2012年05月18日

日本の経度は金星観測から − 6月6日に金星の日面経過 − (1)

  • venusFig1
    2004年と2012年の日面経過位置(理科年表から)

    天文異変
     本年(2012)5月21日に、日本列島の九州南部から四国〜東海〜関東〜東北南部にかけて金環食がみられることが、全国的な話題となっていますが、6月6日にも金星の太陽面経過(日面経過)という天文異変があることをご存知でしょうか。日本では午前7時頃から昼過ぎにかけてこの現象が見らます。
     この現象は珍しい現象で、前回は2004(平成6)年6月8日に、日本でみえる日面経過では、前々回は1874(明治7)年12月9日に起こりました。明治時代が始まったばかりのこのときには、世界各国から天文学者等が観測条件の良い日本に訪れ、科学的な業績を持ち帰りました。維新直後の混乱期にあったものの、日本政府は、金星日面経過観測の終了を待ってアメリカ隊に経度原点の決定を依頼し、東京に日本最初の経度原点(チットマン点)を設けることができました。このエピソードについて3回に分けて紹介します。

金星観測

venusFig2 水星も金星も地球の内側の軌道を回っている惑星なので、太陽と重なって見えることがあります(図2)。これが金星の太陽面通過とよばれる現象です。
 このような現象は、ごく稀に起こります。20世紀では見られない現象でしたが、今度はわずか8年の間をおいて2度のチャンスがやってきます。2004年6月8日と2012年6月6日の2回です(図1)。これを見のがすと2117年まで見ることができません。
 この金星日面経過観測の目的は、地球から金星までの距離、ひいては太陽までの距離である「一天文単位」の長さを決定することにありました。これらは、ハレー彗星で有名なエドモンド・ハレー(1656 - 1742)がこの提言を発表していました。

ハレーの提言
 ハレーは「地球の南北両半球上ほぼ同じ経線上の2点から金星の太陽面経過を観測すると、2点から見る方向のちがいで、太陽面に投影された金星は少し上下にずれて見えるであろう。このズレが「視差」であって、この量を測ることによって金星までの距離が求められる。」と提言しました。つまり、地球大の基線長を利用した金星との三角測量を行なうということです。
 
続々と各国から日本に
 130年前の日本は、明治新政府が産声を挙げたばかりで、まだ国の方向が定まらず、九州では西郷隆盛が征韓論に破れ下野した翌年に当たります。また、江藤新平が佐賀の乱を起こした年でもありました。このように混乱した日本へ、金星の日面経過の瞬間を待ち望んでいた欧米諸国の観測隊が、地球上の観測条件の良い地点の1つとして日本を選び目指しました。
venusFig3 金星が太陽面を経過するには「進入」から「退出」までに4時間半ほどの時間がかかります。その全経過が見られるのは、東経135度前後の経度帯に含まれる地域に限られ、日本は観測には絶好の位置にあったのです。ハワイでは進入しか見られず、カイロでは退出しか見られませんでした(図3)。だからこそアメリカ・フランス・メキシコから万里の波濤をこえて観測隊がはるばる日本国に到来したのでした。

観測隊の入国許可
 受け入れ側の日本は開国して日も浅く、明治政府の要人たちは観測の意図がよく飲み込めませんでした。「測量のための入国要請」には神経をとがらせたらしく、時の政府閣僚の太政大臣三条実美、内務卿伊藤博文、外務卿寺嶋宗則、海軍卿勝安芳(海舟)、文部卿木戸孝允等は純粋に自然科学探求のための入国要請であることを理解するまでに時間を要したようです。まさに「科学における黒船」でしたが、明治政府は観測隊の入国を許可し、この壮大なスケールで展開されたプロジェクトに対し海外からやってきた天文学者を手厚く迎え入れました。


国際電信網に結ばれていた長崎
 フランス隊・アメリカ隊は、長崎を観測地点に選定しました。これは、1871(明治4)年に上海〜長崎、ウラジオストック〜長崎の海底ケーブルが早くも敷設され、我が国で初めて国際電信業務を開始していたことを考慮し選定したものです。天文観測を行なうには、世界と結ばれた正確な時計が必要で、開国まもなく国際電信網に結ばれた長崎は適地であったのです。

フランス隊の記念碑
 フランス隊はJ.ジャンサン(Jules Janssen:パリ経度局)、ティスラン(トウールーズ天文台長)を主任とした一行8名が来日し、 長崎市内の金刀比羅山の前山に布陣しました。現在、金刀比神社の近傍に残るピラミッド型の観測記念碑(写真1)は、このときの観測を記念し、ジャンサンが長崎在住の大工棟梁に依頼し建てたものです。
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写真1 フランス隊が残した観測記念碑
 1993(平成5)年、この記念碑から東の地点で観測台が発見され、長崎県の史跡に追加指定されました。この観測記念碑正面には、フランス語で「VENUS(金星)通過を観測したのはこの位置である。1874年12月9日、観測者フランス天文学者ジャンサン、パリ科学会会長・・・(隊員の名)」と刻まれています。130年以上の櫛風沐雨に碑は苔むし風化がはなはだしく、文字もやっと読める程度で、他の3面は素人での解読はなかなか難しいようです(写真2)。興味のある方は、解読に挑戦してみてはいかがでしょうか。

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写真2 記念碑の正面(左)と西面(右)


記念碑を造った棟梁
 高さ2メートルほどの四角錐の巨大な石の塔は、地元の大工の棟梁、山田與四郎が、ジャンサンから文部省をとおし請け負い建設したものです。“碑を大至急つくってくれ”という急な仕事で約半月かかって完成させています。山田は寝食を忘れ仕事に没頭したことが家族によって断片的に言い伝えられています。記念碑を造った岩石を、どのようにして山頂まで運び上げたものか。当時は道もなかっただろうし、観測のための道を造ったとしても小さなものだったに違いありません。
 しかし、その苦労の甲斐があり、山田がジャンサンから受け取った報酬は、その当時の長崎では家が2〜3軒建つ程度であったそうです。あまりの高額なため、虎の皮の敷物をジャンサンに贈呈したという、更にそのお返しとして、山田はギヤマンに入ったぶどう酒を2本もらい、家宝としてこのギヤマンが山田家に残されているというエピソードが、長崎新聞や雑誌(長崎手帖22号)に掲載されました。外国人居留地があり、貿易商も出入りしていた当時の長崎ならではの話です。

(2)へ つづく]

 金星観測と経度についての話題は、このブログで2009年11月に『わが国の経度のはじまり』と題して一度簡単に紹介しましたが、今回の金星の日面経過の機会に、やや詳しい話を紹介していきます。

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