2014年09月01日

蝦夷・伊能図「全て間宮林蔵の測量」

これは8月25日の朝日新聞夕刊に載っていた伊能図に関する記事のタイトルです。大日本沿海輿地全図(伊能図)に関し、蝦夷地は伊能忠敬の第1次測量では、函館付近に上陸し、太平洋岸の根室の近くの別海町西別までしか行っていないため、そのほかは間宮海峡を発見した間宮林蔵が測量した結果を利用した合作であるのが定説でした。それに対して伊能忠敬研究会が、この定説を覆す内容で、蝦夷地は全て間宮林蔵の測量結果であると18日発表しました。

その根拠は、下図のように伊能忠敬の測量した海岸線と伊能図の最終版との海岸線がほとんど一致せず、ズレは最大数kmあったことからです。以下の図は朝日新聞に載っていたものですが、赤が伊能忠敬の測量した海岸線、青が伊能図の最終版の海岸線で、新聞には書いてありませんでしたが、形から言って、襟裳岬周辺と推定されます。

図1


右側の地図は国土地理院発行の20万分の1地勢図を縮小したものですが、やはり青の伊能図の最終版の方が正確であることがわかります。

また伊能忠敬は第1次測量で南側だけしか測量していないこと、間宮林蔵は蝦夷地を測量したデータを1817年に伊能忠敬に引き継いだとされているからです。間宮林蔵は伊能忠敬から測量を学んでおり、また幕府の役人であったことから、大日本沿海輿地全図の作成に協力したことは推定できます。間宮林蔵の測量結果については残っていませんが、伊能忠敬研究会の渡辺一郎・名誉代表は、「最初の測量で自信がなかった第1次のデータでなく、間宮林蔵のデータを用いて正確な地図を作ろうとしたのでは」と話しています。第1次測量は、子午線1度の長さを測ることが最大の目的だったのかもしれません。



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