見にウォーク
2013年03月25日
(公社)日本地理学会の2013年春季学術大会が、3月28日(木)〜31日(日)の日程で、立正大学熊谷キャンパスで催されます。
立正大学熊谷キャンパス内には、地球環境学部地理学教室がります。地図学会や地理学会の会員として活躍されている研究者も多く、交流のある読者も多いでしょう。地理学教室の礎を築いたのは、近代の日本の地理学・地誌学の大家で地理学会の会長も務めた田中啓爾(1885〜1975)で、同大学情報メディアセンターには、氏のコレクションを収蔵する田中啓爾文庫もあります。
電子国土WebNEXTから色別標高図
熊谷キャンパスは、埼玉県熊谷市の中心街から荒川を右岸に渡った江南台地上に立地しています。周辺は地形や地誌の面で大変興味深い場所です。大会最終日には、3班の巡検が企画されています。巡検テーマとこれと関連する周辺の見どころを紹介します(巡検コースそのものではないのでご注意ください)。
〈北関東における水資源の管理と水環境の変化〉
荒川沿いの低地は、扇状地から蛇行帯に移り変わるあたりになり、水利的にも重要な場所です。扇頂の寄居の近くには、埼玉県立川の博物館(かわはく)があり、治水・利水の歴史・現状を学ぶことができます。
鴻巣市(左岸)と吉見町(右岸)との間に架かる御成橋付近(河口から約60km)は、堤防間の河川敷幅が約2.5kmあり「川幅日本一」とされています。
行田市にあった忍城(おしじょう)は、周辺の水環境を活用した平城です。上杉氏、北条氏、豊臣氏など戦国の有力者との戦いにも落城せず、そのときの戦いぶりは、和田竜による小説『のぼうの城』を原作として映画化されました(2012年)。中心市街にある本丸跡地には行田市郷土博物館が、外濠跡には水城公園があります。
行田市東南部の微高地にある埼玉(さきたま)は埼玉県の県名発祥の地です。『新編武蔵風土記稿』にも記された埼玉古墳群は、5〜6世紀の築造と推定されています。さきたま風土記の丘として整備され、県立さきたま史跡の博物館に関連資料が展示されています。
埼玉古墳群.電子国土基本図(オルソ画像)から
〈秩父鉄道の発達と地域との関係〉
寄居から緑色片岩の露頭で知られる長瀞を経て遡った秩父盆地は、かつては生糸の産地で、秩父鉄道の前身である上武鉄道も当初は繊維製品を運んでいました。近代以降は武甲山の石灰岩採鉱によるセメント産業が盛んになり、秩父鉄道の主要な輸送品となりました。最近では沿線人口やセメント需要が伸び悩み、秩父鉄道による石灰輸送も1970年代をピークに減少気味で引き込み線も減りましたが、いまでも産業革命からつづく本来の鉄道施設の姿をみることができます。秩父本線の他にJR高崎線の貨物駅とを結ぶ貨物専用の三ヶ尻線があり、セメント工場に直結した操車場は、交差する上越新幹線の車窓から一瞥できます。
現在の秩父鉄道は通勤路線(の支線)としての性格が強くなり、旧国鉄や大手私鉄で1960〜1970年代に使われていた車両が走っています。セメント列車や蒸気機関車牽引の「パレオエクスプレス」とともに、これらOB車両を目当てに週末には鉄道好きな人たちがよく訪れています。
〈埼玉県北部の農と食とまちづくり〉
熊谷市近郊は、荒川や利根川の水利に恵まれ、江戸〜東京という大消費地にも近く、安定した農業が営まれてきました。
中山道の宿駅であった熊谷市中心街では、旧街道は容易に辿ることができますが、1ヶ所だけ百貨店の建物で一見途切れています。しかし、この八木橋百貨店1階売場には旧中山道の位置に合わせてた通路があり、それに沿って「中山道」「熊谷宿」と記された灯籠が置かれています。東西出入り口付近には「旧中山道跡碑」と記された石碑も置かれており、土地に刻まれた街道空間の記憶は保存されています。
第一軍管地方二万分一迅速測圖原圖「熊谷驛」(部分).
電子国土基本図(オルソ画像)に加筆.
八木橋百貨店の入口(2011)
熊谷には地方気象台があり、2007(平成19)年8月16日に岐阜県多治見市と並んで、日本における観測史上最高の気温40.9度が記録されました。この夏の暑さを逆手に取ったキャンペーンが市役所を中心に展開され、夏には、八木橋百貨店の入口に「あついぞ!熊谷」のキャッチコピーとともに気象台の観測値を表示する大きな温度計が置かれます。
この温度計の写真を表紙として地図中心467(2011年8月)号は「アツイぞ!熊谷」特集を組み、立正大学の研究者の方々に寄稿いただきました。
3月29日には公開シンポジウムもあります。地理学会員でない方も、地図中心467号を片手に、暑くも寒くもない季節の熊谷とその周辺を巡ってみてはいかがでしょう。
☆ ☆ ☆
今回ご紹介した見どころは「見に(ミニ)ウォーク」にしては広範囲なので、公共交通でのアクセス情報を、下に掲げておきます。
川の博物館: 東武東上線鉢形駅
御成橋(川幅日本一): JR高崎線鴻巣駅
忍城趾: 秩父鉄道行田市駅
埼玉古墳群: 秩父鉄道行田市駅から路線バス
秩父鉄道三ヶ尻線: 秩父鉄道武川駅
中山道と八木橋百貨店: 秩父鉄道上熊谷駅
八木橋百貨店の西口.脇に「旧中山道跡」の石碑がある.
八木橋百貨店1階売場.天井の黒い部分の直下が中山道の位置.
2012年07月27日
見にウォーク(5a)からの続きです。
土地の高さと験潮
三浦半島のなかでも海岸の出入りが特に著しい西南部、東西に細長い諸磯(もろいそ)湾からさらに深く湾入する油壷湾。外海の波の影響が少ないためヨットの係留地としても有名です。ここに国土地理院の験潮場があり、日本の地図における高さの基準のための重要な観測を行っています。
日本の土地の高さ(標高)は、東京湾平均海面を標高0mとして測られています。実際の海面は波や潮汐などで常に変動していて高さは一定していませんが、長い期間連続的に観測(験潮)し、その平均をとることで一定の高さが得られます。これを平均海面といいます。東京都千代田区にある日本水準原点では、東京湾平均海面上の標高値が固定されていて、離島を除く日本全国の水準点の標高値は、この水準原点との高さの差から求められています。
最初に東京湾平均海面が決められたのは1884(明治17)年です。これはその11年前から隅田川河口に設けられていた霊岸島量水標による潮位観測から求められました。国土地理院の前身である陸地測量部が発足した3年後の1891(明治24)年、日本水準原点が設置され、これとともに海に面した6個所の験潮場で本格的な潮位観測が始まりました。
外洋の波浪の影響がより少ない油壷に験潮場を設置されたのは、1894(明治27)年のことです。それまで千葉県銚子の高神村に設置されていた験潮場を廃し、そこの資材をそのまま利用して移設したと記録されています。
現在、油壷には新旧2つの験潮場が仲良く並んでいます。古い建物はアンティークな赤レンガ造りで、120年に迫る歴史を感じさせます。もう一方の新しい建物は、灰色の石造りで周囲の自然の色調からはみ出ないようデザインされ、GNSSアンテナが附属しています。お互い鼻を突き合わせるようにして、ヒッソリと海面の高さ(潮位)を観測し続けています。
験潮場は、海中から導水管という長い管で海水を井戸に引き、この井戸にフロート(うき)を浮かべ、そのフロートが上下する量を観測・記録する施設です。この験潮場から約90km離れた日本水準原点へ、水準測量により毎年取付け観測が行われ、水準原点の高さを点検しています(→国土地理院による解説)。
関東大地震
旧験潮場の基礎が載る岩棚の海側に、高さ2mあまりの細長い石柱が突き刺さっているかのように垂直に立っています。石柱の正面には上から下まで縦に幅広い溝が刻んであります。この溝には木製の量水標(水位標)がはめ込まれていたようです。これは、験潮儀の記録紙が描く潮位が実寸でなかったため、実際の干満を量水標により読み取り、験潮儀の縮率を決めるために置かれたものと思われます。また、験潮儀が故障の際には、海面の動きをこの量水標を用いて測定していたようです。
しかし現在、この石柱は岩棚ごと干上がっており、量水標として使うことができません。本来の目的を失ったその姿は、なにやらみすぼらしく恥ずかしげです。
1923(大正12)年9月1日、首都圏に大きな被害(関東大震災)をもたらした関東大地震(Mj7.9)が発生しました。このとき油壷験潮場では1.4mもの潮位低下、つまり地盤の隆起を観測しました。2011年に発生し東日本大震災をもたらした東北地方太平洋沖地震(Mw9.0)では、太平洋岸の広い地域で地盤の沈降が観測されましたが、関東大地震では、三浦半島南部だけでなく、房総半島や相模湾奥の大磯付近を中心に広範囲で地盤の隆起が観測されました。
1923年をはさんだ潮位記録(クリックすると拡大します)
関東大地震では、震源断層が浅く一部は陸域下にもかかっていて、海溝型地震であるにもかかわらず、直下型地震にも似た激しい地震動が神奈川県南部を襲い、隆起域の一部が陸上にも掛かったのです。
この地球科学的事象は、験潮儀の記録紙にだけでなく、量水標跡とそれが載る岩棚自体が干上がってしまったことで、建物と地形にも保存されているのです。前回(5a)ご紹介した海岸の岩棚は、三浦半島南部から房総半島南部にかけて広く分布し、これらの地域が釣り人に愛好されているのですが、これは関東大地震の痕跡でもあるわけです。
油壷験潮場からの水準測量で取り付けている日本水準原点の標高値は、関東大地震での地殻変動により改訂されましたが、東北地方太平洋沖地震でも変動が観測されたため、再度改訂され、現在は東京湾平均海面上24.3900mとされています。
新旧の験潮場では、引継ぎのための並行観測を終え、赤レンガの験潮場の存続が論議されているようです。大地震の地殻変動が保存されている石柱・建物ともどもこの地から失われることがないよう願っています。
(ここまでの2項は、jmchakoによる)
週末には岬をめぐろう
『岬めぐり』という歌があります。山本コウタロー&ウィークエンドというフォークグループの代表曲で、1974年にヒットしました。失恋の歌なのですが、伸び伸びとした曲調から、夏の北海道のバス旅を連想していました。山本コウタローさんによると、北海道や四国を思い浮かべて作曲したそうですが、後に作詞者の山上路夫さんとの対談で、舞台は「三浦半島だ。」ときかされ驚いたそうです*。
いわれてみれば、雄大な北海道では、岬へ行くだけで大旅行になり「めぐる」という感じではないかもしれません。それに比べ、三浦半島ではバス路線網も充実しており、荒磯と砂浜が交互にみられる海岸沿いを走れば、岬は次々と現れてきます。地層による浸食の違いや地殻変動が、海岸線の出入りが著しい地形を造ったのです。
三浦半島は、東京とその近郊から、週末に日帰りまたは1泊で気軽に訪れるのにちょうどよい海浜リゾートです。岬めぐりのバス旅に最適な切符があります。京浜急行「三浦半島1DAYきっぷ」「三浦半島2DAYきっぷ」、で、半島の主な路線バスに自由に乗降できます。
変化に富んだ地形・風光を楽しみ、三崎港で陸揚げされたマグロを味わい、そして地震と地殻変動について少し心に留めたら、週末旅を終えて三崎口始発の快特電車に乗って街に帰りましょう。三崎口駅の案内チャイムのメロディは『岬めぐり』です。
帰りの車中では、心地よい疲れに身をまかせていればよいのですが、2駅目の津久井浜から次の京急長沢との間では、もう少しだけ地形に注目してください。丘陵を短いトンネルで抜ける直前、上下線路が少し離れるあたりは、関東大地震時に地表地震断層が現れたところです**。
1:25,000都市圏活断層図「横須賀・三崎」***から
* 佐藤晴美(2005):「岬めぐり」の"岬"をめぐる.荷風!Vol.3. 日本文芸社.
** 太田陽子・山下由紀子(1992):三浦半島の活断層詳細図の試作.活断層研究, 10.
***渡辺満久ほか(1996):1:25,000都市圏活断層図「横須賀・三崎」.国土地理院技術資料D.1-333.
(見にウォーク (5) おわり )
2012年07月20日
夏休みと少年ドラマ
地図センター本社がある東京都目黒区の公立小中学校では、7月の第4週から夏休みに入ります*。夏休みの始まりといえば、子供たちにとって2学期など未だ視界に入らず、今夏こそ何か冒険ををしてみたいと思ったものですが、現在ではどうなのでしょうか?
1970〜80年代、NHK総合テレビで「少年ドラマシリーズ」という番組がありました。1973年夏に放映された『つぶやき岩の秘密』。三浦半島の西海岸に住む少年が、岬の断崖に老人を目撃したことから、奇妙な事件に巻き込まれ、幼い頃の両親の死の秘密に絡んだ謎を解いていくというミステリ冒険譚でした。
全編が三浦半島の三戸海岸でのロケで、映画のようなタッチの画面が臨場感を出していました。夕景の海に石川セリが歌う主題歌『遠い海の記憶』がかぶさるエンドタイトルの印象から、晩夏の放映だったと思い込んでいましたが、情報サイトによると7月9日〜19日で、夏休みの直前でした**。
原作は、『孤高の人』『剱岳・点の記』など山岳を舞台にした小説で知られる作家・新田次郎(1912〜1980)です。生誕百年にあたる今年(2012年)6月に新潮文庫として再刊行されました。
ジュヴナイル篇にしては文章が硬質ですが、小学校高学年が夏休みに、少し背伸びをして読むのに適しているともいえます。気象庁技官だった作者ならではの天候に関する記述が効果的に使われていますが、登山経験に裏打ちされた地形の描写も的確です。磯浜から急坂を登り詰めると、何事もなかったかのように平坦な台地面に大根畑が広がる風景は、まさに三浦半島のものです。
ミステリ作品ですので、あまり詳しく立ち入るわけにはいきませんが、実在する地形を観ながら、三浦半島西南部を歩いてみましょう。
海岸段丘
京浜急行久里浜線の三崎口駅で下車します。ホームは切り通しの中にありますが、階段を上がって改札を出ると駅前は平坦な地形です。
三浦半島南部の地形は、広い段丘(台地)面と海食崖で特徴づけられます。地形学の研究から段丘面は大きく3段に区分され、高い(古い)方から引橋面、小原台面、三崎面と名付けられています。三崎口駅前の台地面は三崎面で標高40mくらいですが、北方向を眺めると一段低い標高30m内外の台地面が広がっています。こちらも三崎面なのですが、活断層による変位を受けて高さが違っているのです。
後編(5b)で訪ねる油壷へはバス便がありますが、三戸海岸へは頑張れば歩いていける距離です。逗子、葉山方面から通じる国道134号は、三崎港方面に向かって上り坂で、三戸入口というT字路では標高50mを越えています。このあたりは小原台面です。三戸海岸方面へ右折すると緩い坂を下って三崎面に戻り、畑の中をさらに1kmほど歩きます。1970年代の空中写真では左側に台地を刻む「谷地」がありますが、現在は圃場整備の工事中で地形が変わっています。
主人公たちが住む村のモデルと思われる初音漁港付近の集落は、谷地を塞いだ砂州(砂碓)の上に載っています。夏は海水浴場になる砂浜からは、晴れていれば、相模湾をはさんで富士山や伊豆半島がみえます。小説では、漁港の南にある断崖が「塚が崎」、崖下に「つぶやき岩」、突端の先に岩礁「鵜の島」、そして「塚が崎」には旧日本軍が「本土決戦」に備えて掘削した洞窟があります。
三浦半島にみられる岩は新第三紀の凝灰質堆積岩で、掘削しやすい割には崩れにくく、旧軍の重要施設が多かった三浦半島には、実際に要塞跡の人工洞窟がたくさんあります。
海岸からは岩山にみえる「塚が崎」の上は照葉樹林に覆われ、その背後の広い台地面上は大根畑(夏は西瓜畑)です。「つぶやき岩」のある荒磯には、海面から1〜2mの高さの岩棚があり、釣り人に絶好の足場となっています。
「塚が崎」の南は、小網代湾という東西に細長い湾入で、小説やドラマにもでてくるヨットハーバーがあります。このあたりから三崎港にかけて、海岸の出入りが著しく、海食崖と小さな浜が交互に現れます***。
小網代湾の南に突き出た長さ約1kmの細長い半島も、頂部は台地面(三崎面)となっており、リゾートホテルやマリンパークなどの観光施設が立地しています。この半島の南に食い込む湾入は油壷湾で、国土地理院の験潮場があります。
見にウォーク(5b)では、油壷験潮場を見学します。
三戸海岸付近の地形図画像
1970年代の空中写真
地形分類(土地条件図)
* 学校の夏休み期間は、地域によってかなり違うので、季節感は補正して読んでください。
** NHK少年ドラマシリーズについては、充実した情報サイトがいくつもあります。この記事ではここを参照しました。本ブログでも、2011年6月の記事『東北地方太平洋沖地震/東日本大震災 (3) 須知徳平「三陸津波」』で言及しました。
***岬先端部の崖下は足場が悪く干潮時でも歩いて通り抜けることは不可能です。
2012年05月11日
ゴールデンウィークも過ぎ、年度の仕事や学業は早くも前半の山場にさしかかっています。仕事や学業の追い込みにお疲れ気味の方におすすめしたいのがここ数年静かなブームになっているパワースポットです。さあ、気力アップのためにさっそく出かけましょう。今回紹介するのは、東京都心にある意外に険しい山〜愛宕山です。モデル・ルートは、次のとおりです。
都営地下鉄大門駅〜芝大神宮〜愛宕トンネル〜愛宕山(男坂・女坂)〜愛宕神社〜NHK放送博物館
【歩行距離】約4Km 【歩行時間】約2時間
都営地下鉄大門駅A6出口を出てすぐに右折し、路地を入った左手に芝大神宮の大きな鳥居が見えます。芝大神宮の御祭神は、大照大御神と豊受大御神の二柱。伊勢神宮の神様をお祀りしているので「江戸のお伊勢さま」と、将軍家から江戸の庶民まで尊崇をあつめ、おおいに賑わったそうです。縁結びで有名な「千木筥(ちぎばこ)」は檜の曲物で藤の花が描かれた函です。このお守りのご利益は「千木」と「千着」をかけ衣装が増えますように、箪笥に入れて置きます。さらに女性の幸せ全般に効果があり、良縁に恵まれ幸せな結婚ができるという有り難い縁起物のお守りなのです。しかも、最近女性週刊誌に紹介されたそうで、女性参拝者が絶えません。
芝大神宮(左)、千木筥(右)
芝大神宮を後に細い路地を新橋方向に進んでゆくと、思わず食欲をそそられる飲食店が点在しています。ここはひとまず我慢してお帰りの楽しみにします。日比谷通りを越え、愛宕下通りを進み愛宕神社前交差点に差しかかると見えてくるのが、愛宕隧道(あたごずいどう)です。東京23区内で自然の山を掘り抜いた唯一の山岳トンネル、と国土交通省関東地方整備局の広報誌で紹介されています。記念に写真を撮りました。さて、愛宕山を目指します。
愛宕隧道
世の中には、実際に目にしなければ本当のすごさが分からないものが、たくさんあります。麓に着くと同時に感じられたのですが、愛宕山に登るための「出世の階段」(別名「男坂」)の急勾配も間違いなくそのひとつに数えられるでしょう。傾斜角は37°、86段で踏面もせまく、踏み外すと危険なので両側に石造手摺、中央に鎖の手摺が設置されています。「こ、これは・・・」と思いましたが、せっかくここまで来たのだから由来のとおり「きっといいことがあるはず」と思いなおして登り始めます。正直30段目くらいで「あー!来なきゃよかった」と後悔しつつ、もう一段、さらに一段、また一段・・・
男坂(左)、女坂(右)
やっとの思いで山頂の愛宕神社です。境内は、都会の喧噪とは一線を画すような雰囲気に包まれていました。ここが山頂だとは思えないほど平らで、どの場所も整然ときれいに保たれていることに驚きました。大国主命を祀る大黒天社、猿田彦神を祀る太郎坊社、美しい市杵島姫命を祀る弁才天社と池などもがあり、こんとんと沸き出す水の清らかな音を聞くだけでも、この場所を訪れる価値が十分にあります。
愛宕神社(左)、弁才天社と池(右)
三等三角点「愛宕山」
愛宕山(海抜26メートル)は自然の山として都区内随一の高さを誇り、桜と見晴らしの名所として、江戸庶民に愛され数多くの浮世絵にもその姿が描かれています。明治元年には勝海舟が西郷隆盛を誘い下の写真のような眺めの山上で、江戸市街を見わたしながら会談し、無血開城へと導いたのでしょう。鉄道唱歌にもその名が唄われ、春は桜・夏の蝉しぐれ・秋の紅葉・そして空気の澄んだ冬景色と、四季折々の顔を持つ風光明媚な愛宕山は、都心でも自然の息吹を直接体験できる貴重な場所です。散策中に三角点を発見し、思わずパチリと写真を撮ってきました。
明治元年の愛宕山からの眺め(左)とその撮影場所(右)
放送博物館の展示から
ここには調和のとれた世界がありました。癒しのパワーと出世の王道「男坂」を登ってエネルギーをもらい、七福神の大黒様と弁財天様さらに猿田彦様までいらっしゃるのですから、多彩な恩恵で出世できるというのもうなづける気がします。
NHK放送博物館入り口(左)と展示(右)
最後にNHK放送博物館に向かいます。世界初の放送専門の博物館として1956(昭和31)年に開館しました。日本の放送が始ってから80余年、ラジオからテレビへ、さらに衛星放送、ハイビジョン、そして昨年からデジタル放送へと大きく進歩・発展してきました。“放送のふるさと”愛宕山は靜かにその歴史を刻んできました。博物館の展示を見ているだけでも、昭和〜平成への時代の流れを感じられます。この博物館は入場無料です。お得な感じのするウォークでした。
(Photo & Report by jmchashi)
[地図センターHomePage]
2012年01月06日
砂浜の美しい人魚像。ここは、新潟県上越市大潟区の日本海に面した九戸浜海岸です。人魚像といえば、アンデルセン童話『人魚姫』をモデルにしたコペンハーゲン(デンマーク)のそれが有名です。あちらは人間の王子様との悲恋のお話しですが、こちらにも人魚にまつわる悲恋伝説があります。
・・・海岸に沿った松林に覆われた大きな砂丘上に、沖行く船のための常夜灯を備えた古い神社があった。いつも献灯している若者が、常夜灯めざして佐渡から毎夜海を渡ってくる女と知り合い逢い引きを重ねるが、一晩献灯を休んでしまった翌朝、海岸に女の屍があがる。女の下半身は魚だった・・・。
人間界に憧れる女(人魚)とそれに気づかず見捨てる男 (人間)。アンデルセン童話と話の流れは似ていますが、オチは怪異譚によくあるパターンです。「女は人魚だった」という代わりに、若者が女を追って入水するバージョンもあり、柏崎や佐渡にも伝わっていますから、越後と佐渡との交流史のなかのエピソードに、海難事故や人魚にまつわる別の言い伝えが重なったのだと思います。
人魚像から北へ数百メートルの雁子浜に人魚伝説の碑があります。元の人魚塚は近くの別の場所に現存しているようなのですが、こちらは1993(平成5)年に小さな公園として整備されました。維持管理はされているようですが、冬は日本海からの寒風が吹きつける環境で、ちょっと荒涼とした雰囲気です。
上越市出身の作家、小川未明(1882-1961)が1921(大正10)年に発表した『赤いろうそくと人魚』という童話をご存じでしょうか。小学校または中学校の国語の教科書で読んだひともいるかもしれません。雁子浜の人魚伝説をモチーフとして、さらに美しく、しかし怖い結末の物語に昇華されています。
人魚は、南の方の海にばかり棲んでいるのではありません。北の海にも棲んでいたのであります。北方の海の色は、青うございました。
・・・人間界に憧れた人魚が、海岸の丘にある神社に子を産み落とす。人魚の子は、神社の麓でロウソクを売る夫婦に育てられ、美しい娘に成長する。娘は恩に報いようと、白いロウソクに赤い絵具で絵を描く。神社に灯された絵入りロウソクは幸運を招き航海の安全を守ると評判になり、ロウソク屋も神社もそのふもとの町も賑わう。
しかし評判を聞きつけた香具師(やし)にそそのかされ、老夫婦は娘を売り渡してしまう。香具師に連れ出されるとき、人魚の娘は真紅に染めたロウソクを残していく。 その晩、髪の濡れた女が赤いロウソクを買い求め神社に灯すと、海が荒れ多くの船が難破する。以後、神社に灯される赤いロウソクは不吉を招くようになり・・・
幾年もたたずして、そのふもとの町はほろびて、滅くなってしまいました。
ほのぼのと展開しかけた物語が、老夫婦の心変わりとロウソクが赤く染められることによって暗転し、冒頭の青く冷たい海に引き戻されます。突き放したような最後の一文には、大人になって再読したときゾッとさせられました。
ここ大潟区付近は頸城平野(高田平野)の一画で、砂丘を載せた海岸砂州に閉塞された後背地が潟湖やデルタ(三角州)となり、内陸の山地・丘陵地から流れ込む河川の沖積作用で低地が形成されています。日本海側の平野によくみられる地形の組合せです。多くの平野で潟湖は埋立てや干拓で縮小・消滅していますが、ここでは平野面積の割には広い水域が残っています。一帯は頸城油田で、1956年に帝国石油(株)が試掘を行っていたところ温泉が湧出し、1958(昭和33)年に「鵜の浜温泉」と名付けられました。海岸砂丘に沿って、数件の温泉旅館と第三セクターの公衆温泉施設や海水浴場があります。比高30m以上、幅2km以上におよぶ砂丘の背後に、松林に囲まれて7つの潟湖があり、冬には白鳥が飛来します。内陸側の低地には、広大な水田がひろがり、米どころとなっています。
夕日が沈む日本海、あるいはシベリアからの寒気とともに吹き寄せる雪雲の下の日本海を眺めながら、やや塩辛い温泉で温まり、地元の海の幸をサカナに米どころの地酒を・・、などと書いていると、それだけで旅心をそそられます。
国土庁(1973)『土地分類図(新潟県)』((財)日本地図センター発行)から
「地形分類図」に加筆。
海岸砂丘の上を、国道8号、JR東日本信越本線、北陸自動車道がほぼ並行に走り、信越本線犀潟駅から分岐する北越急行ほくほく線が頸城平野北部を横断しています。鵜の浜温泉へは、信越本線の潟町駅下車、北陸自動車道では柿崎ICから国道8号を南西へ約5kmのところです。北越急行線に乗ると、米山(993m)を北に見ながら160km/hで駆け抜け、頸城平野の地形の成りたちと、内陸に向かって積雪が急に増す様子とが、短時間で一覧できます。
鵜の浜温泉は、いわば海浜型リゾートで、上越市郊外として集落も発達していますが、あまり大規模ではなく、海岸砂丘と松林を中心とする景観が保たれています。
山の上には松が生えていました。その中にお宮がありました。海の方から吹いてくる風が、松のこずえに当たって、昼も、夜も、ゴーゴーと鳴っています。
人魚塚近くの砂丘の上、松林内にある諏訪神社は小説の描写そのままでした。 風と海の音だけが聞こえる境内に、献じられた灯籠が並んでいました。
小川未明(1951)『小川未明童話集』新潮文庫,257p.に収録された「赤いろうそくと人魚」からの引用です。
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2011年08月19日
墨東( 旧・寺島町)を歩く(後編)
江戸 〜 東京の街歩き。NHKの人気番組『ブラタモリ』もその興味のなかで視聴したひとも多いと思われます。しかし、そこはタモリ氏、単なる懐旧趣味に陥ることなく、街路を這いつくばり坂をよじ登って見出す高低差から、江戸〜東京の地理的な成りたちに迫っていました。
前回に引き続き、永井荷風『墨東綺譚』(原題で「墨」は、さんずい辺に墨の旧字体、以下同様)をベースに、作者の永井荘吉氏(荷風)と主人公の大江匡氏との3人連れの散歩を続けましょう。
[東向島(旧・玉の井)](承前)
大江氏は、東武鉄道玉の井駅の少し北千住寄りで線路と交差している土手に夏草をかきわけて登り、街並みを見下ろします。この土手は、刊行前年の1936(昭和11)年に廃止された京成電気軌道(現・京成電鉄。以下「京成」)白鬚線の築堤跡です。
崩れかかった石段の上には取払われた玉の井停車場の跡が雑草に蔽われて、此方から見ると城址のような趣をなしている。
梅雨期に雑草に蔽われた場所では蚊に襲われはしないか、という野暮な詮索はさておき、ここで言及している「玉の井停車場」は、京成白髭線にあった、もうひとつの玉の井駅です。廃墟や城跡は、ひとを惹き付けるものがあります。主人公を先ずここに登らせたのは、小説の舞台となる街を俯瞰することが目的でしょうが、同時にこの作品の基調となっている過去の風物への郷愁をいっそう喚起する意味合いもあったのかも知れません。
東京から千葉県北部に路線網を持つ京成は、東武の浅草雷門への乗り入れと同じ年に、青戸から分岐する別線で隅田川に架橋し、上野に乗り入れます。東武、京成の両社が、渡河に至るまでの試行錯誤の跡は、地図にも表れています。
京成白鬚線は、1928(昭和3)年に当時のターミナル押上駅から2駅目の向島駅(今はない)で本線から分岐し、隅田川左岸(東岸)の白髭神社付近まで開業した路線でした。1947(昭和22)年発行の1:25,000地形図「東京首部」では鉄道路線は修正の対象になっておらず、すでに無い京成白髭線の表示がそのまま残っています。下り向きに分岐しており、白髭橋を渡った対岸にある、同じ軌間( 1372 mm )の王子電気軌道(現・都電荒川線)は郊外をむすぶ路線であり、はたして都心乗り入れを意図した路線だったのかどうか判然としませんが、みるからに半端な区間です。
荷風のもうひとつの代表昨『断腸亭日乗』によると、小説の取材のために玉の井を頻繁に訪れるのは1936(昭和11)年になりますが、その前にも何度かこの近辺を散策し、営業中の京成白髭線も目撃しているハズです。高い建物が少ない当時、築堤を走る白髭線の視覚的な存在感は大きかったに違いないのですが、『日常』にそれらしい記述はありません。
京成玉の井駅跡から隅田川河畔にかけては、江戸時代に設けられた民間庭園で現在は東京都が管理している向島百花園、古い太陽神とみられる猿田彦命を祀る白髭神社など、向島の歴史を伝えるスポットがあります。旧町名「寺島」は、小学校の名に残っています。一方、東へ水戸街道との間にかけては、かつての畦道をそのまま路地にしたような迷路のような街並みで、昭和戦前期には私娼街だったそうです。この街を取材しながら荷風が描いた手書きの地図が『断腸亭日乗』に掲載され、さらにそれを基に挿絵画家が描いたと思われる地図が『墨東綺譚』に載っています。
築堤を降りた大江氏は、この迷路に踏み込んですぐ夕立に遭い、傘をさしたところに若い女が飛び込んできて『奇譚』の本筋が始まるわけです。ドブ川が匂い立ち、蚊が跋扈する迷路の街を背景に、そこに暮らす女神(ミューズ)のようなヒロインお雪さんと主人公との交歓を、荷風はわりと乾いた筆致で描いています。
玉の井の街の大半は1945年の空襲で焼かれ、今では平凡な下町ですが、迷路然とした路地のパターンは殆ど変わらず、一部の建物には歓楽街だった頃の面影が残っています。
東向島付近(1:10,000地形図「青戸」の一部に加筆)
[鐘ヶ淵]
伊勢崎線は東向島を出ると鐘ヶ淵に向かって高架から地上に降りていきます。京成白髭線跡を横切っているハズなのですが、築堤は跡形もありません。土地条件図をみると、付近の地形は埋土であり0mの地盤高線がみえます。地盤沈下に伴い、築堤を構成していた土は、周囲の地盤に埋没してしまったのでしょうか。
鐘ヶ淵の名は、「お寺の鐘を小舟に積んで隅田川を渡ろうとしたところ、舟が傾いて鐘が沈んでしまい・ ・ ・ 」、という由来だそうです。明治時代の殖産興業政策に沿って設置された鐘ヶ淵紡績工場の後身が、有名な化粧品会社です。
鐘ヶ淵駅構内は広く、片隅に大型の保線機械群が昼寝をしています。これとは対照的に狭い駅前には、6方向からの道が集まって踏切となっており、朝夕の交通事情が気になりますが、それぞれの道は適度に狭く、歩きやすい活気のある商店街となっています。
[堀切]
東武伊勢崎線は、鐘ヶ淵駅と堀切駅の構内でそれぞれ急カーブを描き、その間は荒川の堤防に張り付くように走っています。1902(明治35)年開業時には、もっと緩いカーブで東側を回り込んでいましたが、荒川放水路(現・荒川)の開削(竣工は1930(昭和 5)年)によってつけ替えられました。河川敷では、天気の良い日には大勢のひとびとが散策したり運動したりしていますが、あまりに広大なため少々歩いたくらいでは景色が全く変わらず、ある意味で街歩きより疲れます。
堀切駅は、旧・荒川本川の隅田川と放水路との間隔が狭まった付近にあります。今は対岸にある菖蒲園の最寄り駅でしたが、放水路によって分断されてしまいました。堤防脇の小さな駅舎はローカル線の駅のようで、明治学院大学の原武史教授は「いま永井荷風が散歩に降り立ってもおかしくない雰囲気をとどめている」と評しています。
1932(昭和7)年1月、永井荷風は堀切駅に降り立ちます。そして、竣工間もない放水路の水辺を散策し、その数日後に初めて玉の井を訪れています。
見渡すかぎり枯蘆の茫々と茂りたる間に白帆の一、二片動きもやらず浮かべたるを見る
放水路の眺望を好んだ荷風は、ここを何度も訪れ、エッセイ「放水路」を書き上げます。堀切駅前には、墨田水門から隅田川をつなぐ短い堀割があり、首都高速の高架橋がその上空を通っていますが、この堀割がかつての綾瀬川の旧流路であることを、「放水路」のなかで推察しています。
放水路の水辺と、その周辺の風物に創作意欲をかき立てられた荷風は、さらに勢いづいて寺島町を取材、そして『墨東綺譚』の上梓となっていくわけです。
斜体文字は、『摘録断腸亭日乗』(岩波文庫)および『墨東綺譚』(岩波文庫)からの引用です。
2011年08月05日
古地図を片手に江戸〜東京の街歩きが、趣味の一分野として定着しています。
目的地に行くための手段としてではなく、風物を観察しながら歩き回る「散歩」を最初に実践しエッセイとして公表したのは、永井荷風( 1879-1959 )といわれています。今世紀に入った頃から、定年を迎えようとしている中高年男性の一部を中心に、荷風の何者にも束縛されない生き方に共感した街歩きが、静かなブームとなってきました。さらに、究極の「おひとりさま」としての荷風の生活に価値を見出す女性も増えているようです。
永井荷風の街歩きに関わる代表的な著作は、江戸切絵図を片手に散策する『日和下駄 一名 東京散策記』(1915)でしょう。 目次をみると「日和下駄」「淫祠」「樹」「地図」「寺」「水 附渡船」「路地」「閑地」「崖」「坂」「夕陽 附富士眺望」とあり、一部に古めかしい用語はあるものの、地理学・地図学の参考書にそのまま使えそうな項目が並んでいます。「富士眺望」とくれば、筑波大付属高の田代博さんが主催する「山の展望と地図のフォーラム」の前身のようにも思えます。
荷風の作品には、『日和下駄』以外にも、エッセイやフィクションに関わらず、舞台となった場所の生き生きとした描写が特徴です。代表作『墨東綺譚』(1937)では、作者自身がモデルと思われる主人公・大江匡が次(原題で「墨」は、部首はさんずいに墨はつくり字体、以下同様)のように語っています。
小説をつくる時、わたくしの最も興を催すのは、作中人物の生活及び事件が開展する場所の選択と、その描写とである。
「墨東」とは隅田川の東岸の土地を表し、いまの墨田区とほぼ同じ範囲とみられ、今では、2012年に完成する東京スカイツリーを間近で眺めようとするひとびとで賑わっている界隈です。永井荘吉氏(荷風)と大江匡氏との3人連れで、東武伊勢崎線に沿って歩いてみましょう。
[業平橋]
いままさに東京スカイツリーが建っている現場です。浅草駅から東武伊勢崎線に乗って最初の駅。ホームからあまりに近いので、首が痛くなるほどに見上げることになります。駅周辺の食堂や商店では、スカイツリーに因んだ商品も提供し、いつも賑わっています。
そば処 かみむら、名物「タワー丼」
業平橋の駅名は、平安時代の歌人・在原業平に由来します。藤原氏との抗争に敗れ、無冠のままでの諸国放浪は『伊勢物語』のモデルになっています。『古今和歌集』の撰歌となっている、
名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと
という歌は、隅田川の渡舟で詠んだとされています。駅前を通る道路を北西に行くと隅田川を渡る言問橋に至ります。
業平橋駅は、1902(明治35)年に吾妻橋駅として開業し、一時休止をはさんで、1910(明治43)年に浅草駅と改称され、長らく東武鉄道(以下「東武」)のターミナルでした。1931(昭和6)年、隅田川に架橋して浅草雷門(現・浅草)駅を開設したとき、現行名となりましたが、広い構内を活かして操車場や貨物駅が併設されていました。貨物駅は2003(平成5)年に廃止され、不要となった広い敷地が東京スカイツリーの建設地となりました。2012年のスカイツリー完成に併せて「東京スカイツリー駅」に改称される予定です。
1:25,000地形図「東京首部」1947年修正
[曳舟]
スイカイツリーの建設現場を右にみて、北へ急カーブを描くあたりから、いろいろな鉄道路線が絡み合ってきます。地下鉄半蔵門線から押上駅を経てきた線路が、地下からせり上がってきて上下線の間に分け入り、直ぐ脇をかすめた京成線の下をくぐってきた亀戸線がさらに合流し、3路線併せて曳舟駅に入ります。周辺は、いかにも「昭和」のイメージそのままの商店街と、工場跡地に新築された高層マンションとが隣り合っています。
駅名は、江戸時代に古利根川から引かれた葛西用水路の、江戸近郊での通称「曳舟川」に由来します。江戸に集まる物資を満載した高瀬舟を、水路沿いの道から牽く航行法がそのまま水路の名となりました。隣の押上駅とで「押し・曳き」というペアになりますが、地元の資料によると、水路に江戸湾の潮が常に「押し上がってきた」ことに由来するそうです。
大江匡氏は、小説の取材のため、「六月末の或夕方」に、東武の玉の井駅周辺、当時の町名では寺島町を訪れます。
踏切の両側には柵を前にして円タクや自転車が幾輛となく、貸物列車のゆるゆる通り過るのを待っていたが、歩く人は案外少く、貧家の子供が幾組となく群をなして遊んでいる。降りて見ると、白髯橋から亀井戸の方へ走る広い道が十文字に交錯している。
現在の、水戸街道(国道6号)と明治通との交差点で、今とはかけ離れた光景です。伊勢崎線は高架化され踏切はなくなりました。玉の井駅は町名変更に合わせて東向島駅に改称されていますが、駅名標には旧名が併記されています。高架下には東武博物館が設けられ、蒸気機関車から1世代前の特急電車までの実車展示、関東平野を模した鉄道模型ジオラマ、電車やバスの運転シミュレータが揃い、夏休み期間中は鉄道好きの少年達が集まってきます。
(つづく)
水戸街道(国道6号)を跨ぐ東武鉄道と背景のスカイツリー
斜体文字は『古今和歌集』『墨東綺譚』からの引用です。
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2011年05月20日
新緑の時期になり、ウォーキングに最適な季節が訪れました。そこで今回は、短時間で歩けてNHK大河ドラマの今年の主人公「江」(「江姫」)が眠る増上寺 (東京港区)を中心に回る『見にウォーク』と称して「地図の散歩道」でご紹介します。
*都営大江戸線大門駅〜大門〜三解脱門(三門)〜増上寺(徳川将軍家霊廟)・貞恭庵〜東京タワー(「江」展)
【歩行距離】3.2Km 【歩行時間】約2時間
NHK大河ドラマ「龍馬伝」はかなり盛り上がりましたが、それに続く「江〜姫たちの戦国〜」も好調なスタートをきりました。 男性中心の戦国の世を生き抜き、平和で安定した江戸時代の始まりに影で貢献した強くしなやかな女性「江」にあやかろうと放送開始以来多くの女性参拝客が訪れているようです。
はじめに「江」が夫 ・秀忠公と一緒に眠る増上寺をめざします。都営地下鉄大江戸線大門駅 (A6) 出口を目指して歩いていると、1904(明治37)年の東京の巨大パノラマ写真が壁に掲示されています。地上に出るとそこは大門通り。浄土宗大本山増上寺の総門・表門にあたり、地名の由来になっている大門をくぐります。
*明治37年の東京増上寺近辺(1904年)
*この大門は増上寺の総門ですが、昭和12年に造られた比較的新しい建造
その先約200m(108間)には、国の重要文化財である三門がどっしりと構えています。増上寺の表の顔として、東京都内有数の古い建造物であり東日本最大級を誇るこの門は、浄土宗大本山の中門にあたり、正式名称を三解脱門といいます。この門は三つの煩悩「むさぼり・いかり・おろかさ」を解脱する門ということになります。門をくぐると何となく身を清められた感じがします。
*三門(三解脱門)
*【増上寺と東京タワー】 お江戸と東京がマッチングした不思議な写真スポット
増上寺は1393年(明徳4年)に開かれ「江」の義父である徳川家康の帰依をきっかけに、徳川家の菩提寺に選ばれ発展し、徳川将軍6名と将軍らの正室たちも眠っています。本殿の右側に回ってその徳川将軍家霊廟を目指します。霊廟には荘厳な鋳抜門 (葵紋) が配され、昇り龍と下り龍が鋳抜かれています。思わず歴史の重みに圧倒され言葉にいい表せない印象がしました。墓所の一般公開は年に数回ですが、今年は4月15日(金)〜11月30日(水)まで特別公開されます。拝観料は500円で記念品として絵葉書がつきます。時間は10時〜16時までです。
徳川将軍家霊廟に向かって左へ進み、増上寺本堂の裏手に抜ける途中左奥に、「貞恭庵」があります。和宮(十四代家茂公正室)ゆかりの茶室です。この貞恭庵は、茶室としてはめずらしい雨戸のある茶室です。これはお客様を迎える茶室としてだけではなく、生活をしていた場でもあるそうです。
茶室「貞恭庵」で抹茶と和菓子いかがでしょうか?
【開催日】5月22日(日)、6月26日(日) 【時間】10時〜16時
【場所】貞恭庵(会費1,000円)
そして最後に向かうは、東京タワーです。この地は、二代将軍・秀忠公が江戸城から楓を移植し、お江のために紅葉山を築いた場所と言われています。3階特設会場では平成23年2月26日(土)〜12月25日(日)10時〜20時30分まで、波乱万丈の人生を歩んだヒロイン「お江」をテーマに東京タワー 「江」 展が好評開催中です。展示は無料・有料ゾーンに分かれており、無料ゾーンでは大奥・御鈴廊下が再現されており、思わず撮影してきました。また、隣のお土産コーナーには、お江にまつわるグッズがたくさんあり一番の売れ筋の「お江」のれん(ピンク)を教えて頂きました。
現在は東京タワーが建ち、江と秀忠の時代に紅葉山が築かれたこの場所は、地形学的にみると、温暖化で海水面が今より少し高かった縄文時代には海に突き出した岬でした。思想家・哲学者である中沢新一氏の著書『アースダイバー』(2005)によると、ここは縄文時代から現世と幽冥界とを繋ぐ聖地であり、死者の霊があの世に還っていく場所ともされていたそうです。東京タワーは、それを計画し建設したひとびとが必ずしも意図せずに造りあげた、天と地とを結ぶ架け橋の象徴ということなのでしょう。
この芝増上寺から東京タワーにかけてのエリアは、都心なのに緑も多く、この時期の散策には最適です。江を通して江戸の始まりに想いを馳せ、さらに縄文の昔まで見通すこともできるこの場所は、もしかすると東京最強のパワースポットなのかもしれません。
*大奥・御鈴廊下
*「お江」のれん(ピンク)1,575円(税込)
*東京タワー「江」展の詳細は、下記Webサイトをご覧ください。
http://www.tokyotower.co.jp/cgi-bin/reg/01_new/reg.cgi?mode=1&no=1438
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