2013年06月
2013年06月27日
千葉県香取市は、伊能忠敬の出身地として有名ですが、2011(平成23)年9月から、原付バイクに図のようなオリジナルナンバーの交付が始められています。
香取市のウェブサイトによると、177点の応募作品の中から、「香取市のイメージを表現する」にふさわしいものとして選ばれたものです。郷土の偉人・忠敬翁のシルエットを取り入れたデザイを考えたのは、香取市から遠く離れた広島市に在住の河野寛子さんです。河野さんは、「自分の足で歩き続けた彼が、今日庶民の足である、スクーターのナンバーとなって走るのは粋ではないか」とコメントしています。まさにその通りですね。
( by jmcmimr)
『四千万歩の男』
最初の一歩
2013年06月24日
さる6月22日(土)、カンボジアの首都プノンペン市で開催されている国連教育科学文化機関(UNESCO)の第37回世界遺産委員会で、"Fujisan, sacred place and source of artistic inspiration"(『富士山―信仰の対象と芸術の源泉』)を世界文化遺産に登録することが決定されました。
第11回地図ふぇす、来週末の7月5日(金)から7日(日)にかけて、日本地図センタービル(東京都目黒区)2階で開催します。今回のテーマは、世界文化遺産「富士山」です。富士山に関連したいろいろな地図類を展示いたしますので、是非ご来場ください。
さて、UNESCOから諮問された国際記念物遺跡会議(ICOMOS)では、三保松原(静岡市清水区)が「山体と一体ではない」として構成資産から除外を勧告されていましたが、第37回会議ではここも一括して登録が認められました。
三保松原が、ICOMOS勧告で除外された経緯として「消波ブロックが景観を阻害している」旨の議論があり、地元でもブロックの撤去など性急な対応も取りざたされました。これに対し、長年にわたって富士山およびその周辺地域の研究をつづけてきた静岡大学の小山真人教授は、ご自身のTwitterなどを通して三保松原の景観について地形営力の観点から冷静な対応を呼びかけました。
小山教授によると、三保松原のある半島・砂浜は砂嘴(さし)という地形で、沿岸流による土砂の移動と堆積で形成・維持されているそうです。その土砂の主な供給源は、南アルプスに広い流域を持ち静岡市の南西約10km付近駿河湾に注ぐ安倍川であり、地震や大雨によって上流で大規模な崩壊が起き、河口から大量の土砂が供給されるたびに、砂嘴が少しずつ成長してきたそうです。
しかし、土砂崩れや洪水氾濫を防いで人の命をまもる砂防・治水工事の進展とともに、安倍川からの土砂供給が減った結果、三保松原では海岸侵食が相対的に勝るようになりました。国土交通省も安倍川の治水と三保松原との関係を砂防・治水対策の重要な課題ととらえており、消滅の危機にあった三保松原は、消波ブロックで辛うじて維持されているのが現状、ということです。
国土地理院の電子国土 / 色別標高図に加筆
文化庁の公表資料(PDF・258KB)によると、UNESCOの世界遺産リストへの正式登録は、第37回会議の最終審議日である6月26日(水)になる見込みとのことです。
富士山、世界遺産へ (1)
富士山、世界遺産へ (2)
富士山、世界遺産へ (3)
2013年06月21日
第19回地図地理検定を、この記事の掲載日(6月21日)からみて明後日(2013年6月23)に、全国6会場で実施いたします(この他に団体受験会場)。受験者の皆様には準備の最終段階だとおもいますが、あらためて各会場の案内をいたします。
[札幌会場]
札幌市男女共同参画センター(札幌市北区北8条西3丁目札幌エルプラザ内1階)JR札幌駅北口から徒歩5分
〈→ 電子国土で表示 〉
[仙台会場]
仙台市情報・産業プラザ ネ!ットU(仙台市青葉区中央1-3-1)JR仙台駅西口から徒歩2分、地下鉄仙台駅(JRあおば通駅)から徒歩4分
〈→ 電子国土で表示 〉
[東京会場]
国士舘大学 梅ヶ丘校舎(東京都世田谷区世田谷4-28-1)小田急小田原線梅ヶ丘駅から徒歩9分、東急世田谷線松陰神社前または世田谷駅から徒歩6分
〈→ 電子国土で表示 〉
[名古屋会場]
愛知県産業労働センター ウインクあいち(名古屋市中村区名駅4-4-38)名古屋駅から徒歩5分
〈→ 電子国土で表示 〉
[大阪会場]
大阪産業創造館(大阪市中央区本町1-4-5)地下鉄堺筋線または中央線堺筋本町駅から徒歩5分
〈→ 電子国土で表示 〉
[広島会場]
広島まちづくり市民交流プラザ(広島市中区袋町6-36)広島電鉄市内線袋町電停から徒歩3分
〈→ 電子国土で表示 〉
[福岡会場]
ゼンリン福岡ビル(福岡市博多区博多駅東3-1-26)博多駅筑紫口から徒歩約8分
〈→ 電子国土で表示 〉
以上です。
各会場の公式の案内図に加えて、電子国土へのリンクも掲げました。地図を読んで会場に到達することが、検定の事実上の第1問です。みなさまのご健闘を期待します。
〈06/24追記〉
第19回地図地理検定は6月23日(日)に全国7会場で開催され、一般・専門併せて285名の方々が受験されました(団体受験除く)。この記事での「第1問」は、285名の方々が正答ということになります。おめでとうございます。
2013年06月19日
1933(昭和8)年の6月19日、丹那トンネルが貫通しました。東海道本線は、東京から西日本主要地域を結ぶ最も重要な陸路でしたが、箱根火山の北側を迂回する区間には25‰の連続勾配があり、長距離列車の牽引重量が制限されていました。そこで、国府津から分岐し小田原を通って海岸沿いに進み、熱海から長大トンネルで抜けて沼津で在来線に合流する、新ルートが計画されました。
箱根火山の南にある丹那盆地の地下を通ることから、この長大トンネルは「丹那トンネル」と命名され、1918(大正7)年に着工されました。予定工期は7年間で、1925(大正14)年に完成させる計画でしたが、箱根火山に隣接する多賀火山の基底部を掘削することになり、大量の出水に悩まされる難工事となりました。トンネルへの出水は丹那盆地を潤していた地下水を涸らすことになり、鉄道省は難工事に加えて、丹那盆地の渇水対策にも追われることになりました。
1923(大正12)年9月1日、相模湾を震源とする関東大地震(M7.9)が発生。丹那トンネルに取り付ける新線のうち当時既に開業していた根府川駅では、地震動により崩壊・流動してきた火山砕屑物に走行中の列車が押し流される惨事が起きました。しかし掘削中の丹那トンネルは無事でした。
1930(昭和5)年11月26日早朝、函南側工区で突き当たっていた断層が活動し、いわゆる直下型地震が発生しました。北伊豆地震(M7.3)です。現・三島市で震度6となり、死者行方不明者272人の大災害となりました。震源となった丹那断層に沿って地表地震断層がいくつも現れましたが、トンネル坑内でも断層が3m近くズレ動き、切り端が塞がれるという事態が生じました。それでもトンネル本坑は壊滅的な破壊は免れ、直線で計画された丹那トンネルは、断層変位をまたいで微かなSカーブでつなぎ、3年後に貫通しました。
丹那トンネルの営業線としての開業は、1933(昭和8)年12月1日でした。当時、東京〜大阪間で最速の交通手段であった特急「燕」は、所要時間8時間に短縮され、この記録は、第二次大戦をはさんで1956(昭和31)年11月の東海道本線全線電化まで破られませんでした。丹那トンネルの難工事については、吉村昭の小説『闇を裂く道』に、断層変位の件を含め、ドキュメント風に描かれています。す。
政府の地震調査委員会によると、丹那断層を含む北伊豆断層帯では北伊豆地震を含め5回の活動履歴が確認され、その活動間隔は約8百〜1千5百年くらいで、今後300年以内の地震発生確率はほぼ0%と評価されています。現在、丹那断層を東海道本線の丹那トンネルと東海道新幹線の新丹那トンネルが貫いていますが、これらは、活断層であることを承知のうえで、その低い地震発生確率に対してトンネルを供用することの利点を享受する選択をしているのです。
2013年06月14日
★2013年06月10日掲載の『四千万歩の男』に、クイズの解答・解説を追記しました。
★2010年12月17日掲載の『懐かしのダイヤモンドクロス』に、阪急電鉄西宮北口駅にあった平面交差(ダイヤモンドクロス)の現地写真を追加しました。
2013年06月12日
本日(6月12日)は、宮城県の県民防災の日です。1978(昭和53)年のこの日に発生した宮城県沖地震による顕著な被害を教訓として、宮城県が定めた日です。宮城県沖地震は、宮城県牡鹿半島東方沖の海底で、陸側のプレートの下へ太平洋プレートが沈み込むことに伴って発生したマグニチュード(Mj)7.4の地震で、死者28人を含む大きな被害が生じました。
政府の地震調査委員会による『宮城県沖地震の長期評価』(2000)によると、宮城県の沖合から日本海溝までの海域で、18世紀以降200年あまりの間に、マグニチュード7クラスの地震が6回〜平均37年間隔で繰り返し起こっていて「今後20年以内(2020年頃まで)に次の地震が起こる可能性が高い」と結論されています。1978年の37年後は2015年で「次の地震」が肉薄してきたことから、評価確率はほぼ毎年改訂され、2009年時点では、30年以内のM7クラスの地震の発生確率は99%となっていました。
2005年には『日本海溝・千島海溝周辺海溝型地震に係る地震防災対策の推進に関する特別措置法』が制定され、地震防災対策推進地域の指定、地震防災対策推進基本計画等の作成、地震観測施設等の整備、地震防災上緊急に整備すべき施設等の整備等について定められました。
歴代の「宮城県沖地震」(地震調査委員会, 2000 から)
2013年の今、上記海域ほとんど全てを含んだ日本海溝沿いを震源とする、東北地方太平洋沖地震(Mw9.0)が2011年3月11日に発生し、死者・行方不明者約1.8万人の東日本大震災が生じたことを、私たちは知っています。
このため、1978年宮城県沖地震は、ともすれば軽くみられがちですが、この地震は、戦後高度経済成長期以後に初めて大都市圏を襲った海溝型大地震で、当時大きな社会問題となりました。
1978年の地震では、丘陵の住宅造成地における切土・盛土境界付近からの斜面崩壊、干拓地・埋立地での地盤液状化、家屋やブロック塀の倒壊などが多発しました。これを機に建物の耐震基準は強化されましたが、斜面や地盤に関わる同様の災害は、2011年の震災でも多発しました。かつて被災した土地を、当時を知らない世代が再び造成し入居した結果、同じ災害が繰り返された、との報告も聞きました。
顕著な自然災害が起きたとき固有の災害がクローズアップされ、相応に対策も進むのですが、どうも私たちの社会は、その次の災害によって注目される課題が「上書き」されてしまう傾向があるようです。1978年宮城県沖地震の直後に国土地理院が調査・図化した1:25,000土地条件図には、盛土・切土(平坦化地)の境をなるべく精密に表示する方針が垣間見えます。その場所の地図画像を掲げることで、造成地の斜面災害に対する備忘としておきます。
2013年06月10日
第19回地図地理検定は今月の23日に行います。インターネットによる申し込みは6月6日(木)に締め切りましたが、振替振込・郵送(現金書留)は、6月13日(木)まで受け付けております。
今回は目先を変え、“地図関係の雑学クイズ”を作成してみました。受験準備中の息抜きだと思って、お楽しみください。地図がお好きだった作家の故井上ひさし氏に関係する出題です。
問17 井上ひさし氏が遺された多くの著作の中でも、地図関係では、伊能忠敬の北海道(当時は蝦夷)と伊豆半島の地図つくりを扱った小説『四千万歩の男』が有名です。この小説について、国土地理院は何をしたでしょうか。
[解答・解説]25年ほど前になりますが、小説『四千万歩の男』が刊行された直後、測量の日の行事のひとつとして、井上ひさし氏に功労者感謝状を、国土地理院から贈呈しています。そのときの国土地理院(茨城県つくば市)の会場には、ご本人に代わって御嬢様が出席されました。
問18 井上ひさし氏の小説で地図の縮尺をタイトルにした未完の小説もあります。その縮尺はいくつでしょうか。
[解答・解説]『一分の一』です。ソ連(現ロシア)モスクワ市の赤の広場の、1分の1地図を描いて表彰された日本人を主人公とした話です。この話はもちろんフィクションで、日本が第二次大戦後にソ連等4か国に分割占領され、ソ連領とされていた東北地方の人がその地図の作成後、日本の統一のために活動する話です。25年ほど前『小説現代』誌に、遅筆の井上ひさし氏らしく不定期でしたが連載され、未完のままで終わっていました。2011年10月に、未完のまま単行本2分冊で出版されました。
問19 井上ひさし氏は生前に地図関係の学術団体の会員でした。その学術団体の名称は何でしょうか。
[解答・解説]日本国際地図学会です。地図学の発達、普及を推進することを目的とする、我が国を代表する学術団体で、昨年(2012年)の創立50周年を機に日本地図学会と改称しています。井上ひさし氏は正会員として在籍され、その作品を通じて若い地図学研究者たちの意欲をかき立ててくださいました。
問題番号は、これまでのクイズちずりょくからの連番です。今回のクイズが第19回地図地理検定で出題されることはありませんので、ご安心ください、
2013年06月05日
6月5日は、世界環境デー(環境の日)。そして、地図中心489号(2013年5月号)の特集は「地図で考えるエコ」です。
1972年の同日から16日にかけて、スウェーデンの首都ストックホルムで開催された国連人間環境会議は、「かけがえのない地球*」を共通スローガンとして催されました。この、環境に関する初めての国際会議では、「人間環境宣言*」「環境国際行動計画」が採択され、これらを実施する国際機関として国連環境計画(UNEP*,本部はケニア・ナイロビ市)が、同年の国連総会で設置されました。
人間環境宣言は、人間社会が依って立つ環境の保全と向上に関し、世界の人々を励まし導くため共通の見解と原則が定められています。このストックホルム会議は、ほぼ同時期に民間のシンクタンク・ローマクラブが刊行した『成長の限界』(1972)*とともに地球環境問題への取り組みの発端となりました。しかし、その解決方策をめぐって先進国と開発途上国との立場の違いがあきらとかなり、いわゆる「南北問題」の始まりでもありました。
国連主導の環境に関する大規模な国際会議は、ほぼ10年毎のペースで開催されています。1982年には、UNEP管理理事会特別会合が、本部があるケニアの首都ナイロビで催されました。1992年には、環境と開発に関する国際連合会議がブラジルのリオディジャネイロで催され(通称「地球サミット」)、地球環境問題への行動計画「アジェンダ21(Agenda 21)」が採択されました。1997年には、京都で催された第3回気候変動枠組条約締約国会議(COP3)で、温室効果ガス排出の削減目標に言及した「京都議定書」*が採択されました。2002年は地球サミット10周年にあたり、持続可能な開発に関する世界首脳会議(「第2回地球サミット」「リオ+10会議」)が南アフリカのヨハネスブルクで、2012年には20周年として、初回と同じリオディジャネイロで国連持続可能な開発会議(「リオ+20会議」)が催され、アジェンダ21の実施状況などが評価されました。
去る4月12日の記事「地球は青かった」で言及した「地球地図」は、1992年採択のアジェンダ21を受けて、同年に建設省(現・国土交通省)と国土地理院が、各国の国家地図作成機関に呼びかけて始まったプロジェクトです。地球地図とは、
・地球の全陸域をカバーし、
・統一された仕様で、
・誰にでも安価に提供される、
解像度1kmのデジタル形式の地理空間情報です(地球地図3つの原則)。
日本の国土地理院内に事務局があるこのプロジェクトには、2013年3月時点で166ヵ国/16地域が参加しています。2012年のリオ+20会議で採択された成果文書には、地球地図の重要性が記されています。
地球地図 / 植生(樹木被覆率)
*
「かけがえのない地球」 "Only One Earth"
国連環境計画 United Nations Environment Programme (UNEP)
『成長の限界』 "Limits of Growth"
2013年06月03日
「6月3日は何の日?」と問われたら、このブログの読者ならば迷わず「測量の日!」と答えるでしょう。1949(昭和24)年のこの日に測量法が公布されたことを記念し、1989(平成1)年に当時の建設省により制定されました。
6月3日はまた、日本の自然災害史でも忘れられない日です。1991(平成3)年のこの日、長崎県の活火山・雲仙岳で発生した火砕流は麓の島原市北上木場地区に達し、43名の方々が巻き込まれ亡くなりました。
雲仙岳の噴火活動は、1990(平成2)年11月に始まりました。「島原大変肥後迷惑」で知られる1792年の活動から198年ぶりの再開でした。最初は、当時の最高峰*・普賢岳(1359m)付近の地獄跡火口などからの小規模な水蒸気爆発が散発する程度でしたが、1991年5月20日に地下のマグマ本体が地表に達して溶岩ドームが出現し成長し始め、24日には熔岩ドーム縁辺部の崩落による火砕流が発生し始めました。25日、九州大学島原地震火山観測所に全国から駆けつけた専門家が討議し、その夕刻に「火砕流」という語を入れた火山情報を発表しました。が、結果的にその意は十分に伝わりませんでした。そして6月3日を迎えます。
平成噴火前の普賢岳.1:25,000地形図「島原」(1977年修正測量)から.
→ 現在の普賢岳/平成新山(電子国土)
「火砕流」という用語は、専門家の間ではすでに使われていました。フランス領西インド諸島にあるモンプレー火山1901年噴火で熔岩ドームから生じた「熱雲」による壊滅的な災害の記録などから、怖ろしい現象であることは知られ、また日本国内の火山周辺でも多くの火砕流堆積物が見いだされ記載されていました。しかし、専門家含め多くの人々にとって、それが実際に目の前で起きているところを見たのは、おそらく初めてのことだったと思います。
5月25日発表が、事後の目からみて控えめな表現だったことについては、いろいろ議論があります。混乱防止を「配慮」した人もいたとは思いますが、あるいは、それまでの知見と目の前の現象との微妙なズレが、突っ込んだ発表を躊躇させたのでは、とも考えられます。
地震とは対照的に、火山噴火は山体観測などからある程度予測され、事前避難に成功した事例があります。一方、余震が全般的に減衰していく地震と異なり、火山活動の「終わり」を見極めるのは極めて困難で、大規模噴火では避難が長期化する傾向にあります。戦後最大級の火山災害を生じた雲仙岳「平成噴火」は、島原地震火山観測所長(当時)の太田一也さんが1996年6月に「終息宣言」を発することで、地元の人々が災害対応の区切りをつけることができました。「雲仙岳のホームドクター」と慕われた太田一也さんは、引退後も講演会や解説記事執筆などで、多忙な日々を過ごされました。それらを読むと、警戒区域などの線引きについて行政との葛藤など多くの苦労とともに、計44名の命を救えなかったことの無念さが伝わってきます。
現在の雲仙岳最高峰は平成新山(1483m)です。平成噴火の熔岩ドームで、長崎県の最高地点でもあります。5年間という短期間に形成された険しい不均質な山体はまだ不安定で、火砕流の危険は当面ないにしても重力による崩落の可能性をはらんでいます。国土交通省雲仙復興事務所では、観測を拡充するとともに、委員会を設置してハード・ソフト両面での対応策を検討しています*。
雲仙岳平成噴火によって、「火砕流」という用語は一般に知られるようになりました。いま長崎県島原市にある雲仙岳災害記念館 がまだすドーム**多目的ホール前では『火砕流の爪痕展〜日本のポンペイ発掘最前線〜』が催されています。
* 委員会資料は、雲仙復興事務所のWebサイトで公開されています。
** 「がまだす」とは島原のことばで「がんばる」という意味。