2013年06月03日

6月3日は何の日?

 「6月3日は何の日?」と問われたら、このブログの読者ならば迷わず「測量の日」と答えるでしょう。1949(昭和24)年のこの日に測量法が公布されたことを記念し、1989(平成1)年に当時の建設省により制定されました。

  6月3日はまた、日本の自然災害史でも忘れられない日です。1991(平成3)年のこの日、長崎県の活火山・雲仙岳で発生した火砕流は麓の島原市北上木場地区に達し、43名の方々が巻き込まれ亡くなりました。

  雲仙岳の噴火活動は、1990(平成2)年11月に始まりました。「島原大変肥後迷惑」で知られる1792年の活動から198年ぶりの再開でした。最初は、当時の最高峰*・普賢岳(1359m)付近の地獄跡火口などからの小規模な水蒸気爆発が散発する程度でしたが、1991年5月20日に地下のマグマ本体が地表に達して溶岩ドームが出現し成長し始め、24日には熔岩ドーム縁辺部の崩落による火砕流が発生し始めました。25日、九州大学島原地震火山観測所に全国から駆けつけた専門家が討議し、その夕刻に「火砕流」という語を入れた火山情報を発表しました。が、結果的にその意は十分に伝わりませんでした。そして6月3日を迎えます。

Fugendake1977
 平成噴火前の普賢岳.1:25,000地形図「島原」(1977年修正測量)から.
 → 現在の普賢岳/平成新山(電子国土)

 「火砕流」という用語は、専門家の間ではすでに使われていました。フランス領西インド諸島にあるモンプレー火山1901年噴火で熔岩ドームから生じた「熱雲」による壊滅的な災害の記録などから、怖ろしい現象であることは知られ、また日本国内の火山周辺でも多くの火砕流堆積物が見いだされ記載されていました。しかし、専門家含め多くの人々にとって、それが実際に目の前で起きているところを見たのは、おそらく初めてのことだったと思います。
  5月25日発表が、事後の目からみて控えめな表現だったことについては、いろいろ議論があります。混乱防止を「配慮」した人もいたとは思いますが、あるいは、それまでの知見と目の前の現象との微妙なズレが、突っ込んだ発表を躊躇させたのでは、とも考えられます。

  地震とは対照的に、火山噴火は山体観測などからある程度予測され、事前避難に成功した事例があります。一方、余震が全般的に減衰していく地震と異なり、火山活動の「終わり」を見極めるのは極めて困難で、大規模噴火では避難が長期化する傾向にあります。戦後最大級の火山災害を生じた雲仙岳「平成噴火」は、島原地震火山観測所長(当時)の太田一也さんが1996年6月に「終息宣言」を発することで、地元の人々が災害対応の区切りをつけることができました。「雲仙岳のホームドクター」と慕われた太田一也さんは、引退後も講演会や解説記事執筆などで、多忙な日々を過ごされました。それらを読むと、警戒区域などの線引きについて行政との葛藤など多くの苦労とともに、計44名の命を救えなかったことの無念さが伝わってきます。

 現在の雲仙岳最高峰は平成新山(1483m)です。平成噴火の熔岩ドームで、長崎県の最高地点でもあります。5年間という短期間に形成された険しい不均質な山体はまだ不安定で、火砕流の危険は当面ないにしても重力による崩落の可能性をはらんでいます。国土交通省雲仙復興事務所では、観測を拡充するとともに、委員会を設置してハード・ソフト両面での対応策を検討しています*。

 雲仙岳平成噴火によって、「火砕流」という用語は一般に知られるようになりました。いま長崎県島原市にある雲仙岳災害記念館 がまだすドーム**多目的ホール前では『火砕流の爪痕展〜日本のポンペイ発掘最前線〜』が催されています。


* 委員会資料は、雲仙復興事務所のWebサイトで公開されています。
** 「がまだす」とは島原のことばで「がんばる」という意味。


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jmctsuza at 16:08 
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