2012年08月10日

八月、戦争と平和の記憶 (2)

UrakamiCath

  長崎市の浦上地区に、カトリック教会の司教座聖堂があります。浦上教会浦上天主堂)です。日本に3つある大司教区のうちのひとつ長崎大司教区の大司教座で、長崎教会管区として九州・沖縄の司教区を統括しています。

  浦上教会の年中行事のひとつが、89日午前6時と1102分に始まる原爆犠牲者の追悼ミサです。

 

 日本にキリスト教(キリシタン)が直接伝わったのは大航海時代、浦上地区にも16世紀に伝わりました。しかしまもなく豊臣秀吉の伴天連追放令(1587)、徳川幕府による禁教令(1614)などが発せられ、絵踏などの迫害・弾圧のなかで、潜伏時代が始まりました。
 幕末期の開国にともない居留外国人のために建立された長崎市内の大浦天主堂で、浦上のキリシタンは再認知されましたが、復古神道による祭政一致を掲げた明治政府によるさらに過酷な弾圧で、一時は浦上の全村民が故郷を追われました。さすがにこれは欧米の介入をまねき、1873(明治6)年までに一応の解決をみています。

 その翌年には、長崎の地で金星日面経過の国際観測が行われたことは、このブログでも紹介しました

 

 浦上天主堂は、絵踏が行われた元庄屋の跡地に建てられ、1925(大正14年)年に完成しました。石と煉瓦によるロマネスク様式で、2塔の鐘楼が聳え、天草の石仏師が刻んだ天使像、獅子、聖者石像などが飾られた聖堂は、東洋一の偉容を誇りました。

 

 1945(昭和20)年89日、北マリアナから飛来したB29爆撃機群は、944分頃に第一目標の福岡県小倉市上空に達しましたが、悪天候のため第二目標である長崎市に転進し、たまたま浦上付近にできた僅かな雲の隙間から、史上2発目の原子爆弾が投下されました。爆心地にあった浦上天主堂は、壁面の一部を遺して全壊し、2名の神父と聖堂内にいた数十人の信徒も亡くなりました。

Urakami

  浦上天主堂の再建にあたり、旧聖堂の廃墟を広島の原爆ドームのような形で保存する動きもありました。しかし、教会にとってその場所は、かつて250年間にわたり絵踏などが行われたキリシタン受難の地で、いわば聖地であり、その場所での再建に強くこだわりました。

 1959(昭和34)年に完成し聖別された新聖堂は、鉄骨コンクリート製ながら旧聖堂と同じ様式で、焼け残った大鐘や天使などの石像は、極力再利用されています。そして、1962(昭和37)年、それまでの大浦天主堂に代わり、浦上天主堂が司教座聖堂に指定されました。

 

  浦上天主堂は、聖母マリアに献じられています。歴史や規模はかなり違いますが、たとえば、世界遺産に指定されている北フランスのシャルトル大聖堂も聖母マリア(ノートルダム)に献じられた司教座聖堂(La Cathédrale)であり、浦上天主堂は、カトリック教会での位置づけは同格なのです。

 

 多くのカトリック教会は、場所をとても重視しているようです。シャルトル大聖堂の建つ場所は、キリスト教以前も土地の地母神を祀る聖地でした。一方、浦上天主堂の場所は、丘陵の裾が低地と接するところで、社寺に多くみられる地形です。直接的にはキリシタン受難の地である庄屋跡ですが、遡れば(投稿者の推定ですが)何らかの小祠があったのかもしれません。

 被爆した旧聖堂の廃墟は、ハードウェアとしてはその場に保存されませんでしたが、隣接する信徒会館内の原爆資料室には、原爆資料館にはない貴重な被爆遺産が展示されており、だれでも見学できます。また脇を流れていた小川に崩落した旧鐘楼は、川の流れを変えてその場に保存されています。

  同じ場所に聖堂が建ち続けることで、(俗な表現で云えば)定点観測のような視点が得られ、苛烈な歴史も含めた土地の聖性が記憶され、伝えられていくのでしょう。


☆  今回の記事は、本来8月9日に掲載するはずでしたが、手違いにより1日遅れとなってしまいました。

☆☆ 歴史に関する叙述は、浦上天主堂の公式サイトを参照いたしました。もし不適節な点があれば、それはこの記事の投稿者の責任です。
→ 8月24日・27日に、一部を追記・修正しました。

☆☆☆ 浦上天主堂は、観光施設ではなく祈りの場です。拝観に際しては、聖職者と信徒の方々に失礼のないようお願いします。


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