2014年03月
2014年03月26日
『真珠の耳飾りの少女』で有名な17世紀のオランダの画家フェルメールは、絵画の中に地図に関係するものを壁などのかかる装飾品としてですが、現存している作品30数点のうち9点ほどに描いています。地図や地球儀などが現在よりはるかに貴重であった時代に、大変多いと思います。
タイトルから明らかに地図が描かれていそうなことがわかるのは『地理学者』で、地図、海図、地球儀、書物などが散乱し、右手にはディバイダが握られています。地図は地中海周辺のもので、北アフリカのみが見えているそうです。
また『士官と笑う女』の壁に掛けられた地図が目立ちます。その地図はウィレム・ヤンスゾーン・ブラウが1620年に出版したホラント州と西フリースラントの地図で、同じ地図が『青衣の女』にも描かれています。
また大きく地図を描いているのが、『絵画芸術』で、背景の壁にかかる地図は、南部のベルギーと別れる前のオランダの地図で、地図の中央にある大きな折りじわが南北両地域の境に当たることが指摘されています。
そのほか、『水差しを持つ女』と『恋文』には、オランダの地図が、『リュートを調弦する女』にはヨーロッパ全土の地図が描かれており、『信仰の寓意』には地球儀が、『天文学者』には天球儀が描かれています。
なぜこのように地図関係のことが描かれているかはわかりませんが、17世紀のオランダではこのような地図関係の装飾品は珍しくはなかったのかもしれません。
当時日本は鎖国時代でオランダとしか交易がなかったので、何か日本的なものでも描かれていないか探したところ、『地理学者』と『天文学者』の中の男が、日本の着物のようなものを羽織っていることぐらいしか見つかりませんでした。
なお第1回地図地理検定(当時は地図力検定)に『絵画芸術』の絵の作者をこたえる問題が、4択ですが出題されました。
2014年03月19日
小説を読むのを楽しみにして通勤していますが、芥川賞候補に3度もなった柴崎友香女史の小説『わたしがいなかった街で』を先日読んでいたところ、その中に「地図センター」に行った話が載っていることを発見しました。驚くと同時に大変うれしく思いました。小説では、“2週間前に、池尻大橋のあたりをバスで通るときに見えて気になっていた「地図センター」に行って、広島の昔の地図を探したが、母方の祖父がコックをしていたと聞いたホテルの名前は結局どの地図にも載っていなかった・・・”と言う文書が載っていました。「国土地理院」と言う言葉が出てくる小説には、村上春樹の『ノルウェイの森』や『蛍』、さだまさしの『眉山』、内田康夫の推理小説などがありましたが、「地図センター」が出てきたのは初めてした。単に名前が出てきたのではなく、池尻大橋云々とリアルに地図センターの場所が示されており、しかも見ただけでなく気になっていたところに訪ねて地図を探したことまで書かれていることから、実際の彼女自身地図センターに来られたものと思われます。
この『わたしがいなかった街で』の中には、米軍写真を使った大学の授業のことも載っていました。昭和22、3年頃の大阪を写した米軍写真で、彼女の小学校の校区は戦災で焼けてしまったところがわかり、焼け残っていたところが隣の小学校の校区なのがわかったそうです。それが今では、隣の校区は長屋や古い建物が多く道幅の狭い状況が、自分の校区は市営住宅の団地や新しい家や工場が並ぶ、幅の広い道が規則正しく交差しており、“何十年経っても、今も、はっきりと街の形に一目でわかるように、(米軍写真では)分かれていた。”とありました。米軍写真が単に記録としてではなく、その後の歴史をも示していることを教えてくれていました。なお彼女は大阪府立大学出身なので、そこで米軍写真を使った授業が行われていたのかもしれません。
2014年03月12日
昭和19(1944)年12月7日、熊野灘に震源を持つマグニチュード7.9の地震が生じました。3年前の東北地方太平洋沖地震による津波被害は、記憶に新しいところですが、この地震についても、尾鷲市中心部を対象に、3日後に米軍が撮影した空中写真で津波被害の惨状が明らかにされています。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsprs1975/45/6/45_6_69/_pdf (PDF)
このたび、場所を変えて尾鷲市南部を対象に、当時の津波被害の状況を記憶していた方々(当時、主に小学校低学年)や、故人から津波の状況を聞いていたという方々にその空中写真(下の図の右上にその一部を示します)をご覧いただきながら、その状況を把握しました。
この空中写真で、地点(a)は標高約5mのところですが、石垣の上に築かれた家屋でも床上まで浸水したそうです。地点(b)には当時、小河川に木橋が架かっていましたが、津波で流失したそうです。この小河川の左岸側に当時建っていた家屋は、遡上してきた津波で流失したそうです。この空中写真でも、その場所に家屋は認められません。地点(c)の家屋は石垣の上に建っていますが、鴨居まで浸水したとのことです。地点(c)より海側には家屋が判読されませんが、当時、網干し場で、もともと家屋が建っていなかったそうです(現在の地図ではプールのある学校跡地になっています)。網干し場の海側は、写真では沈下しているように判読されます。
地点(d)の県道は、戦後に埋め立てが海側へ拡張されてから敷設されたそうですが、当時は、海岸線に沿って埋め立てた平地に家屋が建ち並んでいたそうです。空中写真ではその家並みが判読されませんが、聞き取りによると、津波で流出したというよりも、震動でバタバタと海側へ家屋が倒壊していって、その後に襲った津波で流出したとのことです。埋め立て地が側方流動を生じた可能性があります。
当時の津波被害の証言者が年々減るとともに、住民の方々の記憶が薄れるのも仕方のないことではありますが、わが国の防空体制をかいくぐってもたらされた米軍の空中写真は、過去から未来への、いわば『防災遺産』ともいえます。地震調査研究推進本部『南海トラフの地震活動の長期評価(第二版)』によれば、マグニチュード8〜9クラスの地震の発生する確率は今後30年間に60〜70%とされています。住民の方々の過去の記憶を手繰り寄せるのに有効なツールである、米軍の空中写真が今後の防災対策の一助となることを願ってやみません。
尾鷲市南部を含め、戦争中に米軍が撮影した空中写真は、日本地図センターのホームページ(http://www.jmc.or.jp/photo/NARA.html)からご購入が可能です。
2014年03月05日
もうすぐ、あの未曾有の災害をもたらした「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」(3月11日14時46分頃)から3年目がやってきます。
国土地理院は、地震直後、全国の広い範囲に配置している電子基準点(GPS連続観測点)の観測データから、地殻変動を発表し、牡鹿半島が東南東方向に約5.3m移動し、約1.2mの沈下があったことを報道しました。
更に、これは、東北から関東にかけての太平洋側が東西に広がり、日本の面積が約0.93km2拡大したこと、つまり、この拡大した面積は、東京都庁と青森県庁を直線で結んだ約580kmを縦に、東西方向の幅1.6mを横とする細長い長方形の面積の増加分に相当するとも公表しました。これは、昨年我が国が、1年間に埋め立てをして増加した面積の約半分に相当します。
電子基準点のデータは、ほとんどの観測点で1秒毎に取得され、キネマチィック解析で条件が良ければ数cmの精度で地殻変動を捉えることも可能になってきました。この1秒毎のデータから、地震時の詳細な地殻変動が分かってきました。
それは、3月11日の震源に一番近い牡鹿半島周辺では、東向きの地殻変動が1.5m程度にまで成長した後、20秒ほど停滞し、その後の約40秒で5mを超える地殻変動に至ったことを記録していたのでした。このすさまじい地殻の変動は、目にすることは出来ませんでしたが、時間的な経過とともに地表面が大規模に移動する様子を目の当たりにする思いにさせられます。この詳細は国土地理院のホームページ(http://www.gsi.go.jp/cais/chikakuhendo40010.html)において動画で見ることができます。
また、最近の国土地理院の報告を見ると、地震直後から、3年を経た現在でも月に1cm程地殻変動は続いており、牡鹿半島付近での水平の変動量(図1)は、地震時に変動した方向へ、累計で95.1cmも移動しています。また、垂直の変動量は32cmの隆起(図2)を示していますが、地震時の沈下量(約1.2m)に対して、その量まで復元するには至っていないことが分かります。
大規模な地震災害により、被災者の計り知れない大きな傷跡とともに、この地殻の変動が静穏になり、傷跡の癒される日が一日でも早く訪れることを願っています。