2014年01月27日
生まれ変わる神戸の街に
お正月が過ぎ、えべっさんが終わると、今年も1月17日がやってきました。阪神・淡路大震災の発生から19年。今年も各所でさまざまな追悼の集いが行われました。
兵庫県では1月17日を「ひょうご安全の日」と定めています。今年も、震災の追悼とともにその経験や教訓を継承するための「ひょうご安全の日1・17のつどい」が人と防災未来センター(現在の地図の中央付近、水で囲まれた建物)で行われました。この施設は阪神・淡路大震災を記念して作られ、災害・防災の研究機関であると同時に、展示スペースでは当時の揺れを再現した映像や災害当時の資料の展示、語り部の方から当時のお話を聞けるコーナーなどがあり、神戸を訪れる修学旅行や社会見学の児童・生徒が大勢訪れる観光教育施設となっています。
人と防災未来センターは、HAT神戸と呼ばれる区域にあります。『東部新都心(HAT神戸)は、神戸市の中心市街地である三宮から東へ約2kmの臨海部に位置する、東西約2.2km、南北約1.0kmの区域です。東部新都心の整備計画は、平成7年6月、阪神・淡路大震災からの復興をめざす、「神戸市復興計画」において、シンボルプロジェクトのひとつとして位置づけました。』と神戸市のサイトに説明があるように、早くから復興住宅が建てられ、神戸防災合同庁舎や兵庫県こころのケアセンター、赤十字病院など、有事に備える施設や医療研究施設等も設置されています。
この土地には大正6(1917)年5月に川崎造船所(後の川崎製鉄)が設置し、約80年にわたって製鋼・製鈑工場として生産を続けた「葺合工場」がありました。震災でこの工場も被災したのですが、それ以前から工場の閉鎖は決まっていて、跡地の開発計画がなされていた、そのさなか震災が起きたのです。復興計画において通常ならばまず用地の確保から行わなければならないところ、そのような経緯からこの地区は、結果的に震災前とまったく異なる広大な新しい街並が広がる地区となりました。
もともとこの場所は、明治時代に作られた埋立地。現在はさらに神戸港内の埋め立てが進んで海を挟んでさらに埋立地が広がっていますが、明治18(1885)年測図の假製2万「神戸」を見ると西国街道より南には砂浜の海岸線が続いており、現在とはかけ離れた海岸線を形作っていたことが分かります。現在の場所が昔のどこになるのか、判断するときにいい目印になるのが神社です。現在の地図をみると、国道の北側に「敏馬神社」という注記があります。(地理院の地図には“みるめ”と仮名がふってありますが、現地の説明板には“みぬめ”とかかれています。)明治18年の地図には神社名の注記はありませんが、「岩屋村」という注記の下に円周率のπに似た神社記号が描かれています。神社の位置を目印に見比べてみると、完全に現在のHAT神戸は明治時代には海の上です。
19年前の地震だけでなく、空襲や水害にも見舞われてきた神戸。地図で読める変化は実際にその街で暮らしている人たち一人ひとりの想いまでは表しきれませんが、傷ついた街をよりよくしようと努めてきた方たちの想いが重なって現在につながっている。港に響き渡る追悼の汽笛を聴きながら、生まれ変わる街の歴史を想いました。