も正確な教科書です。
12月16日に投票が行われた衆議院選挙が終わりました。 今回は定員480議席のうち294議席を獲得した自由民主党が第一党となりました。一方、日本共産党は8議席にとどまり伸び悩んでいます。
1989年の「東欧革命」、1991年の旧ソ連邦解体以来、日本では社会主義への期待は色あせてしまいました。しかし、いまから40年前の1970年代前半、自由民主党の単独長期政権が続いていたにもかかわらず、国や地方の選挙では社会主義を掲げる政党が議席を伸ばし、それらの党に支持された政治家が首長を勤めるいわゆる「革新自治体」が大都市を席巻していました。特に1972年の総選挙で日本共産党は結党以来最高の38議席を獲得し、まさに「確かな野党」として政策レベルにも相応の影響力を持っていました。
当時の社会主義政党の大きな支持母体は、労組などの組織票を除くと、大都市郊外の団地に住む人たちでした。日本住宅公団(現UR)が建設した団地に住む人たちは、学歴・所得ともに比較的高水準にあり、社会主義の古典的理論によれば「ブルジョア」に分類されるはずでした。
このような時代状況を、地理空間の視点から考察した本があります。明治学院大学教授の原武史さんによる『レッドアローとスターハウス〜もうひとつの戦後思想史』(新潮社・2012年9月刊)です。
レッドアローとは、西武鉄道が走らせる座席指定特急車両の愛称、スターハウスとは、団地景観に変化を与えるよう設計された星形の平面形を持つ集合住宅棟のことをいいます。
本書では、武蔵野台地を切り拓いて多くの大規模団地が建設された西武鉄道沿線という時空間を記載していきます。原さんが提唱している空間政治学です。論考に際しては、原さん自身の団地経験に加え、日本共産党の前中央委員会議長で西武鉄道沿線の公団ひばりヶ丘団地にも住んだ不破哲三さんへのインタビュー、そして当時の団地自治会報などを発掘し読み込むなど、極力一次資料まで辿っています。
詳しくは本書を読んでいただくとして、そこで明らかになるのは、高度成長期の日本が目標としたアメリカ型生活のモデルと思われた団地の景観は、当のアメリカには無く、むしろ旧ソ連や東欧の大都市近郊に建てられた大規模住宅群に似ており、そこで営まれる一種の「共同生活」は、社会主義思想との親和性が高かった、という逆説的な状況です。
本書の最終章で、ニュータウン以前の大団地の最終形ともいえる公団滝山団地(東久留米市)に辿り着きます。そして、大きな反響を呼んだ原さんの問題作『滝山コミューン一九七四』(講談社・2007年5月刊)へと繋がっていきます。
次回は、特急レッドアローに乗って秩父へと向かいます。
2012年11月06日
「デジタル地図」か「紙地図」か..。無条件で地図記号を覚えさせられ、「地図は『読む』ものダっ!」と教えられてきた(jmctsuzaも含まれる)世代は、ともすれば両者を対立的にとらえてしまいます。しかし、若い世代はちがいます。全く気にすることもなく両者を併用し使い分けています。
衿沢世衣子さんによる『ちづかマップ』(小学館)は、いま自然体で地図を楽しんでいる若いひとたちが描かれたコミックです。
主人公・鹿子木ちずかは、古地図を片手の街歩きが大好きな女子高生。限られた小遣いをやり繰りして、やっと手に入れるのは『明治41年調査東京市日本橋区全圖』や『江戸切絵図』。売れない絵描きの先輩、同級の草食系らしき男子、何でも知っていて電子書籍も使いこなす渋いお祖父さんなどが主な登場人物。
第二話、草食君が「じゃーん」と差し出すのは東京時層地図。携帯端末(iPhoneやiPad)に、明治から現代までの地図や地形段彩図などを切り替え表示し、東京市街の変遷や地形を知ることができる地図アプリです。作中で「iPhone神アプリ」と評してくださった作者の衿沢さんには感謝いたします。
時層地図をみて驚きのあまり、主人公は固まってしましますが、すぐに江戸切り絵図を取り出し、友達同士で両者を見比べながら、お茶の水(第二話)や水元公園や堀切(第三話)を散策します。本ブログの「見にウォーク」シリーズみたいですが、漫画だけあって、現地の風物がビジュアルに伝わってきます。
取材し作中に登場させた古書店や洋菓子店などは、コラムとして改めて紹介され、作者の律儀さが伝わってくるとともに、実用的な散策ガイドとしても役立ちます。今どきの女子高生たちが繰り広げる「ユルい」お話しに同道して、肩の凝らない街歩きを楽しみましょう。
2012年10月04日
映画『天地明察』の上映に併せて、北極星の観察を呼びかける『北極出地2012』キャンペーンが行われています。また、京都大学総合博物館では、11月12日(土)に『体験!北極出地観測〜渋川春海の貞享改暦から伊能忠敬の全国測量へ〜』と題して、映画に使用された大象限儀の組立・実演を行うイベントが予定されています。
映画の前半、将軍の前で対局を披露する碁打だった安井算哲(後の渋川春海,1639〜1715)が、会津藩主・保科正之に算術と天体観測の才能をかわれて、日本全国を廻って北極星の高度を精密に測ることで土地の緯度を測る観測隊に参加します。北極出地です。
建部昌明☆が率いる北極出地隊が、大象限儀を用いて天体の仰角を観測し、歩測を行いながら次の観測地に移動する様子は、地図や測量に興味のある読者には馴染みやすいものでしょう。この百数十年後、伊能忠敬(1745〜1818)も北極出地を行っています。
現在の北極星は小熊座α星で、ポラリス(Polaris)ともいいます。地球の自転軸の北の延長線上の点(天の北極)に極めて近い位置にあることから、見かけ上ほとんど動かない星です。二等星という肉眼で見える星々のなかでは比較的明るい方に属し、しかも、北斗七星(大熊座の一部)やカシオペア座という特徴的な形の星座から、その位置を容易にみつけることができます☆☆。
日々の生活に追われゆとりの少ない現代にあって、このキャンペーンをきっかけに、星空を眺め、宇宙と地球に思いを馳せるひとが少しでも増えるなら、とてもうれしいことです。
☆ 映画の北極出地隊隊長である建部昌明のイメージが伊能忠敬とダブるのは、演じる笹野高史さんが富岡八幡宮の伊能忠敬銅像と似ているためでは、と投稿者は思っております。
☆☆ これに比べ天の南極には、現在これといった目立った星や星座ありません。北半球に住むひとは幸いです。
2012年09月13日
今年は希な天文事象の多い年で、5月には金環蝕、6月には金星の太陽面通過、8月には(全国的に天候に恵まれない日でしたが)金星が月の後に隠れる金星食がみられました。これらの現象は、長年の天体観測の結果から時分秒単位で予測されていた事象です。さらにこのことを利用して金星観測から日本の経度を正確に求める観測が行われたことを、5月に掲載した記事でお伝えしました。
このように天体観測と測量すなわち土地の位置の計測とは、密接というか裏腹の関係にあります。そして、もうひとつ、星や地面の「位置」を知るとき重要なものが、お察しのとおり時間です。
国を治める基本的な要件は、国土(領土)と国民、すなわち国土の位置・範囲を地図や台帳で示し、国土と国民との関係(地籍)を明らかにすることで、これらと並んで、国民の生活時間を一律に支配する暦も不可欠でした。古代日本における天皇は、「日和見(ひよりみ)」といって、観天望気により時刻や暦を定めることで、権威を得ていたといわれます。
古代の暦は、当時の先進国であった中国から導入したものでした。古代中国の天文観測は、日蝕の予測ができるほどに精密なものでしたが、862(貞観4)年から用いていた宣明暦も、江戸時代初期には、実際に観察される時間と暦が定める時間とのズレが顕在化していました。そこで徳川幕府は、渋川春海(1639-1715)という数学者・天文学者を起用して、天体観測や各地の緯度・経度の測定等を行い、最終的に国産暦を確立しました。
青年時代に安井算哲と名乗っていた渋川春海の、改暦への取り組みを描いた映画『天地明察』が、この9月15日(土)から全国で上映されます。監督は『おくりびと』の滝田洋二郎、主演はV6のメンバーでもある岡田准一、原作は冲方丁による同名の小説(2009)で、第31回吉川英治文学新人賞を受賞しています。
いま、位置を知るため「GPS」と呼ばれる器具を使っておられる方も多いでしょう。手軽に使える「ハンディGPS」から、プロの測量士が用いるGPS測量機までいろいろあります。
GPSは、Global Positioning Systemの略称で、人工衛星が発する電波を利用して位置を測る測位航法衛星システム(GNSS)のうち、アメリカ合衆国が運営しているものです。
写真は沖縄県石垣市にある電子基準点。
各国のGNSSは、中国の北斗を除き、対応機器さえ用意すれば原則無償で利用できます。一見、出血大サービスにみえますが、いま技術ビジネスとして急伸している位置情報の技術基盤を提供することで、これに関する国際的な施策の主導権を握るためともいわれています。
国土地理院が中心となって勧めている地理空間情報活用に関する施策なかで、衛星測位に関わる政策の基本はPNT(:Positioning, Navigation and Timing)と略記されています。PNはそれぞれ「測位」「航法」と訳せますが、"Timing"の適訳はいまのところありません。
衛星が発する測位信号は一種の「時報」で、4機以上の衛星からの時報を受けて、その僅かな時刻差から導かれるのが3次元の位置+時刻(の誤差)、計4次元の座標です。衛星測位から得る位置と時刻に関する情報が、いまや世界での基本情報となっているのですから、"Timing"とは現代の「日和見」といえるかもしれません。
☆ 『天地明察』に登場する、東京渋谷の金王八幡宮には、江戸時代に奉納された算額(数学の問題や解法を記した絵馬)が保存されています。9月14日(金)〜16日(日)は大祭です。
[9月14日追記]
2012年08月14日
毎年8月になると、「高校野球」「帰省」「旧盆」「終戦記念日」など、ほとんど季語と化した言葉とともに、多くの日本人の故郷志向が強まる同時に、戦争の記憶を反芻し、ともかくも平和が保たれていることをかみ締めることになっています。67年間にわたり日本国民が、戦闘によって外国人を殺害したことがない、という記録は世界に誇ってよいと思います。
1945(昭和20)年の夏前後の、対外交渉や関係国の動向を、時系列で列記してみました。
5月 8日:ドイツ、連合国に無条件降伏。
7月13日:日本政府、和平の親書をソ連外務省に託す。
7月16日:アメリカ合衆国、最初の原爆実験に成功。
7月17日:ポツダム会談始まる。
7月25日:合衆国トルーマン大統領、原子爆弾投下指令書に署名。
7月26日:対日ポツダム宣言。
8月 6日:広島市、原子爆弾被爆。
8月 8日:ソ連対日宣戦布告。
8月 9日:ソ連軍攻撃開始。長崎市、原子爆弾被爆。
8月10日:日本政府、ポツダム宣言の条件付き受諾を連合国に申入れ。
8月12日:連合国、日本の降伏に関する回答。
8月14日:日本政府、ポツダム宣言受諾を決定、連合国に通告。終戦詔書を録音。
8月16日:日本政府、全軍に休戦命令。
8月30日:マッカーサーが厚木基地に到着。
9月 2日:日本政府、降伏文書に署名、第二次大戦終結。
9月 5日:ソ連軍、北方四島を占領。
9月 7日:沖縄戦終わる。
10月 2日:連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)を東京に設置。
これを見て「おやっ?」と思ったひとは多いハズです。そう、日本国民の成人ならば誰でも知っている「終戦記念日」8月15日はどうしたのか?と。
1945年8月15日は、日本政府がポツダム宣言受諾を決定し連合国に通告したという事実を終戦の詔書によって国民に伝えた(だけの)日であって、国際法上は何もしていないのです。もちろん、多くの国民にとって極めて重大な知らせを初めて聞いた日であり、その意義を過小評価する必要はありませんが、日本以外の大多数の国にとって第二次大戦の終結は、日本政府代表が降伏文書に署名した9月2日なのです。
佐藤卓己『八月十五日の神話 − 終戦記念日のメディア学』(ちくま新書,2005年)は、全国戦没者追悼式を8月15日に行うことを、1963年に政府として閣議決定するまでに、どのようにして「8月15日=終戦」は日本国民の集団の記憶として定着していったのかを、真正面から考察した著作です。
佐藤さんの研究は実証的・重層的で、要約は難しいのですが、本書を読むと、9月2日の「敗戦」を忘れ、戦前からの伝統である月遅れ盂蘭盆と同日の8月15日を「終戦」とすることで、戦争の当事者意識とでもいうべきものが忘却され、代わりに戦没者追悼〜すなわち被害者としての側面が強調されてきた経過が浮かび上がってきます。
佐藤さんの主張には賛否があるかとは思いますが、本書の続編として、同じテーマをアジア諸国に取材した『東アジアの終戦記念日 − 敗北と勝利のあいだ』と併せて、8月の休暇を利用して「記憶」を確かめる読書をしてみるのも、半世紀を越えた平和を維持し享受している私たちの知的なたしなみであると思います。
ドイツ東北部(旧東ドイツ)
→ OpenStreetMapによるポツダム市街の地図
ポツダム宣言が発せられた、ドイツのポツダム(Potsdam)という街をちょっと観てみましょう。氷期にスカンディナビアを中心に発達していた氷床跡の湖沼の畔にある風光明媚な街です。ベルリンに隣接し、プロイセン王国〜ドイツ帝国時代には王家の居城があり、この地を占領したソ連は王家の史跡を利用して連合国首脳会談の場所を提供しました。
ポツダム会談の後、冷戦が深刻化し、旧ソ連軍の本国以外では最大の基地がおかれ、西ベルリンを東ベルリンとともに東西から監視する役割を担いました。一方、旧東ドイツも、ベルリンからポツダムへ行くにはベルリンの壁を大きく迂回する必要があり、相応の不便を強いられていました。
現在では、統一後再編されたSバーン(都市近郊電車)に乗って、ベルリン中央駅(Berlin Hauptbahnhof)からポツダムまで40分で行くことができます。
ポツダムは、いろいろ日本と縁があるところです。
トルーマン大統領が広島への原爆投下命令に署名した「リトル・ホワイトハウス」の近くの交差点付近は「ヒロシマ・ナガサキ広場」と名付けられ、最近建立された原爆碑があります。
ポツダム市電の400形電車は、広島電鉄5000形電車と同じメーカー(ドイツ・シーメンス社)が製作した同一車種で、このうち404号には「Hiroshima (広島)」と愛称が付けられています。
ポツダム市電404号「広島」.
ポツダムに留学していた測地学研究者のTさんにお願いして、研究の合間の夕刻に撮っていただきました。
2012年08月06日
8月6日は67年前に広島市に原爆が投下された日、8月9日は長崎市に原爆が投下された日です。歳月の経過と世代が交代していくなかで、どのように説得力をもって被爆体験を伝えていくのか、今世紀に入る頃から課題となっていました。
(財)日本地図センターでは『地図中心』誌の2005年号外として「米軍が空撮した広島・長崎 昭和20年8月」を特集しています。広島市長(当時)が「今こそ広島の心を世界に広めたい」と語った対談記事を中心に、米国国立公文書館が所蔵・公開している米軍撮影の空中写真や旧版地形図など、当センターが使える資料だけを用いて、被爆前後に広島、長崎の市街がどのように変貌したかを評論抜きで示しました。
僅か数日間をおいて撮影された2組の空中写真を見比べてすぐに判ることは、そこで生活していた市民が、その生活空間とともに、ある意志によって抹殺された事実です。
この号外は多くの方々の関心を集めた結果、現在では残念ながら在庫切れとなっていますが、記事の基になった旧版地図や米軍撮影の空中写真は誰でも入手できます。
ほぼ同時期の2004年、原爆をテーマとした傑作が発行されました。広島出身の漫画家こうの史代さんの『夕凪の街 桜の国』(双葉社)です。「夕凪の街」「桜の国(一)」「桜の国(二)」の3部から構成されています。
「夕凪の街」では、広島の基町にあったスラムを舞台に、被爆から10年後の若い女性の心情と運命が描かれています。「桜の国(一)」「桜の国(二)」では「夕凪の街」の主人公の姪にあたる被爆二世の女性の、家族の歴史を辿る旅と、そして被爆者や被爆二世への差別(「・・の芽のようなもの」作者)が描かれています。
ほのぼのとしたタッチの描写でありながら重いテーマから逸れることなく、明るく希望に満ちたエピローグに至るこの連作短編は、多くの読者の心を捉えました。外国向けにも翻訳され、2007年には実写版で映画化されています。
『夕凪の街 桜の国』の巻末には、舞台となった場所を示した作者手書きの「広島市中心部地図」が掲載されています。主人公たち〜すなわち当時の広島市民の行動範囲の中心には相生橋があります。T字形の特徴的な平面形をもつこの橋が、原爆投下の目標物となったのでした。
相生橋を走る広島電鉄650形電車(撮影:石原宏行).
背景に原爆ドームが見えます。この651号は、1945年8月6日の朝、運行中に被爆し大破しましたが、翌年に修復され、現在も使われています。
(8月7日追加)
旧太田川左岸には、1970年代までスラムが残っていました(左写真)。
現在は、環境護岸の整備がなされ快適な緑地となっています(右写真)。
米国立公文書館所蔵の空中写真
2012年07月20日
夏休みと少年ドラマ
地図センター本社がある東京都目黒区の公立小中学校では、7月の第4週から夏休みに入ります*。夏休みの始まりといえば、子供たちにとって2学期など未だ視界に入らず、今夏こそ何か冒険ををしてみたいと思ったものですが、現在ではどうなのでしょうか?
1970〜80年代、NHK総合テレビで「少年ドラマシリーズ」という番組がありました。1973年夏に放映された『つぶやき岩の秘密』。三浦半島の西海岸に住む少年が、岬の断崖に老人を目撃したことから、奇妙な事件に巻き込まれ、幼い頃の両親の死の秘密に絡んだ謎を解いていくというミステリ冒険譚でした。
全編が三浦半島の三戸海岸でのロケで、映画のようなタッチの画面が臨場感を出していました。夕景の海に石川セリが歌う主題歌『遠い海の記憶』がかぶさるエンドタイトルの印象から、晩夏の放映だったと思い込んでいましたが、情報サイトによると7月9日〜19日で、夏休みの直前でした**。
原作は、『孤高の人』『剱岳・点の記』など山岳を舞台にした小説で知られる作家・新田次郎(1912〜1980)です。生誕百年にあたる今年(2012年)6月に新潮文庫として再刊行されました。
ジュヴナイル篇にしては文章が硬質ですが、小学校高学年が夏休みに、少し背伸びをして読むのに適しているともいえます。気象庁技官だった作者ならではの天候に関する記述が効果的に使われていますが、登山経験に裏打ちされた地形の描写も的確です。磯浜から急坂を登り詰めると、何事もなかったかのように平坦な台地面に大根畑が広がる風景は、まさに三浦半島のものです。
ミステリ作品ですので、あまり詳しく立ち入るわけにはいきませんが、実在する地形を観ながら、三浦半島西南部を歩いてみましょう。
海岸段丘
京浜急行久里浜線の三崎口駅で下車します。ホームは切り通しの中にありますが、階段を上がって改札を出ると駅前は平坦な地形です。
三浦半島南部の地形は、広い段丘(台地)面と海食崖で特徴づけられます。地形学の研究から段丘面は大きく3段に区分され、高い(古い)方から引橋面、小原台面、三崎面と名付けられています。三崎口駅前の台地面は三崎面で標高40mくらいですが、北方向を眺めると一段低い標高30m内外の台地面が広がっています。こちらも三崎面なのですが、活断層による変位を受けて高さが違っているのです。
後編(5b)で訪ねる油壷へはバス便がありますが、三戸海岸へは頑張れば歩いていける距離です。逗子、葉山方面から通じる国道134号は、三崎港方面に向かって上り坂で、三戸入口というT字路では標高50mを越えています。このあたりは小原台面です。三戸海岸方面へ右折すると緩い坂を下って三崎面に戻り、畑の中をさらに1kmほど歩きます。1970年代の空中写真では左側に台地を刻む「谷地」がありますが、現在は圃場整備の工事中で地形が変わっています。
主人公たちが住む村のモデルと思われる初音漁港付近の集落は、谷地を塞いだ砂州(砂碓)の上に載っています。夏は海水浴場になる砂浜からは、晴れていれば、相模湾をはさんで富士山や伊豆半島がみえます。小説では、漁港の南にある断崖が「塚が崎」、崖下に「つぶやき岩」、突端の先に岩礁「鵜の島」、そして「塚が崎」には旧日本軍が「本土決戦」に備えて掘削した洞窟があります。
三浦半島にみられる岩は新第三紀の凝灰質堆積岩で、掘削しやすい割には崩れにくく、旧軍の重要施設が多かった三浦半島には、実際に要塞跡の人工洞窟がたくさんあります。
海岸からは岩山にみえる「塚が崎」の上は照葉樹林に覆われ、その背後の広い台地面上は大根畑(夏は西瓜畑)です。「つぶやき岩」のある荒磯には、海面から1〜2mの高さの岩棚があり、釣り人に絶好の足場となっています。
「塚が崎」の南は、小網代湾という東西に細長い湾入で、小説やドラマにもでてくるヨットハーバーがあります。このあたりから三崎港にかけて、海岸の出入りが著しく、海食崖と小さな浜が交互に現れます***。
小網代湾の南に突き出た長さ約1kmの細長い半島も、頂部は台地面(三崎面)となっており、リゾートホテルやマリンパークなどの観光施設が立地しています。この半島の南に食い込む湾入は油壷湾で、国土地理院の験潮場があります。
見にウォーク(5b)では、油壷験潮場を見学します。
三戸海岸付近の地形図画像
1970年代の空中写真
地形分類(土地条件図)
* 学校の夏休み期間は、地域によってかなり違うので、季節感は補正して読んでください。
** NHK少年ドラマシリーズについては、充実した情報サイトがいくつもあります。この記事ではここを参照しました。本ブログでも、2011年6月の記事『東北地方太平洋沖地震/東日本大震災 (3) 須知徳平「三陸津波」』で言及しました。
***岬先端部の崖下は足場が悪く干潮時でも歩いて通り抜けることは不可能です。
2012年07月10日
昨年(2011年)秋に亡くなられた作家・北杜夫さんは、少年時代から昆虫が好きで、いくつかの作品のなかで、作者がモデルとおぼしき主人公の想いを象徴させるように昆虫を登場させています。また、そのものずばり『どくとるマンボウ昆虫記』(1961)という著書もあります。北さんが学ばれた東北大学では、理学部自然史標本館で4月28日から6月17日まで(すでに終了しましたが)『追悼・北杜夫 どくとるマンボウ昆虫展』が催されたことを、地図センターのメールマガジンで5月頃にお知らせしました。この展示会では、北さんが採集された昆虫標本や、使用されていた採集用具などが展示されたそうです。
北杜夫『どくとるマンボウ昆虫記』
新潮文庫,昭和41年発行.カバーデザインと解説は串田孫一.
『どくとるマンボウ昆虫記』は、いわゆる「どくとるマンボウ」シリーズのエッセイ集であすが、昆虫に関する博物誌としても十分に価値の高いものといわれます。その最初の章では、いろいろな蒐集家の行動が面白おかしく描かれています。何に取り組むにしても、先ずその対象を観察または採集・蒐集し、名前を付け分類することから始まります。
少年少女時代に始めた蒐集も、途中で興味を失ったり体力的に息切れがして続かなくなるひとも多く、中には投機的な方向に進むひともいますが、好奇心と想像力を持続させ、その関係の職業に進んだり、アマチュアながらプロを凌ぐような貢献をなすひともいます。
このブログの読者は、多かれ少なかれ、機会をみつけては地図を集めている方も多いのではないでしょうか。地図センター発行の『地図中心』通巻478号(2012年7月号)は、地図蒐集家を特集しました。題して「お宝発見!地図コレクターの世界」。同誌に連載中の2つのシリーズ、鈴木純子さんの「絵葉書の地図コレクション」、山下和正さんの「古地図ワンバイワン」。この2つの連載が、双方ともこの号でちょうど第100回を迎えたことから、これを記念して企画しました。
2つの連載では、歴史的に貴重な資料や面白い地図がカラーで紹介され、これを楽しみに定期購読されている読者も多数おられると思います。連載の著者である鈴木さん・山下さんに加えて、井口悦男さん・清水靖夫さん・富原道晴さんら、『地図中心』誌でおなじみの、大の地図好きの方々に集まっていただき、地図センター参事役で地図コレクターでもある長岡正利の司会により、地図収集の楽しみについて語り合っていただきました。対談記事は、まさに談論風発。「もっと凄い話もあったのでは?」と想像しながら行間を読む楽しみもあります。
この特集に登場する地図コレクターは、座談会出席者のほか、蘆田伊人さん、岩田豊樹さん、大塚隆さん、大矢雅彦さん、中村拓さん、藤本一美さん(50音順)です。いずれも、地図学や地理学の分野で、十分に実績を築いておられる方々なのですが、その好奇心、想像力、そして何よりも行動力には、全く敬服してしまいます。
[地図センターHomePage]
2012年03月09日
世界一高い634mの自立式電波塔東京スカイツリー(R)が、着工から3年8ヶ月を経て2012(平成24)年2月29日に竣工し、建設を担った(株)大林組から事業主体である東武タワースカイツリー(株)へと引き渡されました。3月2日(金)には竣工式が執り行われ、東京スカイツリーとそれを囲む商業施設「東京ソラマチ(R)」およびオフィス棟からなる「東京スカイツリータウン(R) 」の、5月22日(火)の開業(グランドオープン)に向けた準備も最終段階を迎えています。
千葉県松戸市からみた東京スカイツリーの上部
ちょうど良い機会なので、地図センターの月刊誌『地図中心』3月号で「東京スカイツリーのある街」として特集を組むことにしました。地上450mの天望回廊からの眺めや可視範囲の地図、鳥瞰図、地上634mという高さを基に簡便に距離を測量する方法、周辺の土地の歴史散策など、地図好き地理好きには大変興味深い題材です。
東京タワー(地上333m)に代わる新電波塔の建設は、2003年にNHKと民法キー局からなる在京放送事業社が「在京6社新タワー推進プロジェクト」を発足させたことに始まります。いくつかあった候補地のなかから、墨田区押上地区が、2005年に選定されました。新電波塔の名称が「東京スカイツリー」と決まった後、東武鉄道伊勢崎線の業平橋駅の貨物駅跡地で2008年7月に着工されました。「武蔵国」にちなんで高さ634mに決まったは2009年10月、目標の高さに到達したのは2011年3月でした。
東京スカイツリーへの関心が高まったのは、建設中の2010年3月に東京タワーの高さを超えた頃だったと思います。世界一の高さに向かって伸びる建設中のタワーを見ようと、繁華街の浅草から至近にありながらいまいち地味だった押上・業平地区に、多くの人々が訪れるようになりました。地元関係者らが新電波塔の誘致に向けて「押上・業平橋周辺地区まちづくり協議会」を設立していましたが、現在では「おしなり商店街振興組合」が、訪問客に向けたいろいろなキャンペーンを行っています。東京スカイツリーを核とする地元の盛り上がりの一端を、このブログでも『墨東( 旧・寺島町)を歩く』(前編・後編)と題してリポートしました。
高い塔を建て、空を飛ばずに天上に登ることへの憧れと不安は、神話・民話や小説の題材になっています。 聖書にでてくる「ヤコブの梯子」は人間が昇るのではなく、空を飛べるハズの天使が降りてくる話、同じく聖書の「バベルの塔」は言語の起源のような話で塔は脇役でした。人が登る塔(のようなもの)の話として代表的なものはイングランド民話をもとにした『ジャックと豆の木』(Jack and the Beanstalk)でしょう。雲の上にある巨人の城に主人公が乗り込んでいって宝物を奪ったうえに、城の主人を退治してしまうところは、『桃太郎』と似ています。考えてみれば随分と横暴な話ですね。登り詰めた高い所に大きな城があるというのも、何だかアンバランスな気がするのですが、これを近代科学で裏付けた2篇のSFが1979年に刊行されました。チャールズ・シェフィールド著『星ぼしに架ける橋』、アーサー・C・クラーク著『楽園の泉』です。両作品ともに軌道エレベータを題材とし、それぞれの作者が独自に構想し書き上げた長編で、偶然同時期に刊行されたことで話題になりました。
軌道エレベータとは、赤道上空約3万6千kmの円軌道を地球の自転と同期して周回する静止衛星を重心として、そこから地表とその反対側に向けてチューブを延ばし、地上からエレベータのように宇宙に向かうことができる輸送手段です。軌道エレベータの概念は1959年頃にロシアの科学者によって提唱されていましたが、その建設工程を、フィクションとは言え、初めて具体的に描いてみせたのが、これら2作品です。現在の技術では、強大な潮汐力に耐える資材を、建設に必要なだけ安定的に供給できる見通しがないことなどから、未だ空想的な段階に留まっていますが、基礎的な技術研究が一部で始まっています。
東京スカイツリー天望回廊の地上450mは、定期航空の巡航高度には届きませんが、ヘリコプタや小型遊覧飛行機の飛行高度には匹敵します。空を飛ばず、かといって山に登るのでもなく、垂直方向の移動で到達することによる高度感は、また格別のものになるでしょう。天望回廊からさらに宇宙の彼方に続く梯子を想像してみるには、夕方から夜にかけての時間帯が向いているかもしれません。
東京スカイツリー(R)は東武鉄道株式会社と東武タワースカイツリー株式会社の、東京スカイツリータウン(R)と東京ソラマチ(R) は東武鉄道株式会社の登録商標です。
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パノラマ浅草(夕景)
2012年02月10日
立春も過ぎましたが、寒い日が続いています。
2月6日に気象庁から「ユーラシア大陸の顕著な寒波について」という解説が公表されました。これによると、今年(2012年)1月中旬以降、ユーラシア大陸中央部に非常に強い寒気が流入していて、日本列島の寒さはその余波に過ぎないことがわかります。2月になって寒気の影響は中〜西欧にも拡がり、大雪による交通障害も報じられています。
ヨーロッパで大雪による交通障害とくれば、アガサ・クリスティ『オリエント急行殺人事件』を想い出します。おなじみ「灰色の脳細胞」を持つ名探偵エルキュール・ポワロが乗りあわせたイスタンブール発パリ行きのシンプロン・オリエント急行*が、ユーゴスラビア(当時)のヴィンコヴチ付近で大雪に閉じ込められ停車中、乗客のひとりが殺され・・・、と展開していきます。
オリエント急行が大雪で立ち往生した事件は、1929年にトルコ〜ブルガリア国境付近で起きており、これに飛行家リンドバークの子息誘拐事件(1932年)と、2つの実在事件に作者自身の乗車体験を加えて着想を練ったものと考えられます。
『オリエント急行殺人事件』は、シドニー・ルメット監督で1974年に映画化され、翌1975年に日本でも公開されました。主人公ポワロはじめ乗客たちを演じたのは、ひとりひとりが主役級の俳優たちでした。興行的に大ヒットしましたが、高くついたと考えられる人件費を回収できたのか心配になるくらいです。豪華キャストが演じた乗客たちの素性を列記してみましょう。
・ベルギー人で英国で活躍する探偵(ポワロそのひと)、
・アメリカ人の富豪(被害者)、
・被害者の秘書であるアメリカ人青年、
・被害者の執事である英国人、
・派遣先のインドから帰国途上の英国軍大佐、
・バグダッドで教師をしていた英国人女性、
・老齢のロシア貴婦人 、
・貴婦人の使用人であるドイツ人女性、
・おしゃべりなアメリカ人中年女性、
・宣教師であるスウェーデン人中年女性、
・フランスへ赴任途上のハンガリー外交官、
・外交官夫人の若い女性、
・自称「スカウトマン」のアメリカ人男性、
・アメリカで自動車販売を営むイタリア人男性、
・フランス人の車掌、
・ギリシア人の医師、
・国際寝台車会社の重役(名前からイタリア人か)
原作者が英国人であるためかもしれませんが、英国人・アメリカ人の比率が高くなっています。実際、中近東(オリエント!)から南アジアにかけての英国植民地の経営に関わる高官や豪商が、シンプロン・オリエント急行の主要な顧客だったそうですから、この設定は不自然では無さそうです。
ウィーン西駅に到着するオリエント急行ブダペスト行(1995年)
植民地を持つことの適否は別として、近現代史のなかで、英国はじめ西欧諸国が最も効果的に地図や地理学を活用して、活動の場を拡げていました。乗客たちの会話からも地理に親しんでいる背景が伺えます。「帝国主義」といってしまえばその通りであり、彼ら彼女らの視点の中に異教・異民族への偏見もあって、その残滓は現代の英会話の授業にも微かな違和感をもたらしているけれども、結果として、世界中から得た多くの事物や知見が独占されずに人類共通の財産となり、英語が事実上の国際標準語となってきたことは事実でしょう。
地図中心誌の2012年3月号(通巻473号)の特集は「地理教育と地図教育展望」です。
上越教育大学の志村喬さんの記事に紹介されたイングランドの地理授業では、小学校低学年に空中写真を見せて訪れた場所を当てさせ、中学1年生に英国測量部(Ordnance Survey)の地形図の(コピーではなく)現物を配布し、読図や地域についての説明をさせているそうです。 生徒が身につけるのは、国語(=英語)、算数(数学)と並ぶ基本的な技能(リテラシー)として、地図などの記号・図表を読み解き使いこなす「グラフィカシー(graphicacy)」という技能です。英国の海外領土は今でもありますが、現在の地図教育の目的は、これからの持続可能な社会の形成者・参画者としての市民の育成とみるべきなのでしょう。
日本でも、順次施行されつつある新しい学習指導要領では、いわばグラフィカシー向上をかかげ、学校の授業において地形図やGISを利用することを薦めています。現役の学校の先生、地理学科出身の保護者、研究者そして文部科学省の教科書調査官といった方々に、地図教育の現状と目指していることについて書いていただきました。
* オリエント急行
西〜中欧と南東欧そして中近東をむすぶ国際列車群の変遷史は、それだけで本1冊以上書けてしまうので、ここでは最小限の説明をします。
1883年に運転を開始した「オリエント急行」は、パリからドイツ南部〜オーストリアを経由してルーマニアのブクレシュティ、そしてトルコのイスタンブールと結んでいました。第一次大戦後に走り始めた「シンプロン・オリエント急行」は、スイス〜イタリア〜ユーゴスラビア経由でイスタンブールと結び、大戦間の最盛期を支えました。『オリエント急行殺人事件』の舞台もこの列車です。この他にもいろいろな区間・経由地の名を冠した「○○オリエント急行」も生まれては消えていきました。
南ドイツ経由の「オリエント急行」は21世紀まで走り続けましたが、フランスの高速鉄道TGV東ヨーロッパ線の開業(2007年)によりストラスブール〜ウィーン間に短縮され、2009年12月に廃止されました。
オリエント急行全盛期の1929年に造られた車輌が、いま箱根ラリック美術館に展示されています。大型ソファと軽食ができるテーブルを備えたサロン車(プルマン車)で、映画の車内シーン・セットのモデルと同系車です。当日申込みで車内の見学もできます。ルネ・ラリックがデザインした豪奢な客室で、名探偵になったつもりで
「さて、皆さん・・」
とやってみるのも乙なものかも知れません。
オリエント急行の車内(1995年)
奥に座っているオジさんが、何となくポワロさんに似ています。
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2011年08月19日
墨東( 旧・寺島町)を歩く(後編)
江戸 〜 東京の街歩き。NHKの人気番組『ブラタモリ』もその興味のなかで視聴したひとも多いと思われます。しかし、そこはタモリ氏、単なる懐旧趣味に陥ることなく、街路を這いつくばり坂をよじ登って見出す高低差から、江戸〜東京の地理的な成りたちに迫っていました。
前回に引き続き、永井荷風『墨東綺譚』(原題で「墨」は、さんずい辺に墨の旧字体、以下同様)をベースに、作者の永井荘吉氏(荷風)と主人公の大江匡氏との3人連れの散歩を続けましょう。
[東向島(旧・玉の井)](承前)
大江氏は、東武鉄道玉の井駅の少し北千住寄りで線路と交差している土手に夏草をかきわけて登り、街並みを見下ろします。この土手は、刊行前年の1936(昭和11)年に廃止された京成電気軌道(現・京成電鉄。以下「京成」)白鬚線の築堤跡です。
崩れかかった石段の上には取払われた玉の井停車場の跡が雑草に蔽われて、此方から見ると城址のような趣をなしている。
梅雨期に雑草に蔽われた場所では蚊に襲われはしないか、という野暮な詮索はさておき、ここで言及している「玉の井停車場」は、京成白髭線にあった、もうひとつの玉の井駅です。廃墟や城跡は、ひとを惹き付けるものがあります。主人公を先ずここに登らせたのは、小説の舞台となる街を俯瞰することが目的でしょうが、同時にこの作品の基調となっている過去の風物への郷愁をいっそう喚起する意味合いもあったのかも知れません。
東京から千葉県北部に路線網を持つ京成は、東武の浅草雷門への乗り入れと同じ年に、青戸から分岐する別線で隅田川に架橋し、上野に乗り入れます。東武、京成の両社が、渡河に至るまでの試行錯誤の跡は、地図にも表れています。
京成白鬚線は、1928(昭和3)年に当時のターミナル押上駅から2駅目の向島駅(今はない)で本線から分岐し、隅田川左岸(東岸)の白髭神社付近まで開業した路線でした。1947(昭和22)年発行の1:25,000地形図「東京首部」では鉄道路線は修正の対象になっておらず、すでに無い京成白髭線の表示がそのまま残っています。下り向きに分岐しており、白髭橋を渡った対岸にある、同じ軌間( 1372 mm )の王子電気軌道(現・都電荒川線)は郊外をむすぶ路線であり、はたして都心乗り入れを意図した路線だったのかどうか判然としませんが、みるからに半端な区間です。
荷風のもうひとつの代表昨『断腸亭日乗』によると、小説の取材のために玉の井を頻繁に訪れるのは1936(昭和11)年になりますが、その前にも何度かこの近辺を散策し、営業中の京成白髭線も目撃しているハズです。高い建物が少ない当時、築堤を走る白髭線の視覚的な存在感は大きかったに違いないのですが、『日常』にそれらしい記述はありません。
京成玉の井駅跡から隅田川河畔にかけては、江戸時代に設けられた民間庭園で現在は東京都が管理している向島百花園、古い太陽神とみられる猿田彦命を祀る白髭神社など、向島の歴史を伝えるスポットがあります。旧町名「寺島」は、小学校の名に残っています。一方、東へ水戸街道との間にかけては、かつての畦道をそのまま路地にしたような迷路のような街並みで、昭和戦前期には私娼街だったそうです。この街を取材しながら荷風が描いた手書きの地図が『断腸亭日乗』に掲載され、さらにそれを基に挿絵画家が描いたと思われる地図が『墨東綺譚』に載っています。
築堤を降りた大江氏は、この迷路に踏み込んですぐ夕立に遭い、傘をさしたところに若い女が飛び込んできて『奇譚』の本筋が始まるわけです。ドブ川が匂い立ち、蚊が跋扈する迷路の街を背景に、そこに暮らす女神(ミューズ)のようなヒロインお雪さんと主人公との交歓を、荷風はわりと乾いた筆致で描いています。
玉の井の街の大半は1945年の空襲で焼かれ、今では平凡な下町ですが、迷路然とした路地のパターンは殆ど変わらず、一部の建物には歓楽街だった頃の面影が残っています。
東向島付近(1:10,000地形図「青戸」の一部に加筆)
[鐘ヶ淵]
伊勢崎線は東向島を出ると鐘ヶ淵に向かって高架から地上に降りていきます。京成白髭線跡を横切っているハズなのですが、築堤は跡形もありません。土地条件図をみると、付近の地形は埋土であり0mの地盤高線がみえます。地盤沈下に伴い、築堤を構成していた土は、周囲の地盤に埋没してしまったのでしょうか。
鐘ヶ淵の名は、「お寺の鐘を小舟に積んで隅田川を渡ろうとしたところ、舟が傾いて鐘が沈んでしまい・ ・ ・ 」、という由来だそうです。明治時代の殖産興業政策に沿って設置された鐘ヶ淵紡績工場の後身が、有名な化粧品会社です。
鐘ヶ淵駅構内は広く、片隅に大型の保線機械群が昼寝をしています。これとは対照的に狭い駅前には、6方向からの道が集まって踏切となっており、朝夕の交通事情が気になりますが、それぞれの道は適度に狭く、歩きやすい活気のある商店街となっています。
[堀切]
東武伊勢崎線は、鐘ヶ淵駅と堀切駅の構内でそれぞれ急カーブを描き、その間は荒川の堤防に張り付くように走っています。1902(明治35)年開業時には、もっと緩いカーブで東側を回り込んでいましたが、荒川放水路(現・荒川)の開削(竣工は1930(昭和 5)年)によってつけ替えられました。河川敷では、天気の良い日には大勢のひとびとが散策したり運動したりしていますが、あまりに広大なため少々歩いたくらいでは景色が全く変わらず、ある意味で街歩きより疲れます。
堀切駅は、旧・荒川本川の隅田川と放水路との間隔が狭まった付近にあります。今は対岸にある菖蒲園の最寄り駅でしたが、放水路によって分断されてしまいました。堤防脇の小さな駅舎はローカル線の駅のようで、明治学院大学の原武史教授は「いま永井荷風が散歩に降り立ってもおかしくない雰囲気をとどめている」と評しています。
1932(昭和7)年1月、永井荷風は堀切駅に降り立ちます。そして、竣工間もない放水路の水辺を散策し、その数日後に初めて玉の井を訪れています。
見渡すかぎり枯蘆の茫々と茂りたる間に白帆の一、二片動きもやらず浮かべたるを見る
放水路の眺望を好んだ荷風は、ここを何度も訪れ、エッセイ「放水路」を書き上げます。堀切駅前には、墨田水門から隅田川をつなぐ短い堀割があり、首都高速の高架橋がその上空を通っていますが、この堀割がかつての綾瀬川の旧流路であることを、「放水路」のなかで推察しています。
放水路の水辺と、その周辺の風物に創作意欲をかき立てられた荷風は、さらに勢いづいて寺島町を取材、そして『墨東綺譚』の上梓となっていくわけです。
斜体文字は、『摘録断腸亭日乗』(岩波文庫)および『墨東綺譚』(岩波文庫)からの引用です。
2011年08月05日
古地図を片手に江戸〜東京の街歩きが、趣味の一分野として定着しています。
目的地に行くための手段としてではなく、風物を観察しながら歩き回る「散歩」を最初に実践しエッセイとして公表したのは、永井荷風( 1879-1959 )といわれています。今世紀に入った頃から、定年を迎えようとしている中高年男性の一部を中心に、荷風の何者にも束縛されない生き方に共感した街歩きが、静かなブームとなってきました。さらに、究極の「おひとりさま」としての荷風の生活に価値を見出す女性も増えているようです。
永井荷風の街歩きに関わる代表的な著作は、江戸切絵図を片手に散策する『日和下駄 一名 東京散策記』(1915)でしょう。 目次をみると「日和下駄」「淫祠」「樹」「地図」「寺」「水 附渡船」「路地」「閑地」「崖」「坂」「夕陽 附富士眺望」とあり、一部に古めかしい用語はあるものの、地理学・地図学の参考書にそのまま使えそうな項目が並んでいます。「富士眺望」とくれば、筑波大付属高の田代博さんが主催する「山の展望と地図のフォーラム」の前身のようにも思えます。
荷風の作品には、『日和下駄』以外にも、エッセイやフィクションに関わらず、舞台となった場所の生き生きとした描写が特徴です。代表作『墨東綺譚』(1937)では、作者自身がモデルと思われる主人公・大江匡が次(原題で「墨」は、部首はさんずいに墨はつくり字体、以下同様)のように語っています。
小説をつくる時、わたくしの最も興を催すのは、作中人物の生活及び事件が開展する場所の選択と、その描写とである。
「墨東」とは隅田川の東岸の土地を表し、いまの墨田区とほぼ同じ範囲とみられ、今では、2012年に完成する東京スカイツリーを間近で眺めようとするひとびとで賑わっている界隈です。永井荘吉氏(荷風)と大江匡氏との3人連れで、東武伊勢崎線に沿って歩いてみましょう。
[業平橋]
いままさに東京スカイツリーが建っている現場です。浅草駅から東武伊勢崎線に乗って最初の駅。ホームからあまりに近いので、首が痛くなるほどに見上げることになります。駅周辺の食堂や商店では、スカイツリーに因んだ商品も提供し、いつも賑わっています。
そば処 かみむら、名物「タワー丼」
業平橋の駅名は、平安時代の歌人・在原業平に由来します。藤原氏との抗争に敗れ、無冠のままでの諸国放浪は『伊勢物語』のモデルになっています。『古今和歌集』の撰歌となっている、
名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと
という歌は、隅田川の渡舟で詠んだとされています。駅前を通る道路を北西に行くと隅田川を渡る言問橋に至ります。
業平橋駅は、1902(明治35)年に吾妻橋駅として開業し、一時休止をはさんで、1910(明治43)年に浅草駅と改称され、長らく東武鉄道(以下「東武」)のターミナルでした。1931(昭和6)年、隅田川に架橋して浅草雷門(現・浅草)駅を開設したとき、現行名となりましたが、広い構内を活かして操車場や貨物駅が併設されていました。貨物駅は2003(平成5)年に廃止され、不要となった広い敷地が東京スカイツリーの建設地となりました。2012年のスカイツリー完成に併せて「東京スカイツリー駅」に改称される予定です。
1:25,000地形図「東京首部」1947年修正
[曳舟]
スイカイツリーの建設現場を右にみて、北へ急カーブを描くあたりから、いろいろな鉄道路線が絡み合ってきます。地下鉄半蔵門線から押上駅を経てきた線路が、地下からせり上がってきて上下線の間に分け入り、直ぐ脇をかすめた京成線の下をくぐってきた亀戸線がさらに合流し、3路線併せて曳舟駅に入ります。周辺は、いかにも「昭和」のイメージそのままの商店街と、工場跡地に新築された高層マンションとが隣り合っています。
駅名は、江戸時代に古利根川から引かれた葛西用水路の、江戸近郊での通称「曳舟川」に由来します。江戸に集まる物資を満載した高瀬舟を、水路沿いの道から牽く航行法がそのまま水路の名となりました。隣の押上駅とで「押し・曳き」というペアになりますが、地元の資料によると、水路に江戸湾の潮が常に「押し上がってきた」ことに由来するそうです。
大江匡氏は、小説の取材のため、「六月末の或夕方」に、東武の玉の井駅周辺、当時の町名では寺島町を訪れます。
踏切の両側には柵を前にして円タクや自転車が幾輛となく、貸物列車のゆるゆる通り過るのを待っていたが、歩く人は案外少く、貧家の子供が幾組となく群をなして遊んでいる。降りて見ると、白髯橋から亀井戸の方へ走る広い道が十文字に交錯している。
現在の、水戸街道(国道6号)と明治通との交差点で、今とはかけ離れた光景です。伊勢崎線は高架化され踏切はなくなりました。玉の井駅は町名変更に合わせて東向島駅に改称されていますが、駅名標には旧名が併記されています。高架下には東武博物館が設けられ、蒸気機関車から1世代前の特急電車までの実車展示、関東平野を模した鉄道模型ジオラマ、電車やバスの運転シミュレータが揃い、夏休み期間中は鉄道好きの少年達が集まってきます。
(つづく)
水戸街道(国道6号)を跨ぐ東武鉄道と背景のスカイツリー
斜体文字は『古今和歌集』『墨東綺譚』からの引用です。
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2011年07月08日
地震・防災関係の書籍が相次いで刊行されています。本年(2011年)6月9日に発行された寺田寅彦『天災と国防』(講談社学術文庫)もそのひとつで、「津浪と人間」など災害について言及したエッセイ12編が収録され、これに失敗学に関わる著作の多い畑村洋太郎東京大学名誉教授による38ページにも及ぶ解説が付いています。この解説自体が、自然災害に関わる危機管理についての小論となっていて、充分に読み応えがあるのですが、ここでは寺田の著作をみていきましょう。
寺田寅彦(1878−1935)といえば、東大地震研究所に勤めた地球物理学の研究者であるとともに、夏目漱石門下のエッセイストとしても知られています。「天災は忘れた頃にやってくる」はあまりにも有名です。この言葉を文字通り書いた文章は無いといわれていますが、本書に収められた12編のなかで、同趣旨の考察が何度も書かれています。
今回の東北地方太平洋沖地震・津波は千年に一度の規模といわれています。ただし三陸海岸に限っていえば、明治三陸津波(1896年)以降、顕著な災害をもたらした津波が襲ってき間隔は、37年、27年、51年です。ひとが忘れないうちに対策を施し得る期間内にあるように思えるのですが、寺田はこう書いています。
さて、それから更に三十七年経ったとする。その時には、今度の津浪を調べた役人、学者、新聞記者は大抵もう故人となっているか、さもなくとも世間からは隠退している。
(中略)
津浪に懲りて、はじめは高い処だけに住居を移していても、五年たち、十年たち、十五年二十年とたつ間には、やはりいつともなく低い処を求めて人口は移って行くであろう。そうして運命の一万数千日の終りの日が忍びやかに近づくのである。
(中略)
これが、二年、三年、あるいは五年に一回はきっと十数メートルの高波が襲って来るのであったら、津浪はもう天変でも地異でもなくなるであろう。
大津波の発生間隔が5年として、天変地異でなくなるかどうかは微妙なところですが、近代以前には毎年発生する規模の洪水氾濫は織り込み済みの土地利用がなされていたことを念頭に置いたのかもしれません。37年を日数で読み替え、発生頻度に関する属性を仮に変えてみたりと、視点の大幅な転換が、寺田のエッセイにはよくでてきます。自然現象を見直すために効果的なこの手法は、SFでよく使われます。次のような一節があります。
夜というものが二十四時間ごとに繰返されるからよいが、約五十年に一度、しかも不定期に突然に夜が廻り合せてくるのであったら、その時に如何なる事柄が起るであろうか。
「津浪と人間」の初出は、昭和津波直後の1933年。その8年後、寺田の課題提起に応えたようなSFが書かれました。アイザック・アジモフ(1920−1992)「夜来たる」(1941)です。6つの恒星からなる多重連星系にある惑星に、2500年ぶりの夜が訪れる。その惑星に住む知的生物は、高度な文明を築いていたが、文明の絶頂期を迎えるたびに炎上し滅びてしまうという伝説があった。夜を知らなかった彼らが、実際の夜の闇に直面し、恐怖に駆られて周囲のものに火をつけはじめ、伝説は現実のものとなる、という話です。
津波災害の懸念が三陸だけではないことにも言及されています。その懸念は寺田没後の1944年に起きた東南海地震、1946年の南海地震で現実となりました。過去の災厄の経験に学ぼうとしない社会に、寺田は軽妙な筆致のなかにも、強い警鐘を鳴らしています。しかし結びにあたって、未来に希望を託しています。
人間の科学は人間に未来の知識を授ける。
災害に関する科学知識の水準を高めることによって、天災の予防が可能になる。その水準を高める原動力として、寺田は教育の重要性を掲げています。
☆ ☆ ☆
寺田寅彦の作品は、作者没後50年を越えて著作権が消滅し、人類共有の財産となっています。青空文庫版(http://www.aozora.gr.jp/)を基に部分引用しました。
(財)日本地図センターは、東日本大震災で被災された学校へ地図や図書などを寄贈しています。→ 東日本大震災被災学校への地形図等の配布についてhttp://www.jmc.or.jp/other/earthquake110314/repo2.html
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2011年06月10日
東北地方太平洋沖地震/東日本大震災 (3) 須知徳平「三陸津波」
今回の大津波をきっかけに、吉村昭(1927−2006)が1970年に発表した『三陸海岸大津波』 が売れているといいます。近代以降、この作品が書かれた1960年代までに三陸地方を襲った明治三陸津波(1896年)、昭和三陸津波(1933年 ) 、チリ地震津波(1960)年について、岩手県下閉伊郡田野畑村などでの被災体験者への取材をもとにしたルポルタージュで、客観的な記録だけでなく、明治、昭和戦前期、昭和戦後期とそれぞれの時代のひとびとの防災意識などが語られています。
三陸津波について書かれた作品は他にもあります。それらのなかから、今回は岩手県出身の児童文学者である須知徳平の「三陸津波」を、次回には物理学者でエッセイストでもあった寺田寅彦の「津浪と人間」をとりあげます。
「三陸津波」は、明治の津波で夫を、昭和の津波で息子を失いながらも、下閉伊郡田老村 ( 当時 )で一生を過ごし、 チリ地震津波の前年に天寿を全うした女性の物語です。吉村作品がどちらかといえば記録性が強いのに対し、こちらはフィクションなのですが、背景として興味深い実名エピソードが紹介されています。
地震学者の今村明恒(1870−1948 )が、明治の津波について国際学会で報告したとき、壊滅的だった田老のそれよりも被害が比較的小さかった釜石の写真の方が、外国人研究者には強い印象を与えたのだそうです。波高5.4m* だった釜石では、瓦礫や陸に乗り上げた船舶などの凄惨な光景であるのに対し、波高15m* で全人口の7割以上が犠牲となった田老では人工物が全て流され、自然の砂浜と区別がつかなくなったためです。
作者の須知徳平(1921−2009)について、ご存じない方も多いかもしれません。少し前の五千円札に描かれた新渡戸稲造の『 武士道 』が1998年に再刊されたときの、英語で書かれた原作の日本語訳者です。が、それよりも「ミルナの座敷」の作者といえば、ある年代の方々はピィーンと来るのではないでしょうか。
1972年、NHK少年ドラマシリーズのひとつとして、須知徳平原作「ミルナの座敷」は放映されました。作者はこの前後の時期に、中・高校生向けの小説を多く手がけています。師事した折口信夫(1887−1953)の影響を受けた、民俗学的な事柄を背景に展開するミステリ仕立ての作品群を、当時の少年たちはワクワクしながら読んだものです。
「三陸津波 」は、作者が少年時代に住んでいた宮古で昭和の津波に遭遇し(波高3.6m*)、また地方行政官として災害救助に携わった父親をとおして交流のあった、被災家族の話などから着想を得たのでしょう。 桃の節句の未明、海底を浚う引き潮からやがて砲声のような衝撃音が聞こえ、閃光に照らされて押し寄せてくる津波の迫真の描写は、実体験した作者ならではのものがあります。
この作品は、講談社文庫から1978年に刊行された『春来る鬼』に収められています。なお表題作も1989年に小林旭の監督で映画化されました。現在は絶版のようで、古本でしか入手できないのが残念です。
* 三陸津波での各地の波高については、羽鳥徳太郎(2009)「三陸大津波による遡上高の地域偏差」.歴史地震, 第24号から引用しました。
[おことわり]今回紹介した著者や研究者は、いずれも評価が確立した方々なので、敬称は付けていません。
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