防災

2015年03月11日

 2015年3月1日夜9時からのNHKスペシャル「史上最大の救出」〜震災・緊急消防援助隊の記録〜」で、東日本大震災直後の被災地における全国から集まった消防隊員の、主にヘリコプターによる救出の模様が放映されました。

 3月11日は現地の飛行基地には入れず、12日にやっと基地に入れたものの、対策本部もてんやわんやのため、要救助者の情報が来ない現状から、現場判断で、手を振っているなどで飛行中に求められた人だけの救助しかできませんでした。それでも1日何十人と救助でき、それなりの活躍はされていました。2、3日これを行っていると、災害対策本部もやっと機能してきて、徒歩で救助に向かった消防隊員などからの情報により、要救助者のもとに直接飛べることとなりました。その時の反省点として、けがをして動けない人、家の下敷きとなりヘリコプターからは見えない人など、緊急に救助しなければならない人を見つけられなかったことが挙げられていました。
 そこで必要なのは、生存者のいる可能性のある場所の絞り込みです。ほとんどの消防隊員が初めての場所ですので、土地鑑がありません。また災害前の地図も形状が大幅に変化しているのでそのままでは使えません。そこで、手を振れない要救助者を上空から探すにはどうするかが重要です。

 昨年8月の広島の土砂災害の場合、この反省点から災害後すぐに空中写真を撮影し、災害前の画像データと比較することで、生存者のいる可能性がある場所を絞り込む地図を作成していました。空中写真の上に、被災前後の空中写真から解析した高さデータの差分を求め、赤系がマイナス(流失等)、青系がプラス(堆積等)として表示し、流出した家屋や堆積した土砂の厚さを図化したとのことでした。この地図を使って優先的に捜索するところを割り出すことができたとのことでした。NHKもこの「捜索支援地図」に注目していました。

「捜索支援地図」参考: 防災科研ニュース No.186 11頁
http://www.bosai.go.jp/activity_general/pdf/k_news186.pdf (PDFファイル)

 現在多くの地域で航空レーザーなどで詳細な高さ情報が求められてきています。このデータを使って、大災害直後撮影した空中写真を迅速に解析することで、多くの命を救うことができます。「捜索支援地図」の迅速な作成が当たり前になることを期待しています。(M)



jmcblog at 11:22 

2014年06月04日

4月24日の国土地理院のホームページに、“避難所等の地図記号を決定”とのタイトルで、国土地理院が、緊急避難場所や避難所(以下避難所等)を「地理院地図」などでわかり易く表示するための下図のような地図記号を新たに定めたことが載っていました。すなわち電子地図用の地図記号の出現です。多分初めてではないでしょうか。当面は地理院地図や内閣府の総合防災情報システムだけですが、広く電子地図への普及が期待されています。左側の場所の記号は、現在の避難所等で実際に掲示されている建物の記号と同じようなので親しみ易いのですが、右側の災害種別記号と組み合わせて表示されるので、少し複雑になっています。

避難所の地図記号修正付加
 なぜ避難所等の地図記号は電子地図用なのでしょうか。今回の発表では詳しくは載っていませんが、電子地図では避難所等の情報を速やかに表示し、変更があってもすぐ更新することができ、住民はスマホなどでいつでも最新の避難所等の情報を常に確認できるからだと思います。紙地図では、通常地図記号が2仍擁程度の大きさなのに、避難所等の地図記号は複雑なので5仍擁程度と大きくなくては表示できないこと、情報が固定化し、いざという時に現状の避難所等の情報を確認するのに不便だなどの理由があるのだと思います。

 この発表の2週間前の410日、国土地理院と国土交通省水管理・国土保全局及び内閣府(防災担当)の3者の連名で、「防災アプリの機能向上に向け公募を実施」として、“現在構築中の防災地図共用データベース(仮称)を活用して災害時の避難誘導等を図るための防災アプリ”の公募が始まりました。

 また次の日の411日には、国土地理院から「災害時避難誘導システムの共同実証実験業務」の企画競争の公示がありました。これは上記の公募された“防災アプリ”の機能向上を図るため、91日の防災の日でのデモンストレーション及び119日の和歌山県海南市での市民参加型の防災訓練での実証実験を効果的に行うための業務の公募です。

これらの動きは、昨年4月の災害対策基本法の改定を受け、市町村では避難所等を災害種別ごとに新たに指定・更新することが定められたことへの具体的な支援行動です。国として、現在の情報化社会に即した避難所等の情報の配信、取得、活用等を積極的に図っていることがうかがえます。地図にかかわる者として、この避難所等の情報が迅速に「地理院地図」に掲載され、広く活用されることを願っています。(M)



jmcblog at 11:39 

2014年03月12日

 昭和191944)年127日、熊野灘に震源を持つマグニチュード7.9の地震が生じました。3年前の東北地方太平洋沖地震による津波被害は、記憶に新しいところですが、この地震についても、尾鷲市中心部を対象に、3日後に米軍が撮影した空中写真で津波被害の惨状が明らかにされています。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsprs1975/45/6/45_6_69/_pdf (PDF)
 

 このたび、場所を変えて尾鷲市南部を対象に、当時の津波被害の状況を記憶していた方々(当時、主に小学校低学年)や、故人から津波の状況を聞いていたという方々にその空中写真(下の図の右上にその一部を示します)をご覧いただきながら、その状況を把握しました。
 

尾鷲市津波被害


 この空中写真で、地点(a)は標高約5mのところですが、石垣の上に築かれた家屋でも床上まで浸水したそうです。地点(b)には当時、小河川に木橋が架かっていましたが、津波で流失したそうです。この小河川の左岸側に当時建っていた家屋は、遡上してきた津波で流失したそうです。この空中写真でも、その場所に家屋は認められません。地点(c)の家屋は石垣の上に建っていますが、鴨居まで浸水したとのことです。地点(c)より海側には家屋が判読されませんが、当時、網干し場で、もともと家屋が建っていなかったそうです(現在の地図ではプールのある学校跡地になっています)。網干し場の海側は、写真では沈下しているように判読されます。

 地点(d)の県道は、戦後に埋め立てが海側へ拡張されてから敷設されたそうですが、当時は、海岸線に沿って埋め立てた平地に家屋が建ち並んでいたそうです。空中写真ではその家並みが判読されませんが、聞き取りによると、津波で流出したというよりも、震動でバタバタと海側へ家屋が倒壊していって、その後に襲った津波で流出したとのことです。埋め立て地が側方流動を生じた可能性があります。

 当時の津波被害の証言者が年々減るとともに、住民の方々の記憶が薄れるのも仕方のないことではありますが、わが国の防空体制をかいくぐってもたらされた米軍の空中写真は、過去から未来への、いわば『防災遺産』ともいえます。地震調査研究推進本部『南海トラフの地震活動の長期評価(第二版)』によれば、マグニチュード89クラスの地震の発生する確率は今後30年間に6070%とされています。住民の方々の過去の記憶を手繰り寄せるのに有効なツールである、米軍の空中写真が今後の防災対策の一助となることを願ってやみません。
 
 尾鷲市南部を含め、戦争中に米軍が撮影した空中写真は、日本地図センターのホームページ(http://www.jmc.or.jp/photo/NARA.html)からご購入が可能です。



jmcblog at 08:00 

2014年03月05日

図1図2
左:図1)東北地方太平洋沖地震(M9.0 )後の地殻変動(水平)ー累積ー
右:図2)東北地方太平洋沖地震(M9.0 )後の地殻変動(上下)ー累積ー
(画像をクリックするとPDFファイルが開きます)

 もうすぐ、あの未曾有の災害をもたらした「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」(3111446分頃)から3年目がやってきます。

 国土地理院は、地震直後、全国の広い範囲に配置している電子基準点(GPS連続観測点)の観測データから、地殻変動を発表し、牡鹿半島が東南東方向に約5.3m移動し、約1.2mの沈下があったことを報道しました。

更に、これは、東北から関東にかけての太平洋側が東西に広がり、日本の面積が約0.93km2拡大したこと、つまり、この拡大した面積は、東京都庁と青森県庁を直線で結んだ約580kmを縦に、東西方向の幅1.6mを横とする細長い長方形の面積の増加分に相当するとも公表しました。これは、昨年我が国が、1年間に埋め立てをして増加した面積の約半分に相当します。

電子基準点のデータは、ほとんどの観測点で1秒毎に取得され、キネマチィック解析で条件が良ければ数cmの精度で地殻変動を捉えることも可能になってきました。この1秒毎のデータから、地震時の詳細な地殻変動が分かってきました。

 それは、311日の震源に一番近い牡鹿半島周辺では、東向きの地殻変動が1.5m程度にまで成長した後、20秒ほど停滞し、その後の約40秒で5mを超える地殻変動に至ったことを記録していたのでした。このすさまじい地殻の変動は、目にすることは出来ませんでしたが、時間的な経過とともに地表面が大規模に移動する様子を目の当たりにする思いにさせられます。この詳細は国土地理院のホームページhttp://www.gsi.go.jp/cais/chikakuhendo40010.html)において動画で見ることができます。

 また、最近の国土地理院の報告を見ると、地震直後から、3年を経た現在でも月に1cm程地殻変動は続いており、牡鹿半島付近での水平の変動量(図1)は、地震時に変動した方向へ、累計で95.1cmも移動しています。また、垂直の変動量は32cmの隆起(図2)を示していますが、地震時の沈下量(約1.2m)に対して、その量まで復元するには至っていないことが分かります。

大規模な地震災害により、被災者の計り知れない大きな傷跡とともに、この地殻の変動が静穏になり、傷跡の癒される日が一日でも早く訪れることを願っています。



jmcblog at 08:00 

2014年01月27日

お正月が過ぎ、えべっさんが終わると、今年も117日がやってきました。阪神・淡路大震災の発生から19年。今年も各所でさまざまな追悼の集いが行われました。

兵庫県では117日を「ひょうご安全の日」と定めています。今年も、震災の追悼とともにその経験や教訓を継承するための「ひょうご安全の日117のつどい」が人と防災未来センター(現在の地図の中央付近、水で囲まれた建物)で行われました。この施設は阪神・淡路大震災を記念して作られ、災害・防災の研究機関であると同時に、展示スペースでは当時の揺れを再現した映像や災害当時の資料の展示、語り部の方から当時のお話を聞けるコーナーなどがあり、神戸を訪れる修学旅行や社会見学の児童・生徒が大勢訪れる観光教育施設となっています。
HAT周辺「神戸首部」範囲H26年1月地理院地図

人と防災未来センターは、HAT神戸と呼ばれる区域にあります。『東部新都心(HAT神戸)は、神戸市の中心市街地である三宮から東へ約2kmの臨海部に位置する、東西約2.2km、南北約1.0kmの区域です。東部新都心の整備計画は、平成76月、阪神・淡路大震災からの復興をめざす、「神戸市復興計画」において、シンボルプロジェクトのひとつとして位置づけました。』と神戸市のサイトに説明があるように、早くから復興住宅が建てられ、神戸防災合同庁舎や兵庫県こころのケアセンター、赤十字病院など、有事に備える施設や医療研究施設等も設置されています。

HAT周辺「神戸首部」H2年修正

この土地には大正6(1917)5月に川崎造船所(後の川崎製鉄)が設置し、約80年にわたって製鋼・製鈑工場として生産を続けた「葺合工場」がありました。震災でこの工場も被災したのですが、それ以前から工場の閉鎖は決まっていて、跡地の開発計画がなされていた、そのさなか震災が起きたのです。復興計画において通常ならばまず用地の確保から行わなければならないところ、そのような経緯からこの地区は、結果的に震災前とまったく異なる広大な新しい街並が広がる地区となりました。

HAT周辺「神戸」假製2万M18年測図

もともとこの場所は、明治時代に作られた埋立地。現在はさらに神戸港内の埋め立てが進んで海を挟んでさらに埋立地が広がっていますが、明治18(1885)年測図の假製2万「神戸」を見ると西国街道より南には砂浜の海岸線が続いており、現在とはかけ離れた海岸線を形作っていたことが分かります。現在の場所が昔のどこになるのか、判断するときにいい目印になるのが神社です。現在の地図をみると、国道の北側に「敏馬神社」という注記があります。(地理院の地図には“みるめ”と仮名がふってありますが、現地の説明板には“みぬめ”とかかれています。)明治18年の地図には神社名の注記はありませんが、「岩屋村」という注記の下に円周率のπに似た神社記号が描かれています。神社の位置を目印に見比べてみると、完全に現在のHAT神戸は明治時代には海の上です。

 19年前の地震だけでなく、空襲や水害にも見舞われてきた神戸。地図で読める変化は実際にその街で暮らしている人たち一人ひとりの想いまでは表しきれませんが、傷ついた街をよりよくしようと努めてきた方たちの想いが重なって現在につながっている。港に響き渡る追悼の汽笛を聴きながら、生まれ変わる街の歴史を想いました。



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2013年08月08日

 歴史学が防災や復興に生かされている動きが、日本経済新聞(平成25718日付)朝刊に紹介されていました。この記事によると、東北大学の災害科学国際研究所による津波シミュレーションに津波到達地点をなど史料の記録が反映された結果、慶長三陸地震(1611年)の地震の規模を現わすマグニチュードが従来の8.1から8.5に計算し直されたことが紹介されていました。資料に加え、津波到達地点の標高や海からの距離などの分析には、まさに“地図の力”が必要だったと思っています。

 また、古くから伝わる祭りや地元行事の記載が被災住民の心のよりどころとなるものもあり、史料には復興の議論の過程で焦点を当てられるべきものがあること、東京電力福島第1原発周辺区域にある史料の保護が地道に続けられていることが紹介されていました。

 津波のシミュレーションにせよ、史料の古い記載の保存にせよ、想定される被害の範囲や、記載されている事実の対象範囲をマッピングすることは、それらの空間的な広がりや関連を一覧して理解する上で、大変重要なことだと思われます。そのような歴史学にも“地図の力”が重要なことを、地図に携わっているものとしてうれしく思っています。

 



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2013年06月19日

丹那断層
 1933(昭和8)年の6月19日、丹那トンネルが貫通しました。東海道本線は、東京から西日本主要地域を結ぶ最も重要な陸路でしたが、箱根火山の北側を迂回する区間には25‰の連続勾配があり、長距離列車の牽引重量が制限されていました。そこで、国府津から分岐し小田原を通って海岸沿いに進み、熱海から長大トンネルで抜けて沼津で在来線に合流する、新ルートが計画されました。

 箱根火山の南にある丹那盆地の地下を通ることから、この長大トンネルは「丹那トンネル」と命名され、1918(大正7)年に着工されました。予定工期は7年間で、1925(大正14)年に完成させる計画でしたが、箱根火山に隣接する多賀火山の基底部を掘削することになり、大量の出水に悩まされる難工事となりました。トンネルへの出水は丹那盆地を潤していた地下水を涸らすことになり、鉄道省は難工事に加えて、丹那盆地の渇水対策にも追われることになりました。

 1923(大正12)年9月1日、相模湾を震源とする関東大地震(M7.9)が発生。丹那トンネルに取り付ける新線のうち当時既に開業していた根府川駅では、地震動により崩壊・流動してきた火山砕屑物に走行中の列車が押し流される惨事が起きました。しかし掘削中の丹那トンネルは無事でした。
Jishin_KitaizuF 1930(昭和5)年11月26日早朝、函南側工区で突き当たっていた断層が活動し、いわゆる直下型地震が発生しました。北伊豆地震(M7.3)です。現・三島市で震度6となり、死者行方不明者272人の大災害となりました。震源となった丹那断層に沿って地表地震断層がいくつも現れましたが、トンネル坑内でも断層が3m近くズレ動き、切り端が塞がれるという事態が生じました。それでもトンネル本坑は壊滅的な破壊は免れ、直線で計画された丹那トンネルは、断層変位をまたいで微かなSカーブでつなぎ、3年後に貫通しました。

Bunko_YoshimuraA 丹那トンネルの営業線としての開業は、1933(昭和8)年12月1日でした。当時、東京〜大阪間で最速の交通手段であった特急「燕」は、所要時間8時間に短縮され、この記録は、第二次大戦をはさんで1956(昭和31)年11月の東海道本線全線電化まで破られませんでした。丹那トンネルの難工事については、吉村昭の小説闇を裂く道に、断層変位の件を含め、ドキュメント風に描かれています。す。

 政府の地震調査委員会によると、丹那断層を含む北伊豆断層帯では北伊豆地震を含め5回の活動履歴が確認され、その活動間隔は約8百〜1千5百年くらいで、今後300年以内の地震発生確率はほぼ0%と評価されています。現在、丹那断層を東海道本線の丹那トンネルと東海道新幹線の新丹那トンネルが貫いていますが、これらは、活断層であることを承知のうえで、その低い地震発生確率に対してトンネルを供用することの利点を享受する選択をしているのです。

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jmctsuza at 18:00 

2013年06月12日

 本日(6月12日)は、宮城県の県民防災の日です。1978(昭和53)年のこの日に発生した宮城県沖地震による顕著な被害を教訓として、宮城県が定めた日です。宮城県沖地震は、宮城県牡鹿半島東方沖の海底で、陸側のプレートの下へ太平洋プレートが沈み込むことに伴って発生したマグニチュード(Mj)7.4の地震で、死者28人を含む大きな被害が生じました。

 政府の地震調査委員会による『宮城県沖地震の長期評価』(2000)によると、宮城県の沖合から日本海溝までの海域で、18世紀以降200年あまりの間に、マグニチュード7クラスの地震が6回〜平均37年間隔で繰り返し起こっていて「今後20年以内(2020年頃まで)に次の地震が起こる可能性が高い」と結論されています。1978年の37年後は2015年で「次の地震」が肉薄してきたことから、評価確率はほぼ毎年改訂され、2009年時点では、30年以内のM7クラスの地震の発生確率は99%となっていました。
 2005年には『日本海溝・千島海溝周辺海溝型地震に係る地震防災対策の推進に関する特別措置法』が制定され、地震防災対策推進地域の指定、地震防災対策推進基本計画等の作成、地震観測施設等の整備、地震防災上緊急に整備すべき施設等の整備等について定められました。

 歴代の「宮城県沖地震」(地震調査委員会, 2000 から)
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  2013年の今、上記海域ほとんど全てを含んだ日本海溝沿いを震源とする、東北地方太平洋沖地震(Mw9.0)が2011年3月11日に発生し、死者・行方不明者約1.8万人の東日本大震災が生じたことを、私たちは知っています。
 このため、1978年宮城県沖地震は、ともすれば軽くみられがちですが、この地震は、戦後高度経済成長期以後に初めて大都市圏を襲った海溝型大地震で、当時大きな社会問題となりました。
 1978年の地震では、丘陵の住宅造成地における切土・盛土境界付近からの斜面崩壊、干拓地・埋立地での地盤液状化、家屋やブロック塀の倒壊などが多発しました。これを機に建物の耐震基準は強化されましたが、斜面や地盤に関わる同様の災害は、2011年の震災でも多発しました。かつて被災した土地を、当時を知らない世代が再び造成し入居した結果、同じ災害が繰り返された、との報告も聞きました。

切土盛土 顕著な自然災害が起きたとき固有の災害がクローズアップされ、相応に対策も進むのですが、どうも私たちの社会は、その次の災害によって注目される課題が「上書き」されてしまう傾向があるようです。1978年宮城県沖地震の直後に国土地理院が調査・図化した1:25,000土地条件図には、盛土・切土(平坦化地)の境をなるべく精密に表示する方針が垣間見えます。その場所の地図画像を掲げることで、造成地の斜面災害に対する備忘としておきます。


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jmctsuza at 17:40 

2013年06月03日

 「6月3日は何の日?」と問われたら、このブログの読者ならば迷わず「測量の日」と答えるでしょう。1949(昭和24)年のこの日に測量法が公布されたことを記念し、1989(平成1)年に当時の建設省により制定されました。

  6月3日はまた、日本の自然災害史でも忘れられない日です。1991(平成3)年のこの日、長崎県の活火山・雲仙岳で発生した火砕流は麓の島原市北上木場地区に達し、43名の方々が巻き込まれ亡くなりました。

  雲仙岳の噴火活動は、1990(平成2)年11月に始まりました。「島原大変肥後迷惑」で知られる1792年の活動から198年ぶりの再開でした。最初は、当時の最高峰*・普賢岳(1359m)付近の地獄跡火口などからの小規模な水蒸気爆発が散発する程度でしたが、1991年5月20日に地下のマグマ本体が地表に達して溶岩ドームが出現し成長し始め、24日には熔岩ドーム縁辺部の崩落による火砕流が発生し始めました。25日、九州大学島原地震火山観測所に全国から駆けつけた専門家が討議し、その夕刻に「火砕流」という語を入れた火山情報を発表しました。が、結果的にその意は十分に伝わりませんでした。そして6月3日を迎えます。

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 平成噴火前の普賢岳.1:25,000地形図「島原」(1977年修正測量)から.
 → 現在の普賢岳/平成新山(電子国土)

 「火砕流」という用語は、専門家の間ではすでに使われていました。フランス領西インド諸島にあるモンプレー火山1901年噴火で熔岩ドームから生じた「熱雲」による壊滅的な災害の記録などから、怖ろしい現象であることは知られ、また日本国内の火山周辺でも多くの火砕流堆積物が見いだされ記載されていました。しかし、専門家含め多くの人々にとって、それが実際に目の前で起きているところを見たのは、おそらく初めてのことだったと思います。
  5月25日発表が、事後の目からみて控えめな表現だったことについては、いろいろ議論があります。混乱防止を「配慮」した人もいたとは思いますが、あるいは、それまでの知見と目の前の現象との微妙なズレが、突っ込んだ発表を躊躇させたのでは、とも考えられます。

  地震とは対照的に、火山噴火は山体観測などからある程度予測され、事前避難に成功した事例があります。一方、余震が全般的に減衰していく地震と異なり、火山活動の「終わり」を見極めるのは極めて困難で、大規模噴火では避難が長期化する傾向にあります。戦後最大級の火山災害を生じた雲仙岳「平成噴火」は、島原地震火山観測所長(当時)の太田一也さんが1996年6月に「終息宣言」を発することで、地元の人々が災害対応の区切りをつけることができました。「雲仙岳のホームドクター」と慕われた太田一也さんは、引退後も講演会や解説記事執筆などで、多忙な日々を過ごされました。それらを読むと、警戒区域などの線引きについて行政との葛藤など多くの苦労とともに、計44名の命を救えなかったことの無念さが伝わってきます。

 現在の雲仙岳最高峰は平成新山(1483m)です。平成噴火の熔岩ドームで、長崎県の最高地点でもあります。5年間という短期間に形成された険しい不均質な山体はまだ不安定で、火砕流の危険は当面ないにしても重力による崩落の可能性をはらんでいます。国土交通省雲仙復興事務所では、観測を拡充するとともに、委員会を設置してハード・ソフト両面での対応策を検討しています*。

 雲仙岳平成噴火によって、「火砕流」という用語は一般に知られるようになりました。いま長崎県島原市にある雲仙岳災害記念館 がまだすドーム**多目的ホール前では『火砕流の爪痕展〜日本のポンペイ発掘最前線〜』が催されています。


* 委員会資料は、雲仙復興事務所のWebサイトで公開されています。
** 「がまだす」とは島原のことばで「がんばる」という意味。


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jmctsuza at 16:08 

2013年05月09日

 火山としての富士山について、何人もの研究者がその形成史・活動史の解明に取り組んできました。なかでも、故・津屋弘逵さん(東大地震研)、町田洋さん(東京都立大)、故・宮地直道さん(日大)らによる調査研究成果が大きく貢献しています。

 現在の富士山が、小御岳、古富士という古い火山を土台として積み重なっているという津屋さんが示された火山体構造は、古典として確立されています。

Kazanbai 町田さんは、火山灰などの降下火砕物(テフラ)の層序から、約10万年間にわたる活動史と関東平野はじめ周辺の地形発達史との関係を明らかにされました。火山灰は語る』(1977)は、地道な現地調査と柔軟な考察から自然史を解き明かしていく醍醐味を追体験できる名著です。富士山の何層ものテフラに挟まっていたガラスに富んだ火山灰を分析し、その分布を追跡したところ南九州の大規模火砕流堆積物シラスにつながり、2万数千年前の氷期に姶良カルデラで、日本列島の大半を火山灰で覆い尽くす巨大噴火が起きていたことを突きとめる章では、良質なミステリにも似た読後感を味わえます。
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御殿場市柴怒田の火山灰の露頭(1980年撮影).
矢印で結んだ地層が姶良カルデラ起源のガラス質火山灰.

 宮地さんは、宝永噴火(1707)、貞観噴火(864)および弥生時代の山体崩壊など、比較的新しい時代の活動について具体的なモデルを提示されました。火山土地条件図「富士山」(国土地理院,2003)の作成にあたっては、検討委員のひとりとして地形分類について全面的な助言をいただきました。
 宮地さんが示された宝永噴火の推移は、富士山の防災対策における噴火想定のひとつとなっています。貞観噴火は、噴出物の量から歴史時代では最大規模の噴火で、2011年東北地方太平洋沖地震・津波に匹敵する規模だった貞観地震・津波(869)に近い年代に起きていることから、関心が高まっています。

 御殿場市周辺に山体崩壊を示唆する岩なだれ堆積物が分布していることについては、すでに津屋さん・町田さんも言及されていましたが、宮地さんの調査結果は衝撃的です。約2900年前、強い地震動により富士山で大規模な崩壊が生じ、山体の破片は岩なだれとなって流れ落ち、東山麓を埋め尽くしました。崩れたのは、現在の富士山の東に接していた古富士の山体で、火山活動による熱水変質を受けた地層がすべり面となって崩壊したそうです。ということは、崩壊直前の富士山の山容は東西非対称で、しかも双耳峰だったらしい。

 弥生時代の東山麓に住んでいた人々にとって山体崩壊は大災害ではあるけれど、このとき形成された広大な裾野には御殿場市街のほかに多くの工場もあり、日本経済を支える産業の立地空間を提供しています。現在の富士山は、宝永火口や大沢崩れなど、眺める向きによりるアクセントはありますが、全体的には八面玲瓏の美しい姿が文化遺産を構成する根源となっています。しかし百年〜千年単位でみると、人間社会の都合で仕分けた「自然」も「文化」もまとめて呑み込んでしまうような、地形・地勢を一変させる活動の繰り返しによって、美しい風光が造られてきたのです。


 富士山、世界遺産へ (1)
 富士山、世界遺産へ (3)
 富士山、世界遺産へ (4)

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jmctsuza at 09:30 

2013年04月09日

 国土地理院が全国約1200点以上設置している電子基準点は、我が国の国土の位置を決定する測量の基準点として広く利用されています。 外観は高さ5mのステンレス製の太い柱で、概ね20〜30km間隔で学校や公共施設の敷地に設置されており、目撃された方も多いでしょう。

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 電子基準点のいろいろ. 
国土地理院のWebサイトから引用.

 最上部の白い半球状のドームの中に測位衛星からの信号電波を受信するアンテナがあり、胴体内部に受信器と通信機器があります。基礎部には電子基準点付属標と呼ばれる金属標が埋設されており、三角点と同様な利用ができます。さらに、この付属標に近傍の水準点から直接水準測量を行って二等水準点相当の高精度な標高値を与え、水準点としても利用出来るものもあります。

 この4月1日、国土地理院から「全国の電子基準点で観測した(引用者補完:GPSに加えて)準天頂衛星(日本)及びグロナス(ロシア)のデータ提供を開始します。昨年7月から東北地方などで先行提供を開始しましたが(全国の15%をカバー)、平成25年4月1日に東日本のデータ提供を開始し(同40%)、5月10日を目途に全国のデータ提供を行う予定です。」という発表がありました
〈 → 国土地理院の発表資料

 GPSはGlobal Positioning Systemの略で、上空約2万km の軌道を周回する測位衛星の電波信号を利用する測位システムのひとつであることは、よく知られています。アメリカ合衆国の国防省が運用し、測位信号は全世界に無償で公開されています。民生向きに使える衛星測位システムが長らくGPSだけだったので、これが一般名詞のように使われてきましたが、近年はGNSSという用語が使われるようになってきました。

 GNSSはGlobal Navigation Satellite Systemの略で、いろいろな衛星測位システムの総称です。今世紀に入ってから、ロシアのГЛОНАСС(GLONASS)の再構築が進み、日本の準天頂衛星(QZSS)やEUのGalileoなど各国の衛星測位システムの構築も始まり、測量機器も各システムに汎用できるものが主流になってきました。

 衛星測位では、観測点から最低限4個の測位衛星の電波を同時に受信できる(=衛星が同時に見える)ことが必要です。衛星の軌道配列はそれを配慮していますが、実際は樹木や建物で遮蔽されることもあります。多くの衛星が共通に利用出来れば、同時に見える衛星も増え、測位精度の全般的な改善につながります。国毎に独自に使うよりも、技術情報を開示して共用する方がお互いに得をするという、国際協力の好循環のようなお話しです。

 電子基準点と標石のみの三角点との大きな違いは、観測装置が基準点に組み込まれていることで、自身の位置を常時連続的に観測していることです。このことは、地殻変動が活発な日本列島にあってきわめて有用です。同様の連続観測施設は、外国にもありますが、日本列島ほど高密度に展開されている例は殆どありません。
 電子基準点網の整備は、測量の基準としてだけではなく、地殻変動の連続的な監視が大きな目的でした。これによって火山噴火の推移の予測精度が高まり、北海道の有珠山では2000年噴火直前の住民避難に貢献しました。また、測量の基準としても、地殻変動の影響を補正する情報の提供が可能になっています。
〈 → 国土地理院「平成25年3月の地殻変動について」〉
〈 → 国土地理院セミ・ダイナミック補正


000027552 電子基準点の地図記号は、三角点の記号と電波塔の記号とを組み合わせた図柄でその機能を表しています。なお、地形図や地勢図で場所を確かめて見学するときは、敷地の管理者の許可を得てください。国土地理院地図と測量の科学館の傍にある「つくば3は最も気軽に見学できる現役の電子基準点です。


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jmctsuza at 09:40 

2013年03月11日

 今回の記事、最後まで読んでいただければ3月11日に掲載した意義は解っていただけるとは思いますが、導入部を拡げ過ぎました。2011年の大震災で亡くなられた方々には安らぎを、そして大切な人・ものをなくされた方々にさらなる希望がもたらされますように・・・。

  ☆  ☆  ☆

 3月16日(土)、東急東横線と東京メトロ副都心線との相互乗り入れが開始されます。これにあわせて、地図中心486(2013年3月)号の特集は「相互直通運転」です。日本の東京圏を中心に鉄道の相互乗り入れや第三セクター鉄道の線路共用について、それらの地図表現と合わせて紹介します。国内の事例については次回にして、今回は外国の鉄道の相互乗り入れに関わる話題です。

 多くの国々が国境を接するヨーロッパでは、国鉄同士の相互直通による国際列車網が発達してきました。現在の主役はTGVやICEといった日本の新幹線に匹敵する高速列車です。関係国が共通仕様の高速車両を用意し、シェンゲン協定により国境審査も省略された旅は、国内列車と変わりません。これに対し、19〜20世紀の国際列車の旅では、国境審査の緊張感と、それ故に国境の向こう側への期待感・不安感が交錯する独特の雰囲気を味わえました。

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 オリエント急行の運転区間と旧ワルシャワ条約機構の加盟国・地域(1960-70年代・橙色)

 国際列車の代名詞ともいうべきオリエント急行については、1年ほど前にこのブログでも採りあげ、今回の特集ではその記事をベースにしたコラムも設けました。
 オリエント急行が華やかだった時代は帝国主義の時代でもあり、ヨーロッパ列強が東方世界へと踏み込んでいく列車でした。2つの世界大戦をはさんで冷戦期になると、オリエント急行は東西両陣営を結ぶ列車となりました。政治的に対立する国々の車両が併結され、鉄のカーテンを越えていました。厳しい国境審査の片鱗は、冷戦終結後の1990年代にも残っていました。しかし、旧東欧諸国が次々とEUに加盟し、多くの課題は抱えながらも統合が深化するとともに、国際列車の特殊性・特権性は薄れました。
 オリエント急行は、TGV東ヨーロッパ線の開業により運転区間が短縮され、2009年に廃止されました。政治・文化が異なる地域を結び走り続けた国際列車は、それらの地域の統合が進むことで、その使命を終えたのでしょう。
 
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 ハンガリーの首都ブダペスト東駅に到着したオリエント急行(1998).

 オリエント急行全盛期に造られた客車が、いま箱根の美術館に展示され、ルネ・ラリックがデザインした見事な車内を見学できます。NEC_0012
 この4158号車は、あるテレビ局の記念事業として、同系の寝台車・食堂車とともに日本国内の鉄道線を走ったことがあます。狭軌用台車に交換され、高いホームが支障しないよう一部部品も外されたりしましたが、牽引する日本の機関車から全車のブレーキそのまま制御することができました。

 鉄道が相互直通する基本中の基本条件は、世界共通のブレーキシステムです。その原理は、編成を貫通するブレーキ管に込めた圧縮空気の減圧によってブレーキを作用させるものです。もしブレーキ管が壊れて空気が抜けたら全車に非常ブレーキがかかります。
 フェールセーフとは、障害が発生したとき安全側(safe)に壊れる(fail)仕組みです。一般には「障害の発生を想定して、被害を最小限にとどめる仕組み」と広義の概念が知られていて、これも間違いではありませんが、「想定」と「仕組み」との間に余分な要素が入り込む隙があります。非常時に、例えば緊急冷却装置を発動するような仕組みよりも、常用している装置が、非常時にも同じ原理で、より強く働くようにする方が、安全性が高くなります。

 新幹線など最近の車両のブレーキは電気制御方式になっていますが、このフェールセーフの設計思想は受け継がれています。2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震の強いP波を沿岸域で検知し東北新幹線は緊急停電、全列車のブレーキ回路電圧がゼロとなって非常ブレーキが作動し、さらに強いS波が襲ってくる前に安全に減速していました。

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《追伸》
3月1日に掲載した「環境指標の分布を地図でみる」は、見かけが単調だったので画像を追加しています。



jmctsuza at 14:46 

2013年03月01日

 今日3月1日はビキニ・デー。1954(昭和29)年のこの日、アメリカ合衆国が当時は信託統治領であった太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁で、最初の水爆実験を行いました。近くの海域を航行していた約一千隻以上の船とその乗組員が被曝し、そのなかに日本の遠洋マグロ漁船第五福竜丸も含まれていました。

 ビキニ環礁は、1990年代に行われたIAEA(国際原子力機関)の調査から「永住に適さない」と報告されました。現在では短期間の滞在は問題無いレベルまで放射線量は下がっており、ダイビングスポットとして利用されていますが、永住者は居ません。2010年には、核実験が行われ大きな被害が生じた場所として「負の遺産」という意義で、世界文化遺産に登録されました。

 第五福竜丸は、後に東京水産大学(現・東京海洋大学)の練習船として使われていましたが、1976年から東京都江東区夢の島に建てられた都立第五福竜丸展示館に保存・展示されています。

 3月1日はまた、NASAの地球観測衛星LANDSAT5号が1984年に打ち上げられた日でもあります。1972年に打ち上げられた最初の地球観測衛星であるLANDSATシリーズの第二世代というべき衛星で、2009Landsat5設計寿命(3年)を大きく越え、今年1月まで現役で使われてきました。打上げ当時としては画期的な空間分解能・スペクトル分解能を実現し、これ以降、日本でも衛星画像の利用が大きく進みました。

 現在、国土環境モニタリングとして、国土地理院が大学等と協力し地球観測衛星TERRAまたはAQUAが観測したデータを解析し、全国の植生の活性度を表す地理空間情報を提供しています。

 環境指標のように、特に知らせたい情報(主題情報)を地図上に展開し公開するとき、基図として利用出来る地図サイトがいくつもありますが、日本国政府の公式見解に裏付けられたサイトとしては電子国土が唯一のものであり、多くの行政機関が電子国土サイトとして利用しています。文部科学省の放射線量等分布マップ拡大サイトが代表的です。

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jmcblog at 15:30 

2013年02月22日

 2月8日(金)9日(土)に、立川断層のトレンチ調査の公開があったので、観てきました。

 立川断層は武蔵野台地の西部を横切る活断層で、東京都青梅市から立川市を経て府中市まで、北西−南東方向に全長約20kmあります。埼玉県入間郡名栗村から青梅市にかけての名栗断層と合わせ、政府の地震調査委員会の長期評価では「立川断層帯」と総称されています。過去の平均的活動間隔は約1〜1.5万年、今後100年内の地震発生確率は2〜7%、発生地震の規模はマグニチュード7.4程度と評価されています。

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 都市圏活断層図「青梅」 国土地理院(1996)

 立川断層の発見者は、国土地理院の技術者です。1970年代の中頃、土地条件調査で武蔵野台地の地形について空中写真を使って判読しているとき、段丘面を切る直線状の斜面を見出し、これを「立川断層」と名付け学術雑誌に報告しました。その後、東京都立大学(現・首都大学東京)の山崎晴雄さんが、この断層に沿って地形・地層を精力的に調査し活動履歴を明らかにされました。

 今回の公開は、文部科学省のプロジェクト立川断層帯の重点的調査観測の一環として、東京大学地震研究所が実施している地表付近の構造や活動履歴を推定するためのトレンチ(溝掘削)調査です。立川断層のほぼ中央部、自動車工場の跡地で、現在は宗教法人が管理している用地を借り受けた掘削したということです。

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 写真のように、立川段丘を構成する礫層を変位させた断層露頭が現れていました。調査結果は、地震研究所ほか大学の合同調査チームから発表されるはずです。現地には、調査チームによる観察結果の速報的な説明盤も掲げられ、これまでの立川断層像の再考を迫る知見が得られつつあることを伝えていました。

2013年3月28日追記
 本日、このトレンチ調査を行った合同調査チームから調査結果を訂正する発表(PDF:6.1MB)がありました。
 当初の発表では、立川礫層には撓曲崖変形にみあう構造が見られないにもかかわらず、ズレを現したとみられる縦方向にはさまった岩片(上写真の中央やや左下の淡色の箇所)がみられたことから、横ずれ活動の可能性も指摘されました。しかし追加調査の結果、この変形は、以前この地に在った自動車工場(都市圏活断層図の基図に当時在った工場が描示されています)の基礎工事の跡である可能性が高く、この地点では、
「立川礫層を切る明瞭な断層は、認識できない。」
「したがって、榎トレンチ(引用者註:このトレンチの名称)の結果として、立川断層は横ずれ断層であるとした判断は、成立しない」
(「」内は公表資料から引用)
と、まとめられています。なお、誤解のないようさらに追記しますが、断層変位ではないことが判ったのは、この榎トレンチ地点でのことであり、立川断層の活断層としての評価は(今のところ)変りありません。
 東京都西部の地震防災対策の根幹に関わる知見であり、速やかな訂正発表は、高く評価されるべきでしょう。また、上記見学会に来ていた土木地質の専門家からの指摘が、追加調査を行う契機となったことから、学際的な調査の重要性が再認識されたものと思います。
〈追記のみjmctsuza〉

〈jmcseno〉
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  《都市圏活断層図》



jmcblog at 10:00 

2013年01月17日

 1995年1月17日未明、明石海峡付近の地下14kmを震源とするマグニチュード7.3の地震(兵庫県南部地震)が発生し、神戸市と淡路島北部とを中心に最大震度7の強い地震動にみまわれ、死者・行方不明者6千人を超える顕著な災害が生じました。災害の甚大さから、政府(村山富市首相)は、この災害を「阪神・淡路大震災」と呼称し復旧・復興施策にかかわる文書に用いることを閣議決定しています。

 兵庫県南部地震 / 阪神淡路大震災については、このブログでも2年前に 『地震の記憶』 という表題で掲載しました。

 1995年兵庫県南部地震では、地殻変動の観測から、六甲山麓から淡路島北部にかけての地下で、全長約50kmの断層群が活動し1〜2m程変位したとみられています。
 地殻変動の観測手段として、それまで三角測量や水準測量が行われてきましたが、この頃から電子基準点観測や干渉SARの成果が使われるようになってきました。ここに引用したのは、日本初の本格的な地球観測衛星JERS-1(ふよう1号)に搭載された合成開口レーダ(SAR)が、兵庫県南部地震前後に観測したデータを国土地理院が干渉解析し、地震時の地殻変動の面的な分布を明らかにした画期的な成果です。

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 1995年兵庫県南部地震に伴う地殻変動を捉えた干渉SAR画像
 (国土地理院の干渉SARサイトから引用しました。)
 六甲山地が神戸市街に対し数十cm衛星に近づいて(隆起して)います。

 SARデータは、軌道を航行する衛星から一定幅で発信された波長約24cmのマイクロ波が地面から跳ね返ってきたもので、地表を面的に捉えています。何かの原因で地面の高さが変化した前後に、同じ軌道から同じ地域を観測したデータを合わせると、衛星と地面との距離変化の差が波長との一定比率に対応した干渉縞となった画像が得られます。精度は数cmで、衛星〜地面の視線方向の変化成分しか判りませんが、他の測量方法では難しい広域に連続した面データが得られるため、地殻変動だけでなく地盤沈下あるいは地すべりの監視などにも応用されています。

  国土地理院が定常観測に用いてきた地球観測衛星ALOS(だいち)は、2011年東北地方太平洋沖地震に伴う地殻変動を、東北地方から中部地方にかけての広域で捉えた後、力尽きたように運用停止してしまいました 〈⇒ 国土地理院による解析結果 (PDF)〉 。いま、(独)宇宙航空研究開発機構(JAXA)では、干渉解析用の合成開口レーダを積んだ後継機 ALOS-2 が今年打上げを目指して開発中です。

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     衛星写真データ



jmctsuza at 05:47 

2012年12月21日

 1946(昭和21)年12月21日4時19分ころ、潮岬南方沖の南海トラフ付近を震央とするマグニチュード(Mj)8.0の大地震が発生しました。海底のフィリピン海プレートが日本列島を載せたユーラシアプレートの下に沈み込む境界の断層が活動し、大きな地震動と津波とが南西日本一帯を襲いました。昭和南海地震です。

 駿河湾・遠州灘から四国沖にかけての南海トラフに沿って、東に隣接する海底では2年前の1944(昭和19)年12月に昭和東南海地震(Mj7.9)が発生しています。戦争で疲弊していた国土を、巨大な自然災害が相次いで襲ったのです。南海地震・津波による死者行方不明者は1330人、特に空襲を受けていた高知市の被災が著しかったと伝えられています。

 南海トラフを震源域とした大地震は、歴史時代だけでも概ね100〜150年くらいの間隔で繰り返し発生していることが知られています。政府の地震調査委員会が2001(平成13)年に公表した『南海トラフの地震の長期評価について』(PDF:9.6MB)のなかで、確実な歴史資料が得られた5時期の地震について詳しく記載しています。各時期の地震は次のとおりです。

・1498年(明応):南海(資料なし)・東南海(8.3)
・1605年(慶長):南海+東南海(7.9)・津波地震?
・1707年(宝永):南海+東南海(8.6)・同時発生
・1854年(安政):南海(8.4)・東南海(8.4)・1日後
・1944〜1946年(昭和):南海(8.0)・東南海(7.9)・2年後

 東南海地震が起きると、同時または直後に南海地震が連動して発生するパターンが見てとれます。宝永地震は、2011年東北地方太平洋沖地震(Mw9.0)の発生まで日本史上最大の地震とされてきました。また、宝永と安政の地震では震源域が駿河湾海底(駿河トラフ)におよんでいたと考えられています。

 地震調査委員会によると、次の南海地震が2001年の後40年間に発生する確率は60%程度と試算されています。これまでの発生間隔からみて、おそらく今世紀半ば頃までには確実に発生するでしょうから、いまから慌てずに備えておくことが肝要です。 

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 南海トラフの概略位置図.(地震調査委員会, 2001から)
 領域X:南海地震の震源域,領域Y:東南海地震の震源域

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jmctsuza at 04:19 

2012年12月07日

 1944(昭和19)年12月7日13時35分、紀伊半島東部沿岸の熊野灘、三重県尾鷲市沖約 20 km (北緯33度8分・東経136度6分)を震央として南海トラフ沿いの海底にあるプレート境界の断層が活動し、マグニチュード(Mj)7.9の地震が発生しました。昭和東南海地震または1944年東南海地震と呼ばれる巨大地震です。
 この地震では、東海地方を中心に四国近畿から北陸、関東甲信越地方にわたる広い範囲で震度4〜6の強い地震動が観測され、地震動と海底の地殻変動によって発生した津波が紀伊半島沿岸から東海地方にかけて大きな被害をもたらしました。
 当時は第二次世界大戦の最中で、地震・津波とそれによる被害は国民に知られず調査も十分になされなかったようですが、死者行方不明者は約1千2百万人といわれています。

 このような時代の状況でしたが、科学的な観測の面では画期的な成果が得られています。
 昭和時代初期に東海道沖および南海道沖の巨大地震発生を予測した、東京帝国大学の今村明恒博士(1870-1948)の要請に基づき、地震直前まで陸地測量部が静岡県の掛川から御前崎付近の水準測量を行っていました。 
 12月7日の観測では4mmを越える誤差が見出され、また水準儀の気泡が安定しないなどの障害から観測を中止していたところ、その数十分後に地震発生に至ったのです。その後の研究で、これらの異常は昭和東南海地震のプレスリップと推定され、このことが想定される東海地震予知の根拠の可能性とされています〈⇒気象庁|東海地震について〉。
 このときの観測手簿は、国土地理院により大切に保管されています。

 昭和東南海地震の2年後の1946(昭和21)年、昭和南海地震(Mj8.0)が発生しています。

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1944東南海地震および1946南海地震の震源モデル(Sagiya&Thatcherによる)

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jmctsuza at 13:35 

2012年08月30日

 8月も明日まで。ツクツクボウシのせわしい鳴き声を聴くたびに、夏休みの宿題に追われていた日々が想い出されます。

 今月14日付で掲載した記事で、佐藤卓己著『八月十五日の神話』を紹介しました。本書のなかに「戦没者を追悼する8月15日と、戦争責任を考える9月2日とに記念日を切り離すべきではないか」との提案があります。この記念日の改革案、趣旨は妥当ながら効果が少ないのではないかと思えます。何故なら、第二次大戦が終結した、いわゆるVJデイ前日の9月1日は、日本では「防災の日」であり、大多数の日本国民の意識は「戦争と平和」から「防災」へと上書きされているからです。

 「防災の日」は、伊勢湾台風による大災害の翌年1960(昭和35)年6月17日、閣議了解で9月1日とされました。関東大地震が1923(大正12)年9月1日に発生したことから、「この日を中心として、防災思想の普及、功労者の表彰、防災訓練等これにふさわしい行事を実情に即して実施する」とされています。実際、毎年8月下旬から9月にかけて、台風が日本列島付近に来襲し、半世紀以上前の記憶よりも、目の前の自然現象への対応に追われるようになります。

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東日本大震災:灌水したままの低地.

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デジタル標高地形図国土地理院が公開).灰色の区域が津波による灌水部.

 東日本大震災では、被災状況を表す優れた地図成果が公表され、復興用地図が提供され、さらに液状化などの被害発生条件を知るため旧版地図の閲覧が増えたりするなど、地図と防災との関わりは強くなっています。地図に関する学術団体である日本国際地図学会の本年度定期大会では、8月23日午後に、シンポジウム「減災のための地図のあり方を考える」が催されました。
 遠藤宏之さん(螢優ストパブリッシング)の呼びかけに応えて、牛山素行さん(静岡大学防災総合センター)、石黒徹さん(横浜市政策支援センター)、井口隆さん((独)防災科学技術研究所)、羽鳥達也さん(日建設計)ら、防災に関する情報や考えを日々発信されている方々がパネリストとして登壇されました。

 地図と防災といえば、「わかりやすいハザードマップ」「誰でも使えるハザードマップ」、とよく言われますが、このシンポジウムでは違いました。冒頭から、牛山さんの『「わかりやすいハザードマップ」が被害軽減に直結しない』という刺激的な題の講演で、防災地図の位置づけが相対化されました。
 竣工すれば直ちに効果を発揮するハード防災に比べ、ソフト防災としてのハザードマップや避難地図は、完成しても、受益者・利用者がそれを理解し活用しなければ効果を発揮できないこと、そして、内容や使う環境をどんなに充実しても「使わないひと」が必ず相当数いることを前提とすべきことが指摘されました。
 では、どうしたらよいのか?牛山さんの提案は、防災に関わる判断をする「絶対に使ってもらいたいひと」を見つけ出すこと。

 羽鳥さんの「避難地形時間地図(通称:逃げ地図)」が、シンポジウムの全体テーマに対するひとつの解答でした。ハード防災の一種ともいうべき、津波からの避難タワーなどの設計に関わる立場から、減災に効果的な街づくりの合意形成のためのツールとして地図(GIS)を用い、地元のひとびとも参画して、避難経路と所要時間とを視覚化した事例です。

 このシンポジウムについては、遠藤さんやパネリストの方々自身が、各々発信している情報サイト(例えばここ)でも言及しておられ、Twitterでも同時進行的に話題が拡がり、Togetter と呼ばれるとりまとめもなされています。
 横浜市の震災や戦災の地図から驚くべき事実を抽出された石黒さん、ライフワークというべき地すべり地形分布図について紹介いただいた井口さんによる講演も含め、詳しく知りたい方はそれらもご覧ください。また、主催した日本国際地図学会でも、学会誌等で改めて報告されるはずですので、関心のある方は入会して購読してください。

IMGP2377sp 東日本大震災では、原子力発電所事故だけでなく、震災瓦礫処理や津波被災地の再建方策など解決すべき課題も多く、復旧・復興がなかなか進まない現実もあります。
 しかし、多くのひとびとが現地に赴き、それに向けた地道な仕事に取り組んでいることは忘れないようにしたいと思います。


 ☆ 9月4日、一部追記しました。 
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 文部科学省放射線量等分布マップ拡大サイト



jmctsuza at 11:00 

2012年07月27日

見にウォーク(5a)からの続きです。

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土地の高さと験潮
 三浦半島のなかでも海岸の出入りが特に著しい西南部、東西に細長い諸磯(もろいそ)湾からさらに深く湾入する油壷湾。外海の波の影響が少ないためヨットの係留地としても有名です。ここに国土地理院の験潮場があり、日本の地図における高さの基準のための重要な観測を行っています。

 日本の土地の高さ(標高)は、東京湾平均海面を標高0mとして測られています。実際の海面は波や潮汐などで常に変動していて高さは一定していませんが、長い期間連続的に観測(験潮)し、その平均をとることで一定の高さが得られます。これを平均海面といいます。東京都千代田区にある日本水準原点では、東京湾平均海面上の標高値が固定されていて、離島を除く日本全国の水準点の標高値は、この水準原点との高さの差から求められています。
 最初に東京湾平均海面が決められたのは1884(明治17)年です。これはその11年前から隅田川河口に設けられていた霊岸島量水標による潮位観測から求められました。国土地理院の前身である陸地測量部が発足した3年後の1891(明治24)年、日本水準原点が設置され、これとともに海に面した6個所の験潮場で本格的な潮位観測が始まりました。
 外洋の波浪の影響がより少ない油壷に験潮場を設置されたのは、1894(明治27)年のことです。それまで千葉県銚子の高神村に設置されていた験潮場を廃し、そこの資材をそのまま利用して移設したと記録されています。
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 現在、油壷には新旧2つの験潮場が仲良く並んでいます。古い建物はアンティークな赤レンガ造りで、120年に迫る歴史を感じさせます。もう一方の新しい建物は、灰色の石造りで周囲の自然の色調からはみ出ないようデザインされ、GNSSアンテナが附属しています。お互い鼻を突き合わせるようにして、ヒッソリと海面の高さ(潮位)を観測し続けています。
 験潮場は、海中から導水管という長い管で海水を井戸に引き、この井戸にフロート(うき)を浮かべ、そのフロートが上下する量を観測・記録する施設です。この験潮場から約90km離れた日本水準原点へ、水準測量により毎年取付け観測が行われ、水準原点の高さを点検しています(→国土地理院による解説

関東大地震
 旧験潮場の基礎が載る岩棚の海側に、高さ2mあまりの細長い石柱が突き刺さっているかのように垂直に立っています。石柱の正面には上から下まで縦に幅広い溝が刻んであります。この溝には木製の量水標(水位標)がはめ込まれていたようです。これは、験潮儀の記録紙が描く潮位が実寸でなかったため、実際の干満を量水標により読み取り、験潮儀の縮率を決めるために置かれたものと思われます。また、験潮儀が故障の際には、海面の動きをこの量水標を用いて測定していたようです。
 しかし現在、この石柱は岩棚ごと干上がっており、量水標として使うことができません。本来の目的を失ったその姿は、なにやらみすぼらしく恥ずかしげです。

 1923(大正12)年9月1日、首都圏に大きな被害(関東大震災)をもたらした関東大地震(Mj7.9)が発生しました。このとき油壷験潮場では1.4mもの潮位低下、つまり地盤の隆起を観測しました。2011年に発生し東日本大震災をもたらした東北地方太平洋沖地震(Mw9.0)では、太平洋岸の広い地域で地盤の沈降が観測されましたが、関東大地震では、三浦半島南部だけでなく、房総半島や相模湾奥の大磯付近を中心に広範囲で地盤の隆起が観測されました。
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1923年をはさんだ潮位記録(クリックすると拡大します)

 関東大地震では、震源断層が浅く一部は陸域下にもかかっていて、海溝型地震であるにもかかわらず、直下型地震にも似た激しい地震動が神奈川県南部を襲い、隆起域の一部が陸上にも掛かったのです。
 この地球科学的事象は、験潮儀の記録紙にだけでなく、量水標跡とそれが載る岩棚自体が干上がってしまったことで、建物と地形にも保存されているのです。前回(5a)ご紹介した海岸の岩棚は、三浦半島南部から房総半島南部にかけて広く分布し、これらの地域が釣り人に愛好されているのですが、これは関東大地震の痕跡でもあるわけです。

 油壷験潮場からの水準測量で取り付けている日本水準原点の標高値は、関東大地震での地殻変動により改訂されましたが、東北地方太平洋沖地震でも変動が観測されたため、再度改訂され、現在は東京湾平均海面上24.3900mとされています。
  新旧の験潮場では、引継ぎのための並行観測を終え、赤レンガの験潮場の存続が論議されているようです。大地震の地殻変動が保存されている石柱・建物ともどもこの地から失われることがないよう願っています。
(ここまでの2項は、jmchakoによる)

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週末には岬をめぐろう
  『岬めぐり』という歌があります。山本コウタロー&ウィークエンドというフォークグループの代表曲で、1974年にヒットしました。失恋の歌なのですが、伸び伸びとした曲調から、夏の北海道のバス旅を連想していました。山本コウタローさんによると、北海道や四国を思い浮かべて作曲したそうですが、後に作詞者の山上路夫さんとの対談で、舞台は「三浦半島だ。」ときかされ驚いたそうです*。
 いわれてみれば、雄大な北海道では、岬へ行くだけで大旅行になり「めぐる」という感じではないかもしれません。それに比べ、三浦半島ではバス路線網も充実しており、荒磯と砂浜が交互にみられる海岸沿いを走れば、岬は次々と現れてきます。地層による浸食の違いや地殻変動が、海岸線の出入りが著しい地形を造ったのです。

  三浦半島は、東京とその近郊から、週末に日帰りまたは1泊で気軽に訪れるのにちょうどよい海浜リゾートです。岬めぐりのバス旅に最適な切符があります。京浜急行「三浦半島1DAYきっぷ」「三浦半島2DAYきっぷ」、で、半島の主な路線バスに自由に乗降できます。
 変化に富んだ地形・風光を楽しみ、三崎港で陸揚げされたマグロを味わい、そして地震と地殻変動について少し心に留めたら、週末旅を終えて三崎口始発の快特電車に乗って街に帰りましょう。三崎口駅の案内チャイムのメロディは『岬めぐり』です。
 帰りの車中では、心地よい疲れに身をまかせていればよいのですが、2駅目の津久井浜から次の京急長沢との間では、もう少しだけ地形に注目してください。丘陵を短いトンネルで抜ける直前、上下線路が少し離れるあたりは、関東大地震時に地表地震断層が現れたところです**。

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 1:25,000都市圏活断層図「横須賀・三崎」***から

*  佐藤晴美(2005):「岬めぐり」の"岬"をめぐる.荷風!Vol.3. 日本文芸社.

** 太田陽子・山下由紀子(1992):三浦半島の活断層詳細図の試作.活断層研究, 10.

***渡辺満久ほか(1996):1:25,000都市圏活断層図「横須賀・三崎」.国土地理院技術資料D.1-333.

 (見にウォーク (5) おわり )
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Hama_Jiso



jmctsuza at 14:30 

2012年06月28日

 (財)日本地図センターは、国土地理院による災害復興計画基図(DMデータ)のオンライン刊行を行っています。

 災害復興計画基図は、2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震による災害(東日本大震災)からの復興計画や新たな街づくりの計画に用いることができる基図(いわゆる「白地図」)で、同年の5月から9月にかけて撮影された空中写真から道路や建物、地形等の地図情報を読み取り、現地調査で確認をした上で作成した詳細な地図です。

  公共測量標準図式に則り、交通施設、建物、土地利用等のほか、仮設住宅やがれき集積地、休止中の公共施設等が、縮尺1/2,500(福島県沿岸部の一部は縮尺1/5,000)で表示されています。さらに3月11日地震に伴い沈降などが生じた場所の等高線(2m間隔)や津波による湛水域も描かれているので、新たな防災対策にも有用です。

 災害復興計画基図の作成範囲は、青森県八戸市から福島県いわき市にかけての沿岸部、4県39市町村の、津波被災区域・都市計画区域(約5千平方km)です。
reconstructionmap
 整備範囲(国土地理院広報から)

  なお、この製品には表示ソフトは添付されません。GISユーザー等のプロ向け製品ですのでご注意ください。また、刷地図としては刊行しておりませんが、電子国土Webによる閲覧サイトがあります。ご利用ください。

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jmcblog at 16:00 

2011年07月08日

 
   地震・防災関係の書籍が相次いで刊行されています。本年(2011年)6月9日に発行された寺田寅彦『天災と国防』(講談社学術文庫)もそのひとつで、「津浪と人間」など災害について言及したエッセイ12編が収録され、これに失敗学に関わる著作の多い畑村洋太郎東京大学名誉教授による38ページにも及ぶ解説が付いています。この解説自体が、自然災害に関わる危機管理についての小論となっていて、充分に読み応えがあるのですが、ここでは寺田の著作をみていきましょう。
  寺田寅彦(1878−1935)といえば、東大地震研究所に勤めた地球物理学の研究者であるとともに、夏目漱石門下のエッセイストとしても知られています。「天災は忘れた頃にやってくる」はあまりにも有名です。この言葉を文字通り書いた文章は無いといわれていますが、本書に収められた12編のなかで、同趣旨の考察が何度も書かれています。
  今回の東北地方太平洋沖地震・津波は千年に一度の規模といわれています。ただし三陸海岸に限っていえば、明治三陸津波(1896年)以降、顕著な災害をもたらした津波が襲ってき間隔は、37年、27年、51年です。ひとが忘れないうちに対策を施し得る期間内にあるように思えるのですが、寺田はこう書いています。

さて、それから更に三十七年経ったとする。その時には、今度の津浪を調べた役人、学者、新聞記者は大抵もう故人となっているか、さもなくとも世間からは隠退している。
(中略)
津浪に懲りて、はじめは高い処だけに住居を移していても、五年たち、十年たち、十五年二十年とたつ間には、やはりいつともなく低い処を求めて人口は移って行くであろう。そうして運命の一万数千日の終りの日が忍びやかに近づくのである。
(中略)
これが、二年、三年、あるいは五年に一回はきっと十数メートルの高波が襲って来るのであったら、津浪はもう天変でも地異でもなくなるであろう。
 
  大津波の発生間隔が5年として、天変地異でなくなるかどうかは微妙なところですが、近代以前には毎年発生する規模の洪水氾濫は織り込み済みの土地利用がなされていたことを念頭に置いたのかもしれません。37年を日数で読み替え、発生頻度に関する属性を仮に変えてみたりと、視点の大幅な転換が、寺田のエッセイにはよくでてきます。自然現象を見直すために効果的なこの手法は、SFでよく使われます。次のような一節があります。
 
  夜というものが二十四時間ごとに繰返されるからよいが、約五十年に一度、しかも不定期に突然に夜が廻り合せてくるのであったら、その時に如何なる事柄が起るであろうか。

   「津浪と人間」の初出は、昭和津波直後の1933年。その8年後、寺田の課題提起に応えたようなSFが書かれました。アイザック・アジモフ(1920−1992)「夜来たる」(1941)です。6つの恒星からなる多重連星系にある惑星に、2500年ぶりの夜が訪れる。その惑星に住む知的生物は、高度な文明を築いていたが、文明の絶頂期を迎えるたびに炎上し滅びてしまうという伝説があった。夜を知らなかった彼らが、実際の夜の闇に直面し、恐怖に駆られて周囲のものに火をつけはじめ、伝説は現実のものとなる、という話です。
  津波災害の懸念が三陸だけではないことにも言及されています。その懸念は寺田没後の1944年に起きた東南海地震、1946年の南海地震で現実となりました。過去の災厄の経験に学ぼうとしない社会に、寺田は軽妙な筆致のなかにも、強い警鐘を鳴らしています。しかし結びにあたって、未来に希望を託しています。
 
  人間の科学は人間に未来の知識を授ける。

  災害に関する科学知識の水準を高めることによって、天災の予防が可能になる。その水準を高める原動力として、寺田は教育の重要性を掲げています。
☆ ☆ ☆
寺田寅彦の作品は、作者没後50年を越えて著作権が消滅し、人類共有の財産となっています。青空文庫版(http://www.aozora.gr.jp/)を基に部分引用しました。
  (財)日本地図センターは、東日本大震災で被災された学校へ地図や図書などを寄贈しています。→ 東日本大震災被災学校への地形図等の配布についてhttp://www.jmc.or.jp/other/earthquake110314/repo2.html

Terada&Asimov

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jmctsuza at 10:00 

2011年06月10日

東北地方太平洋沖地震/東日本大震災 (3) 須知徳平「三陸津波」

  今回の大津波をきっかけに、吉村昭(1927−2006)が1970年に発表した『三陸海岸大津波』 が売れているといいます。近代以降、この作品が書かれた1960年代までに三陸地方を襲った明治三陸津波(1896年)、昭和三陸津波(1933年 ) 、チリ地震津波(1960)年について、岩手県下閉伊郡田野畑村などでの被災体験者への取材をもとにしたルポルタージュで、客観的な記録だけでなく、明治、昭和戦前期、昭和戦後期とそれぞれの時代のひとびとの防災意識などが語られています。
  三陸津波について書かれた作品は他にもあります。それらのなかから、今回は岩手県出身の児童文学者である須知徳平の「三陸津波」を、次回には物理学者でエッセイストでもあった寺田寅彦の「津浪と人間」をとりあげます。 
 
春来る~2「三陸津波」は、明治の津波で夫を、昭和の津波で息子を失いながらも、下閉伊郡田老村 ( 当時 )で一生を過ごし、 チリ地震津波の前年に天寿を全うした女性の物語です。吉村作品がどちらかといえば記録性が強いのに対し、こちらはフィクションなのですが、背景として興味深い実名エピソードが紹介されています。
 地震学者の今村明恒(1870−1948 )が、明治の津波について国際学会で報告したとき、壊滅的だった田老のそれよりも被害が比較的小さかった釜石の写真の方が、外国人研究者には強い印象を与えたのだそうです。波高5.4m* だった釜石では、瓦礫や陸に乗り上げた船舶などの凄惨な光景であるのに対し、波高15m* で全人口の7割以上が犠牲となった田老では人工物が全て流され、自然の砂浜と区別がつかなくなったためです。
  作者の須知徳平(1921−2009)について、ご存じない方も多いかもしれません。少し前の五千円札に描かれた新渡戸稲造の『 武士道 』が1998年に再刊されたときの、英語で書かれた原作の日本語訳者です。が、それよりも「ミルナの座敷」の作者といえば、ある年代の方々はピィーンと来るのではないでしょうか。
 1972年、NHK少年ドラマシリーズのひとつとして、須知徳平原作「ミルナの座敷」は放映されました。作者はこの前後の時期に、中・高校生向けの小説を多く手がけています。師事した折口信夫(1887−1953)の影響を受けた、民俗学的な事柄を背景に展開するミステリ仕立ての作品群を、当時の少年たちはワクワクしながら読んだものです。
  「三陸津波 」は、作者が少年時代に住んでいた宮古で昭和の津波に遭遇し(波高3.6m*)、また地方行政官として災害救助に携わった父親をとおして交流のあった、被災家族の話などから着想を得たのでしょう。 桃の節句の未明、海底を浚う引き潮からやがて砲声のような衝撃音が聞こえ、閃光に照らされて押し寄せてくる津波の迫真の描写は、実体験した作者ならではのものがあります。
 この作品は、講談社文庫から1978年に刊行された『春来る鬼』に収められています。なお表題作も1989年に小林旭の監督で映画化されました。現在は絶版のようで、古本でしか入手できないのが残念です。

* 三陸津波での各地の波高については、羽鳥徳太郎(2009)「三陸大津波による遡上高の地域偏差」.歴史地震, 第24号から引用しました。

[おことわり]今回紹介した著者や研究者は、いずれも評価が確立した方々なので、敬称は付けていません。

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jmctsuza at 08:45 

2011年05月13日


東北地方太平洋沖地震/東日本大震災 (2) 最大規模の地震 

  今回の地震はモーメントマグニチュード(Mw9.0で、日本列島付近で観測された最大の地震となりました。 文書記録から推定した近代以前の地震を含め、 これまで最大規模だった地震は、1707年に発生したMw8.7 の宝永地震でした。この地震は、駿河湾から紀伊半島沖〜四国沖にかけての駿河トラフ 〜南海トラフで、概ね百年毎に発生している大地震のなかでも、トラフ沿いの一連の断層が同時に活動したと見られる地震で、今世紀中の再来が懸念されている「東海・東南海・南海地震」のなかでも最大のものでした。一方、東日本沿岸の太平洋沖にある日本海溝付近では、次の発生が迫っているとされてきたマグニチュード (M7クラスの宮城県沖地震はじめ、海溝沿いの各地域で各々数十年間隔でM7.07.5程度の地震が起きていて、政府の地震調査研究推進本部では、各地域毎の長期評価を公表していました。そしてこれらの地域では、津波災害が大きな課題でした。

 岩手県南部から宮城県北部の三陸海岸はいわゆるリアス式で、山地・渓谷がそのまま海に没した形の湾や入江が連なり、これまで数十年間隔で大きな津波を被ってきました。一方、仙台平野から福島県の浜通り地方にかけては直線状の浜が続き、三陸海岸に比べて津波被害は小さいとされてきました。
 ところが、平安時代に編纂された『日本三代実録』には、869(貞観11)年に陸奥国で大地震が発生し津波によって仙台平野にあった国府が被災したという記述があります。また、これに関係しているらしい伝承が、茨城県、福島県、宮城県の沿岸部に断片的に伝わっています。独立行政法人や大学の研究者たちが、仙台平野で地質調査を行ったところ、 これらの古記録を裏付けるような津波堆積物を見出し、数十年間隔の地震・津波より一回り大きな地震・津波が数百年〜千年に1度くらいの間隔で起こっていたらしいことが判ってきました。この研究は、2007年の第173回地震予知連絡会で報告されました。
 いま率直にふり返ると、当時は本格的な調査研究が始まったばかりで、一部の研究者は危機感を持っていましたが、多くの関係者には「こんなことも起こり得るかも知れない」と考え始めた段階ではなかったかと思います。その後3年間で調査研究が進みました。過去3千年間に貞観津波含め4回の大津波があって、このうち2回は日本海溝の地震によることが明らかになり、津波の到達範囲から見積もられた貞観地震の規模はM8.4と推定されました。この調査研究結果は、政府の地震調査研究推進本部の長期評価へ反映され、本年度にも公開される手筈になっていたそうです。
  しかし、自然は人間の営みや都合など一顧だにせず、その圧倒的な力を見せつけました。2011年3月11日、推定されていた貞観地震よりさらに大きな地震と大津波が発生し、それによって引き起こされた東日本大震災に、いま日本の国が総力で取り組んでいるのです。

  東日本大震災で被災された方々に謹んでお見舞い申し上げるとともに、救援活動等に携わる方々の安全・無事を願い応援いたします。


「地震・津波に関連する地図類を紹介するWebページ」へは
http://www.jmc.or.jp/other/earthquake110314/にリンクします。

   

 

 





 



jmctsuza at 09:00 

2011年04月22日

 
  2011(
平成23)年3月111446分頃、三陸沖(北緯38.1度、東経142.9度、牡鹿半島の東南東130km付近)の深さ24kmを震源とするモーメントマグニチュード(Mw9.0 の巨大地震が発生しました。

  この地震により宮城県北部の震度7をはじめ、東北地方から関東地方にかけての広い地域が強い地震動に見舞われ、さらに同地域太平洋沿岸を中心に、最大波高9.3m 以上(相馬市)・最大遡上高約39m(宮古市)の大きな津波が来襲しました。気象庁はこの地震を「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」と、また英語名として「The 2011 off the Pacific coast of Tohoku Earthquake」と命名しました。
  政府の緊急災害対策本部の4月17日付け資料によると、この地震・津波による人的被害は、死者13,756名、行方不明14,141名、負傷者4,928名、建築物被害は、全壊58,384戸、半壊16,344戸、一部損壊182,337戸、避難者136,470名という甚大なものとなっています。これに加えて、東京電力福島第一原子力発電所では、地震時に自動停止したものの、地震動や津波による電源喪失で炉心冷却機能が失われ、懸命な防護活動により数量は低下しつつも、放射性物質の拡散が続いています。さらに生産拠点や発電所の被災により、直接的な被災地以外でも、産業や日常生活への影響もでてきています。
  政府は4月1日の持ち回り閣議で、東北地方太平洋沖地震と津波およびこれに伴う原子力発電所事故による災害について、「東日本大震災」と呼称することと決定し、対策組織等の名称に用いることになりました。
  顕著な被害地震では、自然現象としての地震とそれによって社会が 被った災害(震災)と、それぞれに固有名が付けられ、両者は区別して扱われます。関東大地震と関東大震災(1923年)、兵庫県南部地震と阪神・淡路大震災(1995年)などがこれまでの例です。
  東北地方太平洋沖地震のMw9.0という規模は、兵庫県南部地震(M7.3)の数百倍にあたります。これほどの規模になると個々の余震の規模も大きく、単独で起きても「大地震」とされるM7クラスの余震がいくつも起きています。
緊急災害対策本部が毎日公表している人的被害数と建物被害数も、本震発生から1ヶ月以上経過した現在も増え続けています。この災害の規模が空間的に大きいだけでなく時間的にも大きく、未だ状況把握の段階を脱していないことを物語っています。
  このように東北地方太平洋沖地震/東日本大震災では、広大な地域での復旧・復興と並行して余震も含め被害時の初動や状況把握を行うという、長期にまたがる広域で多面的な対策を余儀なくされています。()日本地図センターも、地図や地理情報を活用して、震災対策を支援していきたいと思います。
当センターで扱っている、地震・津波に関連する地図類を紹介するWebページを掲載しました。また『地図中心』誌では、本年5月号の特集を急遽「東日本大震災速報」とし、現時点での地震と震災の記録を伝えていくこととしました。

地図中心5月号目次はこちらへ
03 東日本大震災速報

 東日本大震災で被災された方々に謹んでお見舞い申し上げるとともに、救援活動等に携わる方々の安全・無事を願い応援いたします。
「地震・津波に関連する地図類を紹介するWebページ」http://www.jmc.or.jp/other/earthquake110314/index.html/リンクします。

 



jmctsuza at 09:40 

2011年02月09日


霧島山の新燃岳(しんもえだけ)が噴火を起こしました。火山噴火予知連絡会の見解によれば約300年ぶりの本格的なマグマ噴火だということです。日本列島はここ数年大災害を引き起こすような地震も火山噴火もなく、比較的静かで平穏でしたが、地震列島、火山列島といわれる日本に平穏な日々はそう長くは続かないことを改めて実感したところです。今回の噴火では大量の降灰があり、周辺の住民の生活に多大なる影響を及ぼしています。長期間の活動継続も予想されるところですが、と幸いにも今回の活動による死者・行方不明者ゼロが続いていますので、早急な終息を願うばかりです。
  霧島山は複数の火山体からなる火山群ですが、近年活発な活動を繰り返しているのは、今回噴火した「新燃岳」とその南東方向に位置する「御鉢(おはち)」です。御鉢はここ数百年ではもっとも活発で、幕末に坂本龍馬が妻おりょうと一緒に登った、天の逆鉾がある高千穂峰の真西わずか1km足らずの距離にあります。龍馬の登山コースは御鉢経由だったようですが、龍馬も噴煙を見ながら登山していたのでしょうか。霧島山は気象庁による活火山のランクではBとなっていますが、今回の噴火によってランクが1つ上がってランクAになるかもしれません。

現在、防災関連機関や大学等で様々な観測がされ、新燃岳の噴火の今後の推移を予測する努力がされているところです。火山にはそれぞれに固有の、噴火の「クセ」みたいなものがあるのですが、その「クセ」を把握するのが難しいようです。「クセ」には地震学的、測地学的な見地からの「クセ」と地形地質学的な観点からの「クセ」がありますが、北海道の有珠山が2000年に噴火した時は、地震学的、測地学的な「クセ」がだいたいわかっていたことにより、噴火直前に周辺住民を避難させることができました。地震学、測地学に関する近代的な観測がされるようになったのはせいぜいここ100年くらいですので、年中噴火を繰り返しているような火山であれば地震学的、測地学的な「クセ」はつかみやすいのですが、1990年から噴火が始まった雲仙普賢岳や今回のように何十年〜何百年ぶりに噴火する火山であればそうはいきません。

では、そのような火山は防災上どう対応すればよいのでしょうか。火山噴火といってもいろいろな現象があって、今回の新燃岳のように主に火山灰を出したり、伊豆大島三原山のように主に溶岩を流したり、雲仙普賢岳のように主に火砕流を起こしたりします。もちろんこれらの現象は複合的に発生することがほとんどであり、周辺に人がいれば多大なる災害をもたらすわけですが、実は火山はこれらの活動によってみずから成長し現在の山体を形作っているのです。つまり、山体をよく観察すると、これらの活動の過去の痕跡が残っているのがわかります。その痕跡とは、「地形」と「地質」です。この「地形」と「地質」を綿密に調査することで、溶岩流や火砕流がどの方向にどのように流れるかなどの地形地質学的な「クセ」を把握することができるのです。

物質は高い方から低い方へ流れるのは当たり前ですが、例えば溶岩が流れ下る方向に小高い山があったとします。ほんの小さい山であれば溶岩は乗り越えてしまうかもしれませんが、少し高い山であれば溶岩はそれを避けて流れます。火砕流も同じです。これは地形を見れば予測できることです。また、今回の一連の噴火では、爆発的噴火に伴う「空振」により、窓ガラスが割れるなどの被害が発生していますが、この空振被害をうけた建物の分布は新燃岳から見て地形的にさえぎる山がない地域に集中しているらしいのです。よく考えれば当たり前なのかもしれませんが、被害は地形にかなり影響されることがわかります。一方、溶岩がハワイのキラウェア火山のようにあたかも水が流れるがごとくさらさらと流れるのか、それとも雲仙普賢岳のように溶岩ドームを形成して火砕流を引き起こすのか、はたまた複合的な活動をするのか、これらは地質を見れば明らかとなります。

これらの特徴を地図で見ることができれば、防災上非常に有益です。霧島山は気象庁からランクBの活火山に指定されているため、地形・地質の詳細な調査が行われています。その結果として、国土地理院から「火山基本図」および「火山土地条件図」が、産業技術総合研究所から「火山地質図」が刊行されています。

火山基本図はいわゆる地形図の一種ですが、縮尺が1:10,000であり、等高線の間隔が5mと、精密な地形を把握することができます。また、火山土地条件図は、火山山体とその周辺の地形が、例えば溶岩流とか地すべりだとか、どのような成り立ちで形成されたのかを主に空中写真により解読し、わかりやすく色を付けて表現した地図です。これを見ることによって、新燃岳における今までの山体形成過程における「クセ」を把握することができ、今後も大まかには今までと同じ傾向で現象が発生するとすれば、新燃岳が溶岩を流したり、火砕流を発生させたりしたときに、どのような方向にどういった広がりで流れるのかといった大まかな傾向を把握することができます。火山地質図も火山土地条件図と似ていますが、火山土地条件図が主として「地形」からその成り立ち・形成を見ているのとは対照的に、火山地質図は「地質」という観点から、例えばその場所がどの火山から噴出したどのような溶岩で形成されているか、霧島山でいえば火山群の構成がどのようになっているかなどがわかるようになっています。火山土地条件図、火山地質図ともに地図の裏面などに、これらの地図の使い方や火山の地形的地質的特徴などが詳しく解説してあるので、火山基本図も併せ、これらを複合的に利用すれば、防災マップ作成などの防災対策上、非常に有用です。

なお、1:10,000火山基本図「霧島山」、1:30,000火山土地条件図「霧島山」、1:200,000数値地質図は、全国の地図販売店、地図センターのネット販売などで入手することができます。また、火山基本図から作成した数値地図10mメッシュ火山標高CD-ROMで販売されています。これらに関するお問い合わせは日本地図センターの「地図の店」(TEL 03-3485-8120)までお願いします。

おわりに、今回の噴火で被災された方々に謹んでお見舞いを申し上げます。火山土地条件図(霧島山)

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