シリーズ測量遺産
2010年11月18日
開拓使三角測量一本木基点(北斗市一本木766)
− 北海道指定史跡 −
この基点は、北海道の正確な地図を作成するため、開拓使が明治8(1875)年、亀田郡亀田村(現在、函館市内の五稜郭付近)と一本木村(現在、北斗市一本木)の間を三角測量の基線とし、その両端に設置したものの一つです。
開拓使は明治6(1873)年、米人ジェームス・R・ワッソンを測量長に三角測量事業を開始、勇払と鵡川間に勇払基線を設定しました。翌7年から米人モルレー・S・デイが測量を行いましたが、デイは勇払基線を検証するため荒井郁之助と函館付近を調査し、同8年、亀田と一本木間を助基線と定め基点に標石を建てました。翌9(1976)年の精密な測量で、この間の測定値は2里1町15間2尺3寸4分 (7,990.819m) とされています。
北海道の三角測量事業は我が国における本格的な三角測量の先駆をなしたもので、この基点は日本の測量史上、極めて重要な意義を持つものです。
(写真は松尾 稔氏 撮影・所蔵)
(写真は松尾 稔氏 撮影・所蔵)
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2009年12月04日
観象台(那須塩原市千本松716-1)
−那須塩原市指定文化財−
近代国家を目ざした明治新政府は、国土の近代的測量をお雇い外国人の指導で始めることになりました。明治8年(1875)には、イギリス人のマクウェンやヘンリー ・シャボーの指導のもとに関東地方の測量 (関八州大三角測量)が着手されました。 この測量には、平地の2地点を結ぶ直線 (基線)を設け、その長さを極めて精密に測量する必要があったのです。
一帯は、江戸時代から明治10年代(1880年前後)にかけて、那須野ヶ原と呼ばれる平坦な原っぱでした。そこで、この地が相模原(神奈川県)と共に基線測量の場に選ばれました。那須野ヶ原における基線 (那須基線)のあらましは、次の通りです。
(1) 那須基線北点 西那須野町千本松
(2) 那須基線南点 大田原市親園
(3) 測量の時期 明治11年4月9日〜6月11日
(4) 2点間の距離 1万628.310589メートル
当初、観象台には木のヤグラが組んであり、明治10年代の開拓や那須疎水測量の際のかっこうな目標物となり、人々に親しまれました。北点と南点を結んで開拓道路の縦道がつくられ、現在はライスラインの一部となっています。
なお、塚の脇の水準標は50メートルほど南東にあったものです。 「那須基線北端点 解説版」より
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2009年10月23日
開拓使三角測量勇払(ゆうふつ)基点
(苫小牧市字勇払132番地49)
−北海道指定文化財 史跡
(昭和42(1967)年3月17日指定)−
開拓使は道路や鉄道建設、炭田や鉱山開発のため正確な北海道地図の必要性を痛感して1873 (明治 6) 年3月、米国人ジエームス・アール・ワッソンを測量長に命じ、三角測量法による地図作りを開始しました。ワッソンは当初石狩川上流域に基線を求めようとしましたが適地が得られず、 6月、 勇払と鵡川 (むかわ) 間に基線を設定、両基点に目標台と標石を建て、測量に入りました。
翌1874(明治7)年、ワッソンを継いだ米国人モルレー・エス・デーの指揮により、 勇払基線の本格的な測量が行われることになりました。
デーと日本人助手らは、 精密に測量するため、天文測量を実施し、勇払基点の経緯度を北緯42度37分34秒、東経141度44分46秒 とするとともに、8月に米国製機械の到着後、これを使用して勇払基点から鵡川基点への測量を実施し、 勇払基線の測定値を14,860.2646m としました。 未だもう一方の鵡川基点は、発見されていません。
この勇払基点は、 当時の最新技術を駆使した、わが国で最初の本格的な三角測量の基点であり、ここからは、多くの日本人測量技術者が育つなど、北海道史上ならびに、わが国測量史上貴重な文化財であると言えます。
掲載写真は、 山根 清一氏所蔵
北海道教育委員会・苫小牧市教育委員会資料より(http://www.city.tomakomai.hokkaido.jp/shogaigakushu/bunkazai/sankaku/sankaku.htm)
2009年10月09日
相模野基線北端点(相模原市麻溝台4-2099-2)
−相模原市指定史跡 指-19(平成13(2001)年
4月1日指定)−
明治新政府は「富国強兵」、「殖産興業」を掲げ、このための測量・地図作製事業に着手し、全国規模の精密な地形図整備に取りかかりました。
精密な地図を作成するためには、まず、全国に配置した三角点の位置 (緯度・経度・高さ)を正確に決める必要があり、三角点測量から始められました。 この測量は、当時、三角測量という方法で行われ、近傍の三角点同士が形成する三角形の内角を経緯儀と呼ばれる器械を用いて測定するものです。 いくつかの地点で、 三角点間の距離を精密に測定しておけば、 あとは次々と角度を測るだけで 全国の各三角点の経緯度が決まり、三角点間の距離が決まります。図形としてみれば三角形の角度を測り、 計算方法としては三角関数を用いることから、 このような方式の測量は三角測量と呼ばれました。この、ところどころで三角点間の距離を精密に測った最初の場所が、この相模野基線(基線の全長距離5209.9697メートル:明治15年測定) であり、参謀本部陸地測量部によって設置された全国13箇所の基線場の内の一つです。この基線場は、相模原市が史跡指定する 「相模野基線北端点 (一等三角点・下溝村)」 のほか、座間市内の 「南端点 (一等三角点・座間村) 」及び「中間点」が現存しています。
当時の相模野は、 広く平坦な原野であり、見通しが良いので基線場としては最適地でした。
相模野基線北端点/一等三角点「下溝村」
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2009年09月25日
内務省地理寮水準点(高低几号標)
(横浜市南区八幡町1番地 中村八幡宮)
−横浜市地域文化財史跡
(平成10(1998)年11月9日指定)−
明治維新以来日本が近代国家となって行く上で、 鉄道・道路・港湾・市街の建設等で測地事業は欠くことのできない事業でした。内務省は、明治7(1874)年1月内務省地理寮(後に地理局となる)を設置して以来、 「お雇い外国人」の指導の下、集中的に開港を進めた 五港 (横浜 ・ 神戸 ・ 新潟・ 函館 ・長崎)や東京 ・大阪 ・京都などの主要都市の市街図作製に力を注ぎ、明治17(1884)年以降に参謀本部陸地測量部に移管するまで測地事業を担当しました。
横浜では、明治7〜8(1874〜5)年に地図作製の骨格となる三角測量及び水準測量が行われ、明治14(1881)年に実測図が刊行されました。横浜は、近代測量による地図 (1/5,000) が完成した最初の開港地でした。
このときの水準点が、内務省地理寮水準点 (高低几号標)です。内務卿 (内務大臣) から布達状が出されており、これには「内務省で設置した水準点に 「不」 の記号(几号)を不朽物などに彫刻して標識として活用するように、また、適当なものが無い場合には、標識 (石標) を埋定し、標識に 「不」 の記号を付すこと」 としています。
「中村八幡宮」 の内務省地理寮水準点は、参道入口にある石階段の登り口の角柱に彫刻されており、 当時の地図と比較して位置が動いていないと思われます。なお、横浜において内務省地理寮水準点が全部で何ヵ所設定されたかは不明です。
現在 「中村八幡宮」のほかに、 「伊勢山皇大神宮旧鳥居台座」(西区宮崎町)、 「妙香寺題目塔台座」 (中区妙香寺台)、「日枝神社旧稲荷社鳥居」 (南区山王町)、「庚申塔台座」(南区山谷)の4カ所で発見されていますが、何れも当初の位置にはありません。
「中村八幡宮」参道入り口の内務省地理水準点
(石段登り口、角柱左に彫刻)
角柱左に彫刻
http://www.city.yokohama.jp/ne/news/arc/mpr/1998/98111002.html#hyo1
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2009年09月11日
堀江水準標石(千葉県浦安市堀江4丁目1 清龍神社境内)
−土木学会選奨土木遺産
(平成19(2007)年12月10日指定)−
土木学会選奨土木遺産として指定された 「堀江水準標石」 は、日本最古の水準標石で、オランダ人技師 「I・Aリンド」 が明治5 (1872) 年8月にこの場所で観測した記録が彼の日記に残されています。日記によれば、8月に堀江で観測に着手してから、江戸川を水準測量による縦横断測量しながら遡り、関宿には9月に到着しました。更にここから利根川を下り、銚子の飯沼観音に10月にたどり着いています。
リンドは、飯沼観音の境内にも堀江水準標石と同様の水準原標石を設置し、この水準原標石の高さを決めるため、利根川河口に設けた水位尺(量水標)の零目盛を通る面を基準面にして高さをあらわしました。そして、これを名づけて日本水位 (J.P.:ジャパン・ペイル/ Peilはオランダ語で水準の意) と呼び、関東全域の高さの基準としたのです。
このように、わが国の高さは日本水準原点が完成した明治24年まで、河川ごとの河口に設けた水位尺の零目盛を基準としていたのです。
堀江水準標石(左)
I・A リンド(右)
写真は銚子リンド研究会設立記念講演会報告書より
http://www.gsi.go.jp/WNEW/koohou/475-5.htm
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2009年08月27日
日本水準原点標庫(東京都千代田区永田町1-1-2)
−東京都指定有形文化財(建造物)
(平成8(1996)年3月18日指定)−
わが国の近代的な測量事業は明治初期から始まりました。
当時の高低測量の基準面は、各地の主要河川の河口付近に、主として治水の立場から設置された「量水標」 を用い、干潮位に近い水面を地域毎に決めていました。 明治17(1884)年参謀本部に測量局が設置され、日本全国に共通した基準で一等水準測量が開始されました。この標高を決める基準点として明治24 (1891) 年5月東京三宅坂 (参謀本部敷地内) に水準原点が創設されました。この原点は現存しており、今なお日本全国の標高の基準となっています。
この建物は、日本最初の建築家と言われる、工部大学校造家学科第一期生4人のうちのひとり、佐立七次郎の作品で、4人の作品のうち現存する最古のものです。標庫は参謀本部陸地測量部の前庭にあたり、 水準原点である水晶板の零目盛 (当時の標高は24.500m、関東大地震後は24.4140m) の原点標を格納するために建設されました。
建物の意匠は、小品であるが、ローマ神殿の形式を持つ本格的な古典主義建築です。メトーブ(正面上部)には菊の御紋章と大日本帝国の文字が浮き彫りになっています。
明治24年5月に建設された水準原点標庫
http://www.gsi.go.jp/kanto/ki8bsuigenten.html
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2009年08月14日
測量に関する建造物および測量標のうち、文化財に指定されているものを選び、その歴史や機能を紹介します。
1.日本経緯度原点(東京都港区麻布台2-18-1)
−港区指定文化財(平成8(1996)年10月22日指定)−
日本経緯度原点 ( 写真) は、星を利用した天文測量により日本独自の測地系に基づいて、明治25年(1892年)に設置された我が国の位置の基準です。
この場所には、明治7(1874)年から海軍の観象台が置かれていましたが、明治21年になって、海軍観象台と内務省地理局天象台の天文観測業務が東京帝国大学に移管され、付属の東京天文台が置かれました。 明治25年、陸地測量部は東京天文台で天文測量に用いられる 「子午環(しごかん)」 の中心位置を日本経緯度原点と定めました。
日本全国の三角点の位置は、ここを基点として三角測量により決められたものです。その後、東京天文台は大正12(1923)年に三鷹へ移転しましたが、子午環跡は国土地理院が日本経緯度原点として引継ぎ、 現在もわが国の地図測量の原点として利用しています。 なお、大正12年の関東大震災の際に子午環は破壊され、その中心位置はこれより北微西に1メートル移動したことが地震後の測量によってわかりました。
日本経緯度原点のBL(経度・緯度)は、平成14(2002)年4月より、日本独自の日本測地系から世界共通の世界測地系に移行しました。このときの経度・緯度は、国際共同観測で行うVLBI(Very Long Baseline Interferometry:超長基線電波干渉法)観測により正確に求められました。これを基準として全国の三角点の経度・緯度が新しく決め直されました。
◆日本経緯度原点の緯度・経度の値の変更(2002年4月)
| 日本測地系による 数字(旧経緯度) | 世界測地系による 数字(新経緯度) | 新経緯度― 旧経緯度 |
緯度 | 35度39分 17.5148秒 | 35度39分 29.1572秒 | +11.6424秒 |
経度 | 139度44分 40.5020秒 | 139度44分 28.8759秒 | - 11.6261秒 |
http://www.gsi.go.jp/kanto/ki8cgenten.html
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