2009年11月06日
わが国の経度のはじまり
明治新政府が産声を上げたばかりの明治7(1874)年のことです。まだ国の方向が定まらず、九州では西郷隆盛が征韓論に敗れ下野した翌年に当たり、また、江藤新平が佐賀の乱を起した年でもありました。この年の12月9日、金星が太陽の前面を通過するという珍しい天文現象が105年ぶりに起こりました。この現象は、地球と太陽との絶対距離を測定するための極めて貴重なチャンスであったため、 この瞬間を待ち望んでいた欧米諸国は地球上の観測点で最良の地点を計算し、 各々自国の観測地点を選定していました。長崎をフランスとアメリカは、明治4年に上海―長崎間、ウラジオストック―長崎間の海底ケーブルが敷設され、わが国で国際電信業務が開始していたことを考慮し、長崎を選定しました。天文観測を行うには、世界と結ばれた長崎は適地であったのです。このことから、日本政府に入国および観測許可の申し入れがあり、当時の混乱した時代にあって、新政府はこれを認めたばかりでなく、日本人の技術者(軍人)も東京から見学に派遣しました。
フランス隊は、金比羅山の前山の烏帽子岳(写真下:フランス観測隊の建てた大きなピラミット状の石の記念碑が山頂に残されている)に、アメリカ隊は大平山(俗称:星取山)に陣取り、太陽面を通過する金星の観測が開始されました。
金星観測碑
アメリカ隊 (隊長:ダビットソン博士、副天文士:チットマン)の委嘱により観測の写真を担当した上野彦馬は、金星経過の写真を90枚撮影しています。上野彦馬の父、上野俊之丞はわが国最初の写真家で、 彦馬はその四男であったといいます。上野彦馬は長崎市中島町に文久2 (1862)年わが国初の営業写真館を開いていました。
以上の金星観測の他、ダビットソン博士は、11月7日までにウラジオストックとの交信により長崎の経度を決定しました (現在の東急ホテル敷地内と推定される)。さらに延長してパリ、ロンドン、ワシントン等に及ぶ経度測量 (両所の時計を電信で合わせておいて、同一星の子午線通過を両所で測定すれば、測定時間差がすなわち経度差となる)を計画していました。 この計画を知った日本政府は、 明治6年2月長崎電信局がすでに開局しているのを利用して 長崎−東京 との経度測量を希望してダビットソン博士の同意を得ることができました。ダビットソン博士は、東京へチットマンを派遣して、同年12月20日から翌年1月2日にかけて両地点間の電信法による経度測量を行ない、我が国はじめての経度の値を得ることができました。 この測定値は、直ちに明治天皇に報告されたことが記録に残されています。