2014年03月12日

米軍空中写真で捉えられた尾鷲市南部の津波被害

 昭和191944)年127日、熊野灘に震源を持つマグニチュード7.9の地震が生じました。3年前の東北地方太平洋沖地震による津波被害は、記憶に新しいところですが、この地震についても、尾鷲市中心部を対象に、3日後に米軍が撮影した空中写真で津波被害の惨状が明らかにされています。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsprs1975/45/6/45_6_69/_pdf (PDF)
 

 このたび、場所を変えて尾鷲市南部を対象に、当時の津波被害の状況を記憶していた方々(当時、主に小学校低学年)や、故人から津波の状況を聞いていたという方々にその空中写真(下の図の右上にその一部を示します)をご覧いただきながら、その状況を把握しました。
 

尾鷲市津波被害


 この空中写真で、地点(a)は標高約5mのところですが、石垣の上に築かれた家屋でも床上まで浸水したそうです。地点(b)には当時、小河川に木橋が架かっていましたが、津波で流失したそうです。この小河川の左岸側に当時建っていた家屋は、遡上してきた津波で流失したそうです。この空中写真でも、その場所に家屋は認められません。地点(c)の家屋は石垣の上に建っていますが、鴨居まで浸水したとのことです。地点(c)より海側には家屋が判読されませんが、当時、網干し場で、もともと家屋が建っていなかったそうです(現在の地図ではプールのある学校跡地になっています)。網干し場の海側は、写真では沈下しているように判読されます。

 地点(d)の県道は、戦後に埋め立てが海側へ拡張されてから敷設されたそうですが、当時は、海岸線に沿って埋め立てた平地に家屋が建ち並んでいたそうです。空中写真ではその家並みが判読されませんが、聞き取りによると、津波で流出したというよりも、震動でバタバタと海側へ家屋が倒壊していって、その後に襲った津波で流出したとのことです。埋め立て地が側方流動を生じた可能性があります。

 当時の津波被害の証言者が年々減るとともに、住民の方々の記憶が薄れるのも仕方のないことではありますが、わが国の防空体制をかいくぐってもたらされた米軍の空中写真は、過去から未来への、いわば『防災遺産』ともいえます。地震調査研究推進本部『南海トラフの地震活動の長期評価(第二版)』によれば、マグニチュード89クラスの地震の発生する確率は今後30年間に6070%とされています。住民の方々の過去の記憶を手繰り寄せるのに有効なツールである、米軍の空中写真が今後の防災対策の一助となることを願ってやみません。
 
 尾鷲市南部を含め、戦争中に米軍が撮影した空中写真は、日本地図センターのホームページ(http://www.jmc.or.jp/photo/NARA.html)からご購入が可能です。



jmcblog at 08:00 
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