地図測量の史跡

2014年04月09日

4月5日、岩手県の盛駅から釜石駅までの三陸鉄道南リアス線36.6kmが、震災後初めて全線で再開通しました。釜石は、海上保安庁海洋情報部のホームページによると、明治5年海図第1号すなわち測量から製図まで、日本人のみによって初めて海図「釜石港」が作られたところです。船が頻繁に入港している東京や神戸でなくなぜ釜石港なのかは、当時開港していた東京と函館を結ぶ航路の中間補給地点として重要な港であったこと、また当時高炉による銑鉄の生産に成功しており、官営製鉄所建設の直前であったことがあげられています。なお明治5年には北海道東部の水深の浅い「野付湾」、釜石港と同じような岩手県「宮古港」、北海道積丹半島の南の「壽都(すっつ)港」、北海道西部の「小樽港」の全部で5図が刊行されています。また平成6年には、海図第1号の記念碑として「陸中国釜石港之図」(下記写真参照)が、釜石港を一望する石応禅寺の広場に設置されました。

海図第一号記念碑海図第一号釜石
   画像:海上保安庁海洋情報部のホームページから

  その他、国土交通省東北地方整備局三陸国道事務所釜石維持出張所のホームページの“道の豆知識”では、伊能忠敬の三陸測量の軌跡として、ヽ石市の天文暦学者の葛西晶丕(まさひろ)が1801年に三陸海岸の測量を行った伊能忠敬を顕彰して建立した測量の碑・星座石、伊能忠敬の測量200周年を記念して2001年に建立された伊能忠敬海上測量之碑等について、写真入りで3ページにわたって紹介されています。国土交通省のホームページでこれだけ伊能忠敬について紹介しているのはこの釜石維持出張所だけだと思われます。

伊能忠敬海上引き縄測量之碑
伊能忠敬海上測量之碑 
国土交通省三陸国道事務所釜石維持出張所のホームページから 



jmcblog at 08:30 

2013年06月27日

 香取市で、原付バイクのナンバープレートに伊能忠敬のシルエットが入ったものが交付されています。
 千葉県香取市は、伊能忠敬の出身地として有名ですが、2011(平成23)年9月から、原付バイクに図のようなオリジナルナンバーの交付が始められています。

2011-0602-0944_1 香取市のウェブサイトによると、177点の応募作品の中から、「香取市のイメージを表現する」にふさわしいものとして選ばれたものです。郷土の偉人・忠敬翁のシルエットを取り入れたデザイを考えたのは、香取市から遠く離れた広島市に在住の河野寛子さんです。河野さんは、「自分の足で歩き続けた彼が、今日庶民の足である、スクーターのナンバーとなって走るのは粋ではないか」とコメントしています。まさにその通りですね。
( by jmcmimr)

 『四千万歩の男』
 最初の一歩

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2013年04月19日

 本日4月19日は「地図の日(最初の一歩の日)」です。1800(寛政12)年閏4月19日、伊能忠敬は蝦夷地の測量に出発しました。

 伊能忠敬(1745-1818)は(読者の方がよくご存じとは思いますが)、50歳で隠居した翌年の1795(寛政7)年から、幕府天文方の高橋至時に師事して測量・天文観測などを学んだうえで、1800(寛政12)年から1816(文化13)年まで、足かけ17年をかけて全国を測量し、はじめて日本国土の正確な姿を描いた大日本沿海輿地全図(伊能図)が、歿後の1821(文政4)年に完成しました。inotaizu
 2001(平成13)年、アメリカ合衆国ワシントンDCの議会図書館に伊能図模写本があることが判りました。伊能大図と呼ばれる比較的大縮尺で精繊な表現の地図です。(一財)日本地図センターアメリカにあった伊能大図とフランスの伊能中図(2400円)は米国議会図書館所蔵伊能大図の大半を鮮明なカラー印刷で掲載しています。

 下総国香取郡佐原村(現・千葉県香取市佐原)の伊能家の婿養子となった三郎右衛門(後の忠敬)は、50才で家督を長男に譲り隠居するまで家業の醸造や水運に従事し、また幕府と交渉し、水運の拠点としての佐原河岸*の公認を勝ち取るなど、村の有力者としても活躍しました。幕府との交渉の過程で地図の重要性を認識したともいわれています。

 香取市佐原には、伊能忠敬旧宅伊能忠敬記念館があります。伊能三郎右衛門が佐原河岸の繁栄に尽力した状況等については、千葉経済大学名誉教授の川名登さんが研究成果をとりまとめ、1982年に平凡社から『河岸に生きる人びと』として刊行されました。この研究成果は、千葉県立関宿城博物館の常設展示にも活用されています。

* 河岸(かし): 河川の岸にある川の港。船着場のある場所を指すだけでなく、河岸問屋などの流通機構や、その機能を持つ集落を含めての呼び名(川名登, 1982 から)。


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歩測・伊能さん



jmcblog at 09:30 

2012年10月19日

 数年前、知人が仕事でエジプトに出かけ、ある写真を送ってくれました。その写真は、収税のために麦畑の測量をしている様子を描いた壁画でした。メンナの墓の壁画だそうで、本来写真は撮ってはいけない場所なのだそうですが、他の訪問者もいなくなった瞬間シャッターが自動的に下りてしまったのだそうです(知人談)。
 メンナは、第三王朝(B.C.1567〜B.C.1320)第8代の王トトメス言い虜△療效和翊ァγ論區泙鮑鄒した人だということが、イタリアのガイドブックに記されていたそうです。

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  室内は広く壁画は長いらしく、一枚の写真には全部入りきらず二枚つないで見る形で撮影されていました。左端の徴税士と思われる二人の人物のうちの一人に、跪いて懇願している人物が見えます。税金が収められない人が免税を懇願しているようにもみえます。

 ついで縄を持っている人やポール持ちも見え、右下には測量データを記録している人が見えます。測量の絵が、作付け時ではなく収穫時であることに重大な意義があるようです。これから耕す耕地の面積よりも収穫時における麦畑の課税のための測量が、国家にとってより大切であったに違いありません。

 測量が地籍測量から始まったことには変わりありませんが、それは、国家の収税のための測量であり、それだからこそ測量士が貴族にまでなったのでしょう。メンナは当時の測量士の代表であり、彼こそは世界初の測量士でしかも貴族になった人ということになります。

 写真は大事に保管してあります。さらにこの写真から読み取れるものがあるかもしれません。興味のある方がおられましたら是非申し出て下さい。 (jmchako)

 → エジプト大使館 エジプト学・観光局
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2012年06月01日

 金星の太陽面経過では、地球人は金星の夜の側を太陽を背景に眺めていることになります。では仮に金星人がいたとして、彼らから地球はどこに、どのように見えているのでしょうか。ザッと計算したところ、地球時間6月6日の金星の夜空では、さそり座付近に順光の地球が見えていることになります。赤い一等星さそり座α星(アンタレス)のすぐ傍に青い地球が輝いているのですから、なんとも豪華な星空です。金星人が羨ましい!
[6月6日、末尾に追記しました]
(2) からのつづきです] 

金星観測の副産物としての経度測量
 金星観測は、世界の一大事業として取り組まれました。その副産物として世界各地の経度が測定され、サンフランシスコと長崎とウラジオストックとヨーロッパとがこのことによって経度の比較がおこなわれ、電信法による計時観測が世界を一周して結ぶことができました。この観測に間に合うようにロシア帝国はサンクトペテルブルクからシベリヤを横断して電信線をウラジオストックまで接続していました。一方、長崎は、1871(明治4)年にはウラジオストック(1400km)や上海(880km)が海底電信線で接続されていました。従って、長崎も東京も西欧と電信線で接続されたことになります。つまり、この時以降、日本各地の経度は遠くヨーロッパと電信法で比較できるようになった訳です。このことは、ただの天文学上の進歩にとどまらず金星経過観測は国際通信網の推進に期せずして大きな役目を果たしたと言えます。

それまでの日本図
 江戸期に精密な日本図の製作を成し遂げた伊能忠敬は、経度測量を行なうため、全国の測量に「垂揺球儀(すいようきゅうぎ)」という振り子時計を持ち歩きました。これは経度差の測定に用い1日の時間や日食、月食の始まりから終わりまでの時間などを測ったものです。さて、どのような原理で振り子時計を使って経度差を得たものなのでしょうか。
 地球は1日かけて一回転する極めて正確な時計です。この地球の上で我々は太陽を中心に営んでいます。たとえば太陽が我々のいる真上を通過(南中)した瞬間、これを正午と呼んでいます。これは、日本のどこに住んでいるかによって太陽が真上に来る時刻が異なりますのでそれぞれその時刻は微妙に違ってきます。忠敬は旅先でこの南中時刻から日食や月食などの天文現象が生じるまで、時計の振り子が何回振動したかを測りました。これは日本のどこにおいてもこの天文現象の瞬間を見ることができるからで、この現象を利用して大阪や京都でも予め予報に基づいて連絡をとりあい、この日を待って同じ測定を行いました。さて、この3地点の振動回数を比べるとその回数は異なった結果となります。この振動回数の差が経度差ということになります。1日の振動数も現地で測られていますが約59,000回あまりの記録があり、この間に地球が一回転しますので振り子の振動数1回当たりの角度が得られ、観測地点の経度差を角度で表すことができます。
 以上がその原理ですが、実際には忠敬の測量班出張期間中に13回しか日食や月食が発生せず、更に現地と大阪・京都の3地点の天候が同時に観測可能だったのがわずか2回しかありませんでした。このため伊能図の作成には役立てられなかったようです。
 しかしながら、このような方法で江戸・大阪・京都間の経度差は、多年の観測値があるため忠敬はこの値に基づいて、出来上がった地図上に経度線を引いたと推察されます。因みに1809(文化6)年「伊能忠敬幕府上呈の日本図」では経度線は「京師(京都)を中度とし東西に分かつ」とあり、京都より東西に各1度ずつ経線が描かれ、「東四度」が東京付近、「西五度」が鹿児島付近に引かれています。いずれも本格的な経度測量によってグローバルな経度が測量されるのは明治の近代測量開始まで待たなければならなかったのです。

長崎から東京の経度測量
 1874(明治7)年12月9日の金星観測終了後、デイビッドソン隊長は、長崎に引き続き滞留し天文士2名(チットマン、エドワーズ)を東京に差し向け、長崎・東京間の経度差を測量することにしました。これは、わが国がグリニッジを基点とした正確な経度を持っていなかったことや、電信による経度測量の技術に興味をもった柳大佐(海軍省水路寮長官柳猶悦)が懇願したもので、帰国を延期してデイビッドソン隊長は日本側の要求に応えました。この仕事は、まったくデイビッドソン隊長自身の好意であり、アメリカ沿岸測量局本来の業務ではなかったため、旅費・日当等は自弁でおこなわれたものでした。
 チットマンとエドワーズの両人は12月14日長崎を出帆し東京へ向かいました。観測場所は、東京麻布飯倉町の水路寮海軍観象台(写真9)構内が選ばれました。そこに従来からある石盤上に「煉化石」の仮小屋を建てて、ここを観測点としました。天体観測そのものは「晴天3日にて充分」とのことでしたが、長崎との電信交換のため、飯倉町観象台から赤羽電信局間に新たに電信架線が電信寮の手で接続されました。観測は12月20日から1月2日までの晴天7夜に時計信号の電送ができました。チットマンら2名は1月23日に横浜からサンフランシスコに向け帰国の途につきました。この観測点(経度点)は、チットマンに因んで「チットマン点」と呼ばれています。直ちにこの測定値は、翌1875(明治8)年1月9日の海軍初めの日に明治天皇に報告されました。venus10
 チットマンは、長崎のダビットソン点との間の経度差のみを測った訳ですが、地理局の観測した観測値やそののちマドラス・シンガポール・ケープ・セントジェーム・香港・廈門(アモイ)・上海・長崎と経度差測量で結んだ(図5)結果も加えられ、チットマン点の経度(グリニッジ東経)は、139°44′30″.30(1886年)とされ、参謀本部は、これを三角測量の計算原子としました。

日本経緯度原点
 現在、わが国の位置情報の原点となっている「日本経緯度原点(写真10)」は、チットマン点のわずか5.1m西に位置しています(図6)。これは、陸地測量部が全国の測量を開始して間もなく三角点に経緯度を与えるため経緯度原点を東京天文台の子午環(子午儀ともいい、天体望遠鏡の一種)中心と定めた(1892年)ことによるものです。このため、前述のチットマン点の経度は子午環の位置に計算され直され、日本経緯度原点の最初の経度値は139°44′30″.0970とされました。その後、経度値は1918(大正7)年に+10″.405修正された経緯があります。
venusFig6図6.チットマン点の位置.

 1923(大正12)年関東大地震による影響については、その差は少なく、実用上の見地から改正は行なわれませんでした。
 2002(平成14)年、世界測地系の採用により測量法が改定され、日本経緯度原点の経度数値が改定され、さらに2011(平成23)年には、東北地方太平洋沖地震の影響による大きな地殻変動が観測されたため、同年10月21日に次の数値に改定されました。

 経度 東経 139°44′28″.8869
 緯度 北緯  35°39′29″.1572
 方位角    32°20′46″.209
 (つくば超長基線電波干渉計観測点に対する値)

 日本経緯度原点の住所は、東京都港区麻布台二丁目十八番一地内で、国土地理院が管理しています。ここは、前述のとおり水路寮海軍観象台構内でしたが、1932(明治21)年に敷地と業務の一部を東京帝国大学理科大学東京天文台に吸収され、関東大震災ののち東京天文台が三鷹へ移転しました。このため、そこに東京大学理学部天文学教室(写真11)が残留しました。第二次大戦後、天文学教室が東京大学理学部三号館(文京区弥生)へ移転したあとには、国土地理院関東地方測量部の入った総合庁舎が建てられました。
 現在、同地域には「日本経緯度原点」の標石と説明の碑が建てられているのみで、当時を偲ぶものはなにも残っておりません。もちろん「チットマン点」の石盤なども見当たりません。
venus11写真10.日本経緯度原点

おわりに
 明治以来、日本の測地関係者の間では「チットマン点」という名が知られていました。しかし、この点が金星日面経過観測の副産物として産まれた長崎の経度値を用いて決められたことは忘れられていました。
 今世紀2回目の金星日面経過を機会に、宇宙への果てしない探究心と電信という新技術を利用してダイナミックな測量に挑んだ、世界から集まった人々の挑戦と友情に思いを馳せて見てはいかがでしょうか。 (by jmchako)

参考文献・Webサイト
斎藤国治篠沢志津代:金星の日面経過について-.東京天文台報,第16巻第1冊,第2冊
斎藤国治:『写真の開祖「上野彦馬」』産業能率短期大学出版部
原口孝昭:『明治7年の金星日面経過観測』平成10年度文部省科学研究費補助・奨励研究(B)報告書
国立天文台:Webサイト「
金星の太陽面通過」.

 6月6日が近づいてきました。今世紀最後の金星の太陽面経過です。次は2117年12月11日。くれぐれも太陽を直視しないよう遮光眼鏡やピンホールなどを活用して安全に観測してください。
 あっ、その前に6月4日夕刻の部分月食もお見逃しなく。

[6月6日追記]
 当日は、関東地方以北があいにくの天気でしたが、それでも雲のすき間から、太陽面を通過する金星を見たひとも多かったようです。
 さて、今年の日本から見える天体異変は、これで終わりではありません。8月に金星食があります。地球を追い越した金星は、見かけで太陽の西側に抜けていき、明けの明星となります。そして8月14日の夜明け前、月齢25.5の月がその前を横切り、金星が背後に隠されます。今度は安心して双眼鏡などで観察できます。

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jmctsuza at 13:30 

2012年05月25日

5月21日(月)の金環食、当日の天気予報は「全国的に雲が多い」でしたが、良い方に少しズレて、雲の晴れ間や薄い雲をとおして、多くのひとが観ることができたようです。なかには「注文していた遮光眼鏡が翌日に届いた・・」という事例もあったようですが、使う機会はちゃんとあります。6月6日(水)の金星の太陽面(日面)経過です。
(1) からのつづきです]

星取山に陣取ったアメリカ隊
venus3 ジョージ・デイビッドソン(George Davidson)博士(合衆国沿岸測量局次長:写真3)を隊長とするアメリカ隊一行8名は、大平山に陣取り、観測所を設けました。大平山からは、北西の眼下に長崎港を一望でき、大浦天主堂の尖塔も見えました。現在では星取山と言っていますが、この名は金星日面経過の観測を記念して改名されたもので、天体観測が地名として残っているのは全国でも珍しいことです。
 焦点距離42メートルの水平望遠鏡カメラがその主力で、隊員中には3名の写真師がいて撮影を担当しました。
 観測には、手が足りないためデイビッドソン夫人と長男も人員に追加され、記録掛や時計掛を受け持たされました。アメリカ隊らしい観測風景であったことでしょう。

日本人写真師も金星観測に参加
 venus4デイビッドソンの観測日記に11月6日の項に"Phot Uyeno commences today at 150 plates." という記載があります。アメリカ隊に雇われた上野彦馬(写真4:わが国初の営業写真館を開き、明治維新当時の坂本龍馬、高杉晋作、伊藤俊介(博文)、西郷隆盛などの血気さかんな志士、剣客たちを写した)が、この日150枚の湿板を作りはじめたと記されています。また、1878年出版のアメリカ隊の観測報告には「ナガサキのウエノ、第三助手写真師」とその名が記録に残されています。

星取山の観測機器
 写真5は、彦馬の撮影によるもので、星取山の山頂全体を使った水平望遠カメラの全景です。本装置は、左端の木小屋の前に運転時計と回照儀とレンズ(写真6)を組合せたものを置き、日光を常に水平右方向へ導き、画面中央の水平桿(焦点調整用)を通し写真右側の木小屋の写真暗室に導いています。暗室にはカメラ取枠部があり、ここに直径42センチほどの太陽がうつる仕組みになっています。また、左端の木小屋には経度測量のための子午儀(写真7)が整置され、夜間、星の観測を行なったものです。中央の三角小屋内には赤道儀が整置され、金星の接触時刻の眼視観測を実施しました。
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 写真5.星取山山頂の金星観測施設  写真6.水平望遠カメラの頭部

venus7写真7.デイビッドソン子午儀

アメリカ隊の金星観測
 ここでアメリカ隊の金星観測(写真8)の瞬間をデイビッドソン夫人が郷里にあてた手紙から1部紹介します。観測の様子を伺い知ることができるからです。venus8
 「・・・太陽は雲のうすいカーテンを脱ごうともがいていました。そして正に適時に雲を破り、そのとき突然夫が「commence(はじめ)」と叫び、私は飛び上がるほどビックリしました。これは室外の写真担当者に時刻到来を告げるためでした。数秒ののちデイビットソン氏はさらに喜びの大声をあげました。彼は『第1接触を捕らえた』と語り、私はそれを野帳に記録しました。それから私たちに僅かの間望遠鏡をのぞかしてくれ、また観測をつづけるうち雲がきて邪魔をしました。約30分経って第2接触の際どい時刻が迫りましたが、天候もだんだん悪くなってきました。しかし、再び太陽はうまい時期に顔を出してくれて、第2接触もノートしました。第1接触は10:24ごろで、その後最終触は3:10ごろの予定でした。そこで第2触の終わったあとは大分におしゃべりなどの時間がありました。第2触ののちすぐに雲が掩ってきて、ときどき僅かに太陽を見ただけで、午後3時に近づくにつれて雨雲になって、第3触を捕らえる望みは薄くみえました。予定時刻の直前に太陽の通りみちにあるすべての小さなうすい雲の孔を心配気にみつめながら、みなは部署についていました。そして第3触も観測されました。そのあと太陽は厚い雲の土手に没しました。間もなく空は太陽の意気地ない退却にたいして涙をこぼしはじめました。かくしてこの大きなイベントは終わりを告げたのです。」
 アメリカ隊は、この観測で金星経過写真を150枚ほど撮る計画で用意していましたが、当日天候が薄曇りであったため、結局、金星が写っていたのは50枚だったといいます。
 しかし、残念ながら、この大きなイベントを記録した貴重な観測写真は、現在のところ日本にもアメリカにも1枚として見当たらないということです。

経度差の観測
 デイビッドソンは、金星観測に先立ってウラジオストックと長崎間の経度差を観測しました。これは金星と地球間の距離を求めるために地球上の2地点間の基線を正確に求める必要があったからです。このためには、できるだけ正確なそれぞれの経緯度を求めることが重要でした。
 当時、経緯度の観測には、星々の南中高度や時刻を測定したり、月の運行を観測したりしていました。これをより高い精度で決めるため、各観測隊は、現象が起こる2〜3カ月も前に来日して星々や月の観測に励んだのです。
 ところが、アメリカ隊は、従来のこうした観測に電信を使う方法(電信法)を取り入れ、これまで以上の精度で経度を決定することを試みました。すなわち、長崎とウラジオストックで同じ星々の南中時刻を測定し、電信を使ってその結果を交信しました。つまり、2地点のそれぞれの時計を電信で合わせておいて、同一星の子午線通過の時刻を両所で測定すれば、測定時間差がすなわちウラジオストックから長崎の経度差になるわけです。ウラジオストックの経度が分かれば、この観測で得られた経度差を加えて長崎の経度が求められることになります。
 日本政府としてはその意義も目的も恐らく理解できなかったにちがいありません。そこで政府は、お雇い外国人の一人アメリカ人デイビッド・モルレーにそのことについての解説をもとめています。モルレーは数学・天文学を修めた学者でした。
「・・・電信法ノ利益ハ、第一ニ容易、第二ニ精密ナリ。夫レ経度ヲ求ムルニ電信を交替スル事僅かに3晴夜ナル時ハ、一百年間太陰ヲ視測シテ得ル所ヨリモ一層精確ナルヘシ
と記しています。
 この電信を使った経度決定は、わが国で始めて行なわれたもので、海軍省水路寮や文部省の注目するところとなり、この技術は、その後の日本経緯度原点を確定する作業(図5)につながって行くことになります。
venusFig5図5.電信経度連結之図

(3)へ つづく]

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jmctsuza at 18:15 

2012年05月18日

  • venusFig1
    2004年と2012年の日面経過位置(理科年表から)

    天文異変
     本年(2012)5月21日に、日本列島の九州南部から四国〜東海〜関東〜東北南部にかけて金環食がみられることが、全国的な話題となっていますが、6月6日にも金星の太陽面経過(日面経過)という天文異変があることをご存知でしょうか。日本では午前7時頃から昼過ぎにかけてこの現象が見らます。
     この現象は珍しい現象で、前回は2004(平成6)年6月8日に、日本でみえる日面経過では、前々回は1874(明治7)年12月9日に起こりました。明治時代が始まったばかりのこのときには、世界各国から天文学者等が観測条件の良い日本に訪れ、科学的な業績を持ち帰りました。維新直後の混乱期にあったものの、日本政府は、金星日面経過観測の終了を待ってアメリカ隊に経度原点の決定を依頼し、東京に日本最初の経度原点(チットマン点)を設けることができました。このエピソードについて3回に分けて紹介します。

金星観測

venusFig2 水星も金星も地球の内側の軌道を回っている惑星なので、太陽と重なって見えることがあります(図2)。これが金星の太陽面通過とよばれる現象です。
 このような現象は、ごく稀に起こります。20世紀では見られない現象でしたが、今度はわずか8年の間をおいて2度のチャンスがやってきます。2004年6月8日と2012年6月6日の2回です(図1)。これを見のがすと2117年まで見ることができません。
 この金星日面経過観測の目的は、地球から金星までの距離、ひいては太陽までの距離である「一天文単位」の長さを決定することにありました。これらは、ハレー彗星で有名なエドモンド・ハレー(1656 - 1742)がこの提言を発表していました。

ハレーの提言
 ハレーは「地球の南北両半球上ほぼ同じ経線上の2点から金星の太陽面経過を観測すると、2点から見る方向のちがいで、太陽面に投影された金星は少し上下にずれて見えるであろう。このズレが「視差」であって、この量を測ることによって金星までの距離が求められる。」と提言しました。つまり、地球大の基線長を利用した金星との三角測量を行なうということです。
 
続々と各国から日本に
 130年前の日本は、明治新政府が産声を挙げたばかりで、まだ国の方向が定まらず、九州では西郷隆盛が征韓論に破れ下野した翌年に当たります。また、江藤新平が佐賀の乱を起こした年でもありました。このように混乱した日本へ、金星の日面経過の瞬間を待ち望んでいた欧米諸国の観測隊が、地球上の観測条件の良い地点の1つとして日本を選び目指しました。
venusFig3 金星が太陽面を経過するには「進入」から「退出」までに4時間半ほどの時間がかかります。その全経過が見られるのは、東経135度前後の経度帯に含まれる地域に限られ、日本は観測には絶好の位置にあったのです。ハワイでは進入しか見られず、カイロでは退出しか見られませんでした(図3)。だからこそアメリカ・フランス・メキシコから万里の波濤をこえて観測隊がはるばる日本国に到来したのでした。

観測隊の入国許可
 受け入れ側の日本は開国して日も浅く、明治政府の要人たちは観測の意図がよく飲み込めませんでした。「測量のための入国要請」には神経をとがらせたらしく、時の政府閣僚の太政大臣三条実美、内務卿伊藤博文、外務卿寺嶋宗則、海軍卿勝安芳(海舟)、文部卿木戸孝允等は純粋に自然科学探求のための入国要請であることを理解するまでに時間を要したようです。まさに「科学における黒船」でしたが、明治政府は観測隊の入国を許可し、この壮大なスケールで展開されたプロジェクトに対し海外からやってきた天文学者を手厚く迎え入れました。


国際電信網に結ばれていた長崎
 フランス隊・アメリカ隊は、長崎を観測地点に選定しました。これは、1871(明治4)年に上海〜長崎、ウラジオストック〜長崎の海底ケーブルが早くも敷設され、我が国で初めて国際電信業務を開始していたことを考慮し選定したものです。天文観測を行なうには、世界と結ばれた正確な時計が必要で、開国まもなく国際電信網に結ばれた長崎は適地であったのです。

フランス隊の記念碑
 フランス隊はJ.ジャンサン(Jules Janssen:パリ経度局)、ティスラン(トウールーズ天文台長)を主任とした一行8名が来日し、 長崎市内の金刀比羅山の前山に布陣しました。現在、金刀比神社の近傍に残るピラミッド型の観測記念碑(写真1)は、このときの観測を記念し、ジャンサンが長崎在住の大工棟梁に依頼し建てたものです。
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写真1 フランス隊が残した観測記念碑
 1993(平成5)年、この記念碑から東の地点で観測台が発見され、長崎県の史跡に追加指定されました。この観測記念碑正面には、フランス語で「VENUS(金星)通過を観測したのはこの位置である。1874年12月9日、観測者フランス天文学者ジャンサン、パリ科学会会長・・・(隊員の名)」と刻まれています。130年以上の櫛風沐雨に碑は苔むし風化がはなはだしく、文字もやっと読める程度で、他の3面は素人での解読はなかなか難しいようです(写真2)。興味のある方は、解読に挑戦してみてはいかがでしょうか。

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写真2 記念碑の正面(左)と西面(右)


記念碑を造った棟梁
 高さ2メートルほどの四角錐の巨大な石の塔は、地元の大工の棟梁、山田與四郎が、ジャンサンから文部省をとおし請け負い建設したものです。“碑を大至急つくってくれ”という急な仕事で約半月かかって完成させています。山田は寝食を忘れ仕事に没頭したことが家族によって断片的に言い伝えられています。記念碑を造った岩石を、どのようにして山頂まで運び上げたものか。当時は道もなかっただろうし、観測のための道を造ったとしても小さなものだったに違いありません。
 しかし、その苦労の甲斐があり、山田がジャンサンから受け取った報酬は、その当時の長崎では家が2〜3軒建つ程度であったそうです。あまりの高額なため、虎の皮の敷物をジャンサンに贈呈したという、更にそのお返しとして、山田はギヤマンに入ったぶどう酒を2本もらい、家宝としてこのギヤマンが山田家に残されているというエピソードが、長崎新聞や雑誌(長崎手帖22号)に掲載されました。外国人居留地があり、貿易商も出入りしていた当時の長崎ならではの話です。

(2)へ つづく]

 金星観測と経度についての話題は、このブログで2009年11月に『わが国の経度のはじまり』と題して一度簡単に紹介しましたが、今回の金星の日面経過の機会に、やや詳しい話を紹介していきます。

地図センターHomePage



jmctsuza at 16:30 

2012年01月19日


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 地図展が催されています。
 題して「地図展 日本橋と五街道」。
 会場は、東京〜というより日本の街道の起点、日本橋のすぐ傍、国道4号の地下歩道です。地下鉄三越前駅の地下通路と言ったほうが判りやすいかもしれません。このブログで前々回に紹介した「日本橋架橋100周年記念− 街道(みち)の数だけ日本がある−日本橋『日本百街道展』」と同じ会場です。
 「地図展」は、地図に親しんでもらおうと、毎年全国の主要都市で開催されています。今回の主催は地図展推進協議会、NPO法人全国街道交流会議名橋日本橋保存会です。会場に掲げられた「ごあいさつ」を以下に引用します。

・・・
 日本橋を起点にして、五街道が伸びています。五街道につながる道は全国津々浦々に通じています。日本橋は、全国各地とつながり、江戸幕府開府以来今日まで、多くの人や物が、日本橋から全国へ、全国から日本橋へ行き来してきました。江戸下町の中心地だった日本橋のまちは、今日も日本経済の中心地であり、ますますにぎやかなまちになっています。
 日本橋のまちは順風満帆のときばかりでなく、火災、震災、戦災の惨禍に痛めつけられたこともありました。それでも日本橋のまちは、その都度再生してきました。架橋後100年を経た重要文化財日本橋は、幾多の試練を乗り越えて生きてきたまちの風格を象徴しているようです。
 皆様には、江戸時代から今日までの日本橋のまちの姿を、地図を通して見ていただきたいと思います。地図を通して俯瞰する日本橋のまちのありのままの姿は、皆様に、本や街歩きで得るものとは違う、新たな発見や意外な面白さを感じていただけるのではないでしょうか。
 どうぞごゆっくりと、「地図展 日本橋と五街道」をご覧ください。

地図展推進協議会
NPO法人全国街道交流会議
名橋日本橋保存会
・・・

 展示は昨年12月末から行っていますが、開会式15日(木)に、国土地理院長、中央区 区長他約50名のご出席により執り行われました。

IMG_1844ps  地図展会場では、計16本の柱の周りに各々設けられたボード4面に、地図などのパネルを掲げ、一部の床面には日本橋周辺の空中写真を貼り付けてあります。半蔵門線改札寄りから銀座線改札に向かって「地図で見る日本橋」「地図で見る五街道」「海図で見る東京の海」「江戸東京の大災害」と4テーマに区画し、それぞれ江戸から現在までの地図類を展示しています。土曜・日曜には、銀座線改札寄りの一画で、地図類や関連書籍を販売します。

 
 会場周辺にも見どころがあります。
 先ず、なんといっても重要文化財日本橋。現在の石橋は、昨年に架橋100周年を迎えています。橋の中央部には、日本国道路元票があります。120113_144823
 伊能忠敬は、若き日の本業でも日本橋周辺をたびたび訪れているはずですが、晩年の住居兼「地図御用所」跡が日本橋茅場町二丁目にあります。
 街道の絵で有名な歌川広重の住居跡が京橋一丁目にあります。
 さらに、歩きでは少し遠いですが新川二丁目に、陸地測量部が日本水準原点の標高を得るために用いた荒川河口霊岸島量水標跡があり、現在は国土交通省関東地方整備局の河川観測施設となっています。

topo10000Nihonbashi
1:10,000地形図「日本橋」の一部に加筆.

 
今回の地図展会場は、地下鉄銀座線と半蔵門線の乗換通路で、地図展では初めての仕切りのない公共空間での開催となり、会期も2011(平成23)年1229日(木)から2012(平成24)年129日(日)までと、地図展史上最長となっています。もちろん入場無料・予約不要です。通勤やショッピングの合間に気軽に、そして、もし気に入られたら何度でもご来場ください。

                         ☆ ☆ ☆

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日本橋周辺の散策に...
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書斎で詳しく調べたいとき...  
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jmctsuza at 10:00 

2009年12月04日

観象台(那須塩原市千本松716-1

                         −那須塩原市指定文化財−

  近代国家を目ざした明治新政府は、国土の近代的測量をお雇い外国人の指導で始めることになりました。明治8年(1875)には、イギリス人のマクウェンやヘンリー ・シャボーの指導のもとに関東地方の測量 (関八州大三角測量)が着手されました。 この測量には、平地の2地点を結ぶ直線 (基線)を設け、その長さを極めて精密に測量する必要があったのです。
  一帯は、江戸時代から明治10年代(1880年前後)にかけて、那須野ヶ原と呼ばれる平坦な原っぱでした。そこで、この地が相模原(神奈川県)と共に基線測量の場に選ばれました。那須野ヶ原における基線 (那須基線)のあらましは、次の通りです。
(1) 那須基線北点 西那須野町千本松
(2)
那須基線南点 大田原市親園
(3)
測量の時期 明治11年4月9日〜6月11日
(4)
2点間の距離 1万628.310589メートル
  当初、観象台には木のヤグラが組んであり、明治10年代の開拓や那須疎水測量の際のかっこうな目標物となり、人々に親しまれました。北点と南点を結んで開拓道路の縦道がつくられ、現在はライスラインの一部となっています。
  なお、塚の脇の水準標は50メートルほど南東にあったものです。                            「那須基線北端点  解説版」より
14 観象台(西那須野) 

 

 






      地図をクリックすると拡大します。
15 観象台・地図




















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jmchako at 10:32 

2009年11月06日

 


   明治新政府が産声を上げたばかりの明治7(1874)年のことです。まだ国の方向が定まらず、九州では西郷隆盛が征韓論に敗れ下野した翌年に当たり、また、江藤新平が佐賀の乱を起した年でもありました。この年の12月9日、金星が太陽の前面を通過するという珍しい天文現象が105年ぶりに起こりました。この現象は、地球と太陽との絶対距離を測定するための極めて貴重なチャンスであったため、 この瞬間を待ち望んでいた欧米諸国は地球上の観測点で最良の地点を計算し、 各々自国の観測地点を選定していました。長崎をフランスとアメリカは、明治4年に上海―長崎間、ウラジオストック―長崎間の海底ケーブルが敷設され、わが国で国際電信業務が開始していたことを考慮し、長崎を選定しました。天文観測を行うには、世界と結ばれた長崎は適地であったのです。このことから、日本政府に入国および観測許可の申し入れがあり、当時の混乱した時代にあって、新政府はこれを認めたばかりでなく、日本人の技術者(軍人)も東京から見学に派遣しました。

 フランス隊は、金比羅山の前山の烏帽子岳(写真下:フランス観測隊の建てた大きなピラミット状の石の記念碑が山頂に残されている)に、アメリカ隊は大平山(俗称:星取山)に陣取り、太陽面を通過する金星の観測が開始されました。

金比羅山ピラミッド









                  金星観測碑 
  アメリカ隊 (隊長:ダビットソン博士、副天文士:チットマン)の委嘱により観測の写真を担当した上野彦馬は、金星経過の写真を90枚撮影しています。上野彦馬の父、上野俊之丞はわが国最初の写真家で、 彦馬はその四男であったといいます。上野彦馬は長崎市中島町に文久2 (1862)年わが国初の営業写真館を開いていました。
   以上の金星
観測の他、ダビットソン博士は、11月7日までにウラジオストックとの交信により長崎の経度を決定しました (現在の東急ホテル敷地内と推定される)。さらに延長してパリ、ロンドン、ワシントン等に及ぶ経度測量 (両所の時計を電信で合わせておいて、同一星の子午線通過を両所で測定すれば、測定時間差がすなわち経度差となる)を計画していました。 この計画を知った日本政府は、 明治6年2月長崎電信局がすでに開局しているのを利用して 長崎−東京 との経度測量を希望してダビットソン博士の同意を得ることができました。ダビットソン博士は、東京へチットマンを派遣して、同年1220日から翌年1月2日にかけて両地点間の電信法による経度測量を行ない、我が国はじめての経度の値を得ることができました。 この測定値は、直ちに明治天皇に報告されたことが記録に残されています。



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jmchako at 10:33 

2009年10月23日


開拓使三角測量勇払(ゆうふつ)基点
                         (苫小牧市字勇払132番地49
   −北海道指定文化財 史跡
                       (昭和421967)年317日指定)−

  開拓使は道路や鉄道建設、炭田や鉱山開発のため正確な北海道地図の必要性を痛感して1873 (明治 6) 年3月、米国人ジエームス・アール・ワッソンを測量長に命じ、三角測量法による地図作りを開始しました。ワッソンは当初石狩川上流域に基線を求めようとしましたが適地が得られず、 6月、 勇払と鵡川 (むかわ) 間に基線を設定、両基点に目標台と標石を建て、測量に入りました。
 翌1874(明治7)年、ワッソンを継いだ米国人モルレー・エス・デーの指揮により、 勇払基線の本格的な測量が行われることになりました。

デーと日本人助手らは、 精密に測量するため、天文測量を実施し、勇払基点の経緯度を北緯42度37分34秒、東経141度44分46秒 とするとともに、8月に米国製機械の到着後、これを使用して勇払基点から鵡川基点への測量を実施し、 勇払基線の測定値を14,860.2646m としました。 未だもう一方の鵡川基点は、発見されていません。
  この勇払基点は、 当時の最新技術を駆使した、わが国で最初の本格的な三角測量の基点であり、ここからは、多くの日本人測量技術者が育つなど、北海道史上ならびに、わが国測量史上貴重な文化財であると言えます。

勇払基点1

三角測量勇払基点










掲載写真は、 山根 清一氏所蔵

北海道教育委員会・苫小牧市教育委員会資料より
http://www.city.tomakomai.hokkaido.jp/shogaigakushu/bunkazai/sankaku/sankaku.htm



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jmchako at 10:30 

2009年10月09日

相模野基線北端点(相模原市麻溝台4-2099-2
−相模原市指定史跡 指-19(平成132001)年
41日指定)−

   明治新政府は「富国強兵」、「殖産興業」を掲げ、このための測量・地図作製事業に着手し、全国規模の精密な地形図整備に取りかかりました。
  精密な地図を作成するためには、まず、全国に配置した三角点の位置 (緯度・経度・高さ)を正確に決める必要があり、三角点測量から始められました。 この測量は、当時、三角測量という方法で行われ、近傍の三角点同士が形成する三角形の内角を経緯儀と呼ばれる器械を用いて測定するものです。 いくつかの地点で、 三角点間の距離を精密に測定しておけば、 あとは次々と角度を測るだけで 全国の各三角点の経緯度が決まり、三角点間の距離が決まります。図形としてみれば三角形の角度を測り、 計算方法としては三角関数を用いることから、 このような方式の測量は三角測量と呼ばれました。この、ところどころで三角点間の距離を精密に測った最初の場所が、この相模野基線(基線の全長距離5209.9697メートル:明治15年測定) であり、参謀本部陸地測量部によって設置された全国13箇所の基線場の内の一つです。この基線場は、相模原市が史跡指定する  「相模野基線北端点 (一等三角点・下溝村)」 のほか、座間市内の 「南端点 (一等三角点・座間村) 」及び「中間点」が現存しています。
   当時の相模野は、 広く平坦な原野であり、見通しが良いので基線場としては最適地でした。
相模野基線北端点/一等三角点「下溝村」
相模野基線北端点










     地図をクリックすると拡大します
相模野基線・地図






















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jmchako at 10:30 

2009年09月25日

          内務省地理寮水準点(高低几号標)
           (横浜市南区八幡町1番地 中村八幡宮)  
    −横浜市地域文化財史跡
                     (平成101998)年119日指定)−
  
  明治維新以来日本が近代国家となって行く上で、 鉄道・道路・港湾・市街の建設等で測地事業は欠くことのできない事業でした。内務省は、明治7(1874)年1月内務省地理寮(後に地理局となる)を設置して以来、 「お雇い外国人」の指導の下、集中的に開港を進めた 五港 (横浜 ・ 神戸 ・ 新潟・ 函館 ・長崎)や東京 ・大阪 ・京都などの主要都市の市街図作製に力を注ぎ、明治17(1884)年以降に参謀本部陸地測量部に移管するまで測地事業を担当しました。

横浜では、明治7〜8(1874〜5)年に地図作製の骨格となる三角測量及び水準測量が行われ、明治14(1881)年に実測図が刊行されました。横浜は、近代測量による地図 (1/5,000) が完成した最初の開港地でした。

このときの水準点が、内務省地理寮水準点 (高低几号標)です。内務卿 (内務大臣) から布達状が出されており、これには「内務省で設置した水準点に 「不」 の記号(几号)を不朽物などに彫刻して標識として活用するように、また、適当なものが無い場合には、標識 (石標) を埋定し、標識に 「不」 の記号を付すこと」 としています。

「中村八幡宮」 の内務省地理寮水準点は、参道入口にある石階段の登り口の角柱に彫刻されており、 当時の地図と比較して位置が動いていないと思われます。なお、横浜において内務省地理寮水準点が全部で何ヵ所設定されたかは不明です。
 現在 「中村八幡宮」のほかに、 「伊勢山皇大神宮旧鳥居台座」(西区宮崎町)、 「妙香寺題目塔台座」  (中区妙香寺台)、「日枝神社旧稲荷社鳥居」 (南区山王町)、「庚申塔台座」(南区山谷)の4カ所で発見されていますが、何れも当初の位置にはありません。

08 中村八幡宮1(地理寮水準点)

 






「中村八幡宮」参道入り口の内務省地理水準点
(石段登り口、角柱左に彫刻)

09 中村八幡宮(角柱左彫刻)
            角柱左に彫刻

http://www.city.yokohama.jp/ne/news/arc/mpr/1998/98111002.html#hyo1

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jmchako at 09:01 

2009年09月11日

堀江水準標石(千葉県浦安市堀江4丁目1 清龍神社境内)

−土木学会選奨土木遺産
                     (平成192007)年1210日指定)−


   土木学会選奨土木遺産として指定された 「堀江水準標石」 は、日本最古の水準標石で、オランダ人技師 「I・Aリンド」 が明治5 (1872) 年8月にこの場所で観測した記録が彼の日記に残されています。日記によれば、8月に堀江で観測に着手してから、江戸川を水準測量による縦横断測量しながら遡り、関宿には9月に到着しました。更にここから利根川を下り、銚子の飯沼観音に10月にたどり着いています。

リンドは、飯沼観音の境内にも堀江水準標石と同様の水準原標石を設置し、この水準原標石の高さを決めるため、利根川河口に設けた水位尺(量水標)の零目盛を通る面を基準面にして高さをあらわしました。そして、これを名づけて日本水位 (J.P.:ジャパン・ペイル/ Peilはオランダ語で水準の意) と呼び、関東全域の高さの基準としたのです。

このように、わが国の高さは日本水準原点が完成した明治24年まで、河川ごとの河口に設けた水位尺の零目盛を基準としていたのです。

堀江水準標石リンド
  
 
  




  堀江水準標石(左) 
          
                I・A リンド(右)
写真は銚子リンド研究会設立記念講演会報告書より
http://www.gsi.go.jp/WNEW/koohou/475-5.htm   


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jmchako at 09:30 

2009年08月27日


日本水準原点標庫
(東京都千代田区永田町1-1-2

−東京都指定有形文化財(建造物)
          (平成81996)年318日指定)


  わが国の近代的な測量事業は明治初期から始まりました。
当時の高低測量の基準面は、各地の主要河川の河口付近に、主として治水の立場から設置された「量水標」 を用い、干潮位に近い水面を地域毎に決めていました。                             
               明治171884)年参謀本部に測量局が設置され、日本全国に共通した基準で一等水準測量が開始されました。この標高を決める基準点として明治24 1891) 年5月東京三宅坂 (参謀本部敷地内) に水準原点が創設されました。この原点は現存しており、今なお日本全国の標高の基準となっています。
  この建物は、日本最初の建築家と言われる、工部大学校造家学科第一期生4人のうちのひとり、佐立七次郎の作品で、4人の作品のうち現存する最古のものです。標庫は参謀本部陸地測量部の前庭にあたり、 水準原点である水晶板の零目盛 (当時の標高は24.500m、関東大地震後は24.4140m) の原点標を格納するために建設されました。
  建物の意匠は、小品であるが、ローマ神殿の形式を持つ本格的な古典主義建築です。メトーブ(正面上部)には菊の御紋章と大日本帝国の文字が浮き彫りになっています。

       明治24年5月に建設された水準原点標庫
日本水準原点標庫

http://www.gsi.go.jp/kanto/ki8bsuigenten.html

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jmchako at 16:01 

2009年08月14日

 測量に関する建造物および測量標のうち、文化財に指定されているものを選び、その歴史や機能を紹介します。

 

1.日本経緯度原点(東京都港区麻布台2-18-1

港区指定文化財(平成81996)年1022日指定)−


  日本経緯度原点 ( 写真) は、星を利用した天文測量により日本独自の測地系に基づいて、明治25年(1892年)に設置された我が国の位置の基準です。

  この場所には、明治7(1874)年から海軍の観象台が置かれていましたが、明治21年になって、海軍観象台と内務省地理局天象台の天文観測業務が東京帝国大学に移管され、付属の東京天文台が置かれました。    明治25年、陸地測量部は東京天文台で天文測量に用いられる 「子午環(しごかん)」 の中心位置を日本経緯度原点と定めました。
  日本全国の三角点の位置は、ここを基点として三角測量により決められたものです。その後、東京天文台は大正121923)年に三鷹へ移転しましたが、子午環跡は国土地理院が日本経緯度原点として引継ぎ、 現在もわが国の地図測量の原点として利用しています。  なお、大正12年の関東大震災の際に子午環は破壊され、その中心位置はこれより北微西に1メートル移動したことが地震後の測量によってわかりました。

日本経緯度原点のBL(経度・緯度)は、平成142002)年4月より、日本独自の日本測地系から世界共通の世界測地系に移行しました。このときの経度・緯度は、国際共同観測で行うVLBI(Very Long Baseline Interferometry:超長基線電波干渉法)観測により正確に求められました。これを基準として全国の三角点の経度・緯度が新しく決め直されました。

◆日本経緯度原点の緯度・経度の値の変更(2002年4月)

 

日本測地系による

数字(旧経緯度)

世界測地系による

数字(新経緯度)

新経緯度

旧経緯度

緯度

35度39分

17.5148秒

35度39分

29.1572秒

+11.6424秒

経度

139度44分

 40.5020秒

139度44分

 28.8759秒

- 11.6261秒


経緯度原点1経緯度原点2
 
 http://www.gsi.go.jp/kanto/ki8cgenten.html

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