2012年08月

2012年08月30日

 8月も明日まで。ツクツクボウシのせわしい鳴き声を聴くたびに、夏休みの宿題に追われていた日々が想い出されます。

 今月14日付で掲載した記事で、佐藤卓己著『八月十五日の神話』を紹介しました。本書のなかに「戦没者を追悼する8月15日と、戦争責任を考える9月2日とに記念日を切り離すべきではないか」との提案があります。この記念日の改革案、趣旨は妥当ながら効果が少ないのではないかと思えます。何故なら、第二次大戦が終結した、いわゆるVJデイ前日の9月1日は、日本では「防災の日」であり、大多数の日本国民の意識は「戦争と平和」から「防災」へと上書きされているからです。

 「防災の日」は、伊勢湾台風による大災害の翌年1960(昭和35)年6月17日、閣議了解で9月1日とされました。関東大地震が1923(大正12)年9月1日に発生したことから、「この日を中心として、防災思想の普及、功労者の表彰、防災訓練等これにふさわしい行事を実情に即して実施する」とされています。実際、毎年8月下旬から9月にかけて、台風が日本列島付近に来襲し、半世紀以上前の記憶よりも、目の前の自然現象への対応に追われるようになります。

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東日本大震災:灌水したままの低地.

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デジタル標高地形図国土地理院が公開).灰色の区域が津波による灌水部.

 東日本大震災では、被災状況を表す優れた地図成果が公表され、復興用地図が提供され、さらに液状化などの被害発生条件を知るため旧版地図の閲覧が増えたりするなど、地図と防災との関わりは強くなっています。地図に関する学術団体である日本国際地図学会の本年度定期大会では、8月23日午後に、シンポジウム「減災のための地図のあり方を考える」が催されました。
 遠藤宏之さん(螢優ストパブリッシング)の呼びかけに応えて、牛山素行さん(静岡大学防災総合センター)、石黒徹さん(横浜市政策支援センター)、井口隆さん((独)防災科学技術研究所)、羽鳥達也さん(日建設計)ら、防災に関する情報や考えを日々発信されている方々がパネリストとして登壇されました。

 地図と防災といえば、「わかりやすいハザードマップ」「誰でも使えるハザードマップ」、とよく言われますが、このシンポジウムでは違いました。冒頭から、牛山さんの『「わかりやすいハザードマップ」が被害軽減に直結しない』という刺激的な題の講演で、防災地図の位置づけが相対化されました。
 竣工すれば直ちに効果を発揮するハード防災に比べ、ソフト防災としてのハザードマップや避難地図は、完成しても、受益者・利用者がそれを理解し活用しなければ効果を発揮できないこと、そして、内容や使う環境をどんなに充実しても「使わないひと」が必ず相当数いることを前提とすべきことが指摘されました。
 では、どうしたらよいのか?牛山さんの提案は、防災に関わる判断をする「絶対に使ってもらいたいひと」を見つけ出すこと。

 羽鳥さんの「避難地形時間地図(通称:逃げ地図)」が、シンポジウムの全体テーマに対するひとつの解答でした。ハード防災の一種ともいうべき、津波からの避難タワーなどの設計に関わる立場から、減災に効果的な街づくりの合意形成のためのツールとして地図(GIS)を用い、地元のひとびとも参画して、避難経路と所要時間とを視覚化した事例です。

 このシンポジウムについては、遠藤さんやパネリストの方々自身が、各々発信している情報サイト(例えばここ)でも言及しておられ、Twitterでも同時進行的に話題が拡がり、Togetter と呼ばれるとりまとめもなされています。
 横浜市の震災や戦災の地図から驚くべき事実を抽出された石黒さん、ライフワークというべき地すべり地形分布図について紹介いただいた井口さんによる講演も含め、詳しく知りたい方はそれらもご覧ください。また、主催した日本国際地図学会でも、学会誌等で改めて報告されるはずですので、関心のある方は入会して購読してください。

IMGP2377sp 東日本大震災では、原子力発電所事故だけでなく、震災瓦礫処理や津波被災地の再建方策など解決すべき課題も多く、復旧・復興がなかなか進まない現実もあります。
 しかし、多くのひとびとが現地に赴き、それに向けた地道な仕事に取り組んでいることは忘れないようにしたいと思います。


 ☆ 9月4日、一部追記しました。 
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 文部科学省放射線量等分布マップ拡大サイト



jmctsuza at 11:00 
コラム | 防災

2012年08月24日

 いま発売中の『地図中心』8月号(通巻479号)の特集は「ピリカノカ室蘭」です。cover479
 今年2012(平成24)年、室蘭港は開港140年、室蘭市は市制施行90年を迎えました。室蘭というと重工業港湾都市のイメージが強く、戦前・戦時中は室蘭付近の地形図は軍事機密でした。
 一方、室蘭港を太平洋の荒波から守る絵鞆半島は新第三紀の火山岩からできており、その太平洋側は切り立った断崖が卓越し、人工改変の進んだ室蘭港側とは対照的な景勝地です。今年1月に「ピリカノカ(アイヌ語で「美しい形」の意」)で国の史跡名勝に指定されました。
 このような室蘭の魅力について、本誌2008年8月号(通巻431号)から2011年8月号(通巻467号)にかけて計36回にわたり好評連載された「地図は語る」シリーズの著者としてお馴染みの、島田英常さんの全面的なご協力をいただき、旧版地図や現地景観の写真を多数用いた特集号となりました。熱心にアドバイスいただいた島田さんには感謝申し上げます。

 室蘭のランドマークといえば、測量山(199m)が知られています。1872(明治5)年に、札幌本道(函館〜森〜(海路)〜室蘭〜札幌)を築造するとき、お雇い外国人技師が登頂して測量を行ったことにちなむ山名です。アイヌ語では「ホシケサンペ」といい、船で外洋から近づくとき、最初に見えてくる陸地、という意味だそうです。
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☆ 『地図中心』の読者のみなさまに、479号の発売日が通常月より遅れましたことをお詫び申しあげます。

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jmctsuza at 09:30 
地図中心 

2012年08月14日

 毎年8月になると、「高校野球」「帰省」「旧盆」「終戦記念日」など、ほとんど季語と化した言葉とともに、多くの日本人の故郷志向が強まる同時に、戦争の記憶を反芻し、ともかくも平和が保たれていることをかみ締めることになっています。67年間にわたり日本国民が、戦闘によって外国人を殺害したことがない、という記録は世界に誇ってよいと思います。

  1945(昭和20)年の夏前後の、対外交渉や関係国の動向を、時系列で列記してみました。

 5月 8日:ドイツ、連合国に無条件降伏。
 7月13日:日本政府、和平の親書をソ連外務省に託す。
 7月16日:アメリカ合衆国、最初の原爆実験に成功。
 7月17日:ポツダム会談始まる。
 7月25日:合衆国トルーマン大統領、原子爆弾投下指令書に署名。
 7月26日:対日ポツダム宣言。
 8月 6日:広島市、原子爆弾被爆。
 8月 8日:ソ連対日宣戦布告。
 8月 9日:ソ連軍攻撃開始。長崎市、原子爆弾被爆。
 8月10日:日本政府、ポツダム宣言の条件付き受諾を連合国に申入れ。
 8月12日:連合国、日本の降伏に関する回答。
 8月14日:日本政府、ポツダム宣言受諾を決定、連合国に通告。終戦詔書を録音。
 8月16日:日本政府、全軍に休戦命令。
 8月30日:マッカーサーが厚木基地に到着。
 9月 2日:日本政府、降伏文書に署名、第二次大戦終結。
 9月 5日:ソ連軍、北方四島を占領。
 9月 7日:沖縄戦終わる。
10月 2日:連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)を東京に設置。

 これを見て「おやっ?」と思ったひとは多いハズです。そう、日本国民の成人ならば誰でも知っている「終戦記念日」8月15日はどうしたのか?と。4480062440
 1945年8月15日は、日本政府がポツダム宣言受諾を決定し連合国に通告したという事実を終戦の詔書によって国民に伝えた(だけの)日であって、国際法上は何もしていないのです。もちろん、多くの国民にとって極めて重大な知らせを初めて聞いた日であり、その意義を過小評価する必要はありませんが、日本以外の大多数の国にとって第二次大戦の終結は、日本政府代表が降伏文書に署名した9月2日なのです。

 佐藤卓己『八月十五日の神話 − 終戦記念日のメディア学』(ちくま新書,2005年)は、全国戦没者追悼式を8月15日に行うことを、1963年に政府として閣議決定するまでに、どのようにして「8月15日=終戦」は日本国民の集団の記憶として定着していったのかを、真正面から考察した著作です。4480063730
 佐藤さんの研究は実証的・重層的で、要約は難しいのですが、本書を読むと、9月2日の「敗戦」を忘れ、戦前からの伝統である月遅れ盂蘭盆と同日の8月15日を「終戦」とすることで、戦争の当事者意識とでもいうべきものが忘却され、代わりに戦没者追悼〜すなわち被害者としての側面が強調されてきた経過が浮かび上がってきます。
 佐藤さんの主張には賛否があるかとは思いますが、本書の続編として、同じテーマをアジア諸国に取材した『東アジアの終戦記念日 − 敗北と勝利のあいだ』と併せて、8月の休暇を利用して「記憶」を確かめる読書をしてみるのも、半世紀を越えた平和を維持し享受している私たちの知的なたしなみであると思います。
 
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 ドイツ東北部(旧東ドイツ)
 → OpenStreetMapによるポツダム市街の地図

  ポツダム宣言が発せられた、ドイツのポツダムPotsdam)という街をちょっと観てみましょう。氷期にスカンディナビアを中心に発達していた氷床跡の湖沼の畔にある風光明媚な街です。ベルリンに隣接し、プロイセン王国〜ドイツ帝国時代には王家の居城があり、この地を占領したソ連は王家の史跡を利用して連合国首脳会談の場所を提供しました。
 ポツダム会談の後、冷戦が深刻化し、旧ソ連軍の本国以外では最大の基地がおかれ、西ベルリンを東ベルリンとともに東西から監視する役割を担いました。一方、旧東ドイツも、ベルリンからポツダムへ行くにはベルリンの壁を大きく迂回する必要があり、相応の不便を強いられていました。
 現在では、統一後再編されたSバーン(都市近郊電車)に乗って、ベルリン中央駅(Berlin Hauptbahnhof)からポツダムまで40分で行くことができます。

 ポツダムは、いろいろ日本と縁があるところです。
 トルーマン大統領が広島への原爆投下命令に署名した「リトル・ホワイトハウス」の近くの交差点付近は「ヒロシマ・ナガサキ広場」と名付けられ、最近建立された原爆碑があります。
 ポツダム市電の400形電車は、広島電鉄5000形電車と同じメーカー(ドイツ・シーメンス社)が製作した同一車種で、このうち404号には「Hiroshima (広島)」と愛称が付けられています。
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ポツダム市電404号「広島」.
ポツダムに留学していた測地学研究者のTさんにお願いして、研究の合間の夕刻に撮っていただきました。

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jmctsuza at 23:00 
コラム | 本の紹介

2012年08月10日

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  長崎市の浦上地区に、カトリック教会の司教座聖堂があります。浦上教会浦上天主堂)です。日本に3つある大司教区のうちのひとつ長崎大司教区の大司教座で、長崎教会管区として九州・沖縄の司教区を統括しています。

  浦上教会の年中行事のひとつが、89日午前6時と1102分に始まる原爆犠牲者の追悼ミサです。

 

 日本にキリスト教(キリシタン)が直接伝わったのは大航海時代、浦上地区にも16世紀に伝わりました。しかしまもなく豊臣秀吉の伴天連追放令(1587)、徳川幕府による禁教令(1614)などが発せられ、絵踏などの迫害・弾圧のなかで、潜伏時代が始まりました。
 幕末期の開国にともない居留外国人のために建立された長崎市内の大浦天主堂で、浦上のキリシタンは再認知されましたが、復古神道による祭政一致を掲げた明治政府によるさらに過酷な弾圧で、一時は浦上の全村民が故郷を追われました。さすがにこれは欧米の介入をまねき、1873(明治6)年までに一応の解決をみています。

 その翌年には、長崎の地で金星日面経過の国際観測が行われたことは、このブログでも紹介しました

 

 浦上天主堂は、絵踏が行われた元庄屋の跡地に建てられ、1925(大正14年)年に完成しました。石と煉瓦によるロマネスク様式で、2塔の鐘楼が聳え、天草の石仏師が刻んだ天使像、獅子、聖者石像などが飾られた聖堂は、東洋一の偉容を誇りました。

 

 1945(昭和20)年89日、北マリアナから飛来したB29爆撃機群は、944分頃に第一目標の福岡県小倉市上空に達しましたが、悪天候のため第二目標である長崎市に転進し、たまたま浦上付近にできた僅かな雲の隙間から、史上2発目の原子爆弾が投下されました。爆心地にあった浦上天主堂は、壁面の一部を遺して全壊し、2名の神父と聖堂内にいた数十人の信徒も亡くなりました。

Urakami

  浦上天主堂の再建にあたり、旧聖堂の廃墟を広島の原爆ドームのような形で保存する動きもありました。しかし、教会にとってその場所は、かつて250年間にわたり絵踏などが行われたキリシタン受難の地で、いわば聖地であり、その場所での再建に強くこだわりました。

 1959(昭和34)年に完成し聖別された新聖堂は、鉄骨コンクリート製ながら旧聖堂と同じ様式で、焼け残った大鐘や天使などの石像は、極力再利用されています。そして、1962(昭和37)年、それまでの大浦天主堂に代わり、浦上天主堂が司教座聖堂に指定されました。

 

  浦上天主堂は、聖母マリアに献じられています。歴史や規模はかなり違いますが、たとえば、世界遺産に指定されている北フランスのシャルトル大聖堂も聖母マリア(ノートルダム)に献じられた司教座聖堂(La Cathédrale)であり、浦上天主堂は、カトリック教会での位置づけは同格なのです。

 

 多くのカトリック教会は、場所をとても重視しているようです。シャルトル大聖堂の建つ場所は、キリスト教以前も土地の地母神を祀る聖地でした。一方、浦上天主堂の場所は、丘陵の裾が低地と接するところで、社寺に多くみられる地形です。直接的にはキリシタン受難の地である庄屋跡ですが、遡れば(投稿者の推定ですが)何らかの小祠があったのかもしれません。

 被爆した旧聖堂の廃墟は、ハードウェアとしてはその場に保存されませんでしたが、隣接する信徒会館内の原爆資料室には、原爆資料館にはない貴重な被爆遺産が展示されており、だれでも見学できます。また脇を流れていた小川に崩落した旧鐘楼は、川の流れを変えてその場に保存されています。

  同じ場所に聖堂が建ち続けることで、(俗な表現で云えば)定点観測のような視点が得られ、苛烈な歴史も含めた土地の聖性が記憶され、伝えられていくのでしょう。


☆  今回の記事は、本来8月9日に掲載するはずでしたが、手違いにより1日遅れとなってしまいました。

☆☆ 歴史に関する叙述は、浦上天主堂の公式サイトを参照いたしました。もし不適節な点があれば、それはこの記事の投稿者の責任です。
→ 8月24日・27日に、一部を追記・修正しました。

☆☆☆ 浦上天主堂は、観光施設ではなく祈りの場です。拝観に際しては、聖職者と信徒の方々に失礼のないようお願いします。


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jmctsuza at 11:02 
コラム 

2012年08月06日

 8月6日は67年前に広島市に原爆が投下された日、8月9日は長崎市に原爆が投下された日です。歳月の経過と世代が交代していくなかで、どのように説得力をもって被爆体験を伝えていくのか、今世紀に入る頃から課題となっていました。

cover20050806 (財)日本地図センターでは『地図中心』誌の2005年号外として「米軍が空撮した広島・長崎 昭和20年8月」を特集しています。広島市長(当時)が「今こそ広島の心を世界に広めたい」と語った対談記事を中心に、米国国立公文書館が所蔵・公開している米軍撮影の空中写真や旧版地形図など、当センターが使える資料だけを用いて、被爆前後に広島、長崎の市街がどのように変貌したかを評論抜きで示しました。
 僅か数日間をおいて撮影された2組の空中写真を見比べてすぐに判ることは、そこで生活していた市民が、その生活空間とともに、ある意志によって抹殺された事実です。
 この号外は多くの方々の関心を集めた結果、現在では残念ながら在庫切れとなっていますが、記事の基になった旧版地図や米軍撮影の空中写真は誰でも入手できます。

  ほぼ同時期の2004年、原爆をテーマとした傑作が発行されました。広島出身の漫画家こうの史代さんの『夕凪の街 桜の国』(双葉社)です。「夕凪の街」「桜の国(一)」「桜の国(二)」の3部から構成されています。
Yuunagi 「夕凪の街」では、広島の基町にあったスラムを舞台に、被爆から10年後の若い女性の心情と運命が描かれています。「桜の国(一)」「桜の国(二)」では「夕凪の街」の主人公の姪にあたる被爆二世の女性の、家族の歴史を辿る旅と、そして被爆者や被爆二世への差別(「・・の芽のようなもの」作者)が描かれています。
 ほのぼのとしたタッチの描写でありながら重いテーマから逸れることなく、明るく希望に満ちたエピローグに至るこの連作短編は、多くの読者の心を捉えました。外国向けにも翻訳され、2007年には実写版で映画化されています。

 『夕凪の街 桜の国』の巻末には、舞台となった場所を示した作者手書きの「広島市中心部地図」が掲載されています。主人公たち〜すなわち当時の広島市民の行動範囲の中心には相生橋があります。T字形の特徴的な平面形をもつこの橋が、原爆投下の目標物となったのでした。
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相生橋を走る広島電鉄650形電車(撮影:石原宏行).
背景に原爆ドームが見えます。この651号は、1945年8月6日の朝、運行中に被爆し大破しましたが、翌年に修復され、現在も使われています。

 (8月7日追加)
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 旧太田川左岸には、1970年代までスラムが残っていました(左写真)。
 現在は、
環境護岸の整備がなされ快適な緑地となっています(右写真)。


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米国立公文書館所蔵の空中写真



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