2012年07月

2012年07月27日

見にウォーク(5a)からの続きです。

2258t

土地の高さと験潮
 三浦半島のなかでも海岸の出入りが特に著しい西南部、東西に細長い諸磯(もろいそ)湾からさらに深く湾入する油壷湾。外海の波の影響が少ないためヨットの係留地としても有名です。ここに国土地理院の験潮場があり、日本の地図における高さの基準のための重要な観測を行っています。

 日本の土地の高さ(標高)は、東京湾平均海面を標高0mとして測られています。実際の海面は波や潮汐などで常に変動していて高さは一定していませんが、長い期間連続的に観測(験潮)し、その平均をとることで一定の高さが得られます。これを平均海面といいます。東京都千代田区にある日本水準原点では、東京湾平均海面上の標高値が固定されていて、離島を除く日本全国の水準点の標高値は、この水準原点との高さの差から求められています。
 最初に東京湾平均海面が決められたのは1884(明治17)年です。これはその11年前から隅田川河口に設けられていた霊岸島量水標による潮位観測から求められました。国土地理院の前身である陸地測量部が発足した3年後の1891(明治24)年、日本水準原点が設置され、これとともに海に面した6個所の験潮場で本格的な潮位観測が始まりました。
 外洋の波浪の影響がより少ない油壷に験潮場を設置されたのは、1894(明治27)年のことです。それまで千葉県銚子の高神村に設置されていた験潮場を廃し、そこの資材をそのまま利用して移設したと記録されています。
aburatsubo_topo
 
 現在、油壷には新旧2つの験潮場が仲良く並んでいます。古い建物はアンティークな赤レンガ造りで、120年に迫る歴史を感じさせます。もう一方の新しい建物は、灰色の石造りで周囲の自然の色調からはみ出ないようデザインされ、GNSSアンテナが附属しています。お互い鼻を突き合わせるようにして、ヒッソリと海面の高さ(潮位)を観測し続けています。
 験潮場は、海中から導水管という長い管で海水を井戸に引き、この井戸にフロート(うき)を浮かべ、そのフロートが上下する量を観測・記録する施設です。この験潮場から約90km離れた日本水準原点へ、水準測量により毎年取付け観測が行われ、水準原点の高さを点検しています(→国土地理院による解説

関東大地震
 旧験潮場の基礎が載る岩棚の海側に、高さ2mあまりの細長い石柱が突き刺さっているかのように垂直に立っています。石柱の正面には上から下まで縦に幅広い溝が刻んであります。この溝には木製の量水標(水位標)がはめ込まれていたようです。これは、験潮儀の記録紙が描く潮位が実寸でなかったため、実際の干満を量水標により読み取り、験潮儀の縮率を決めるために置かれたものと思われます。また、験潮儀が故障の際には、海面の動きをこの量水標を用いて測定していたようです。
 しかし現在、この石柱は岩棚ごと干上がっており、量水標として使うことができません。本来の目的を失ったその姿は、なにやらみすぼらしく恥ずかしげです。

 1923(大正12)年9月1日、首都圏に大きな被害(関東大震災)をもたらした関東大地震(Mj7.9)が発生しました。このとき油壷験潮場では1.4mもの潮位低下、つまり地盤の隆起を観測しました。2011年に発生し東日本大震災をもたらした東北地方太平洋沖地震(Mw9.0)では、太平洋岸の広い地域で地盤の沈降が観測されましたが、関東大地震では、三浦半島南部だけでなく、房総半島や相模湾奥の大磯付近を中心に広範囲で地盤の隆起が観測されました。
Tide_1890-1980
1923年をはさんだ潮位記録(クリックすると拡大します)

 関東大地震では、震源断層が浅く一部は陸域下にもかかっていて、海溝型地震であるにもかかわらず、直下型地震にも似た激しい地震動が神奈川県南部を襲い、隆起域の一部が陸上にも掛かったのです。
 この地球科学的事象は、験潮儀の記録紙にだけでなく、量水標跡とそれが載る岩棚自体が干上がってしまったことで、建物と地形にも保存されているのです。前回(5a)ご紹介した海岸の岩棚は、三浦半島南部から房総半島南部にかけて広く分布し、これらの地域が釣り人に愛好されているのですが、これは関東大地震の痕跡でもあるわけです。

 油壷験潮場からの水準測量で取り付けている日本水準原点の標高値は、関東大地震での地殻変動により改訂されましたが、東北地方太平洋沖地震でも変動が観測されたため、再度改訂され、現在は東京湾平均海面上24.3900mとされています。
  新旧の験潮場では、引継ぎのための並行観測を終え、赤レンガの験潮場の存続が論議されているようです。大地震の地殻変動が保存されている石柱・建物ともどもこの地から失われることがないよう願っています。
(ここまでの2項は、jmchakoによる)

IMGP2286s

週末には岬をめぐろう
  『岬めぐり』という歌があります。山本コウタロー&ウィークエンドというフォークグループの代表曲で、1974年にヒットしました。失恋の歌なのですが、伸び伸びとした曲調から、夏の北海道のバス旅を連想していました。山本コウタローさんによると、北海道や四国を思い浮かべて作曲したそうですが、後に作詞者の山上路夫さんとの対談で、舞台は「三浦半島だ。」ときかされ驚いたそうです*。
 いわれてみれば、雄大な北海道では、岬へ行くだけで大旅行になり「めぐる」という感じではないかもしれません。それに比べ、三浦半島ではバス路線網も充実しており、荒磯と砂浜が交互にみられる海岸沿いを走れば、岬は次々と現れてきます。地層による浸食の違いや地殻変動が、海岸線の出入りが著しい地形を造ったのです。

  三浦半島は、東京とその近郊から、週末に日帰りまたは1泊で気軽に訪れるのにちょうどよい海浜リゾートです。岬めぐりのバス旅に最適な切符があります。京浜急行「三浦半島1DAYきっぷ」「三浦半島2DAYきっぷ」、で、半島の主な路線バスに自由に乗降できます。
 変化に富んだ地形・風光を楽しみ、三崎港で陸揚げされたマグロを味わい、そして地震と地殻変動について少し心に留めたら、週末旅を終えて三崎口始発の快特電車に乗って街に帰りましょう。三崎口駅の案内チャイムのメロディは『岬めぐり』です。
 帰りの車中では、心地よい疲れに身をまかせていればよいのですが、2駅目の津久井浜から次の京急長沢との間では、もう少しだけ地形に注目してください。丘陵を短いトンネルで抜ける直前、上下線路が少し離れるあたりは、関東大地震時に地表地震断層が現れたところです**。

1923fault
 1:25,000都市圏活断層図「横須賀・三崎」***から

*  佐藤晴美(2005):「岬めぐり」の"岬"をめぐる.荷風!Vol.3. 日本文芸社.

** 太田陽子・山下由紀子(1992):三浦半島の活断層詳細図の試作.活断層研究, 10.

***渡辺満久ほか(1996):1:25,000都市圏活断層図「横須賀・三崎」.国土地理院技術資料D.1-333.

 (見にウォーク (5) おわり )
home
Hama_Jiso



2012年07月20日

IMGP2267s

夏休みと少年ドラマ
 地図センター本社がある東京都目黒区の公立小中学校では、7月の第4週から夏休みに入ります*。夏休みの始まりといえば、子供たちにとって2学期など未だ視界に入らず、今夏こそ何か冒険ををしてみたいと思ったものですが、現在ではどうなのでしょうか?

 1970〜80年代、NHK総合テレビで「少年ドラマシリーズ」という番組がありました。1973年夏に放映された『つぶやき岩の秘密』。三浦半島の西海岸に住む少年が、岬の断崖に老人を目撃したことから、奇妙な事件に巻き込まれ、幼い頃の両親の死の秘密に絡んだ謎を解いていくというミステリ冒険譚でした。
 全編が三浦半島の三戸海岸でのロケで、映画のようなタッチの画面が臨場感を出していました。夕景の海に石川セリが歌う主題歌『遠い海の記憶』がかぶさるエンドタイトルの印象から、晩夏の放映だったと思い込んでいましたが、情報サイトによると7月9日〜19日で、夏休みの直前でした**。tsubuyakis
 原作は、『孤高の人』『剱岳・点の記』など山岳を舞台にした小説で知られる作家・新田次郎(1912〜1980)です。生誕百年にあたる今年(2012年)6月に新潮文庫として再刊行されました。
 ジュヴナイル篇にしては文章が硬質ですが、小学校高学年が夏休みに、少し背伸びをして読むのに適しているともいえます。気象庁技官だった作者ならではの天候に関する記述が効果的に使われていますが、登山経験に裏打ちされた地形の描写も的確です。磯浜から急坂を登り詰めると、何事もなかったかのように平坦な台地面に大根畑が広がる風景は、まさに三浦半島のものです。

 ミステリ作品ですので、あまり詳しく立ち入るわけにはいきませんが、実在する地形を観ながら、三浦半島西南部を歩いてみましょう。

海岸段丘
 京浜急行久里浜線の三崎口駅で下車します。ホームは切り通しの中にありますが、階段を上がって改札を出ると駅前は平坦な地形です。
 三浦半島南部の地形は、広い段丘(台地)面と海食崖で特徴づけられます。地形学の研究から段丘面は大きく3段に区分され、高い(古い)方から引橋面、小原台面、三崎面と名付けられています。三崎口駅前の台地面は三崎面で標高40mくらいですが、北方向を眺めると一段低い標高30m内外の台地面が広がっています。こちらも三崎面なのですが、活断層による変位を受けて高さが違っているのです。
IMGP2298s

 後編(5b)で訪ねる油壷へはバス便がありますが、三戸海岸へは頑張れば歩いていける距離です。逗子、葉山方面から通じる国道134号は、三崎港方面に向かって上り坂で、三戸入口というT字路では標高50mを越えています。このあたりは小原台面です。三戸海岸方面へ右折すると緩い坂を下って三崎面に戻り、畑の中をさらに1kmほど歩きます。1970年代の空中写真では左側に台地を刻む「谷地」がありますが、現在は圃場整備の工事中で地形が変わっています。

 主人公たちが住む村のモデルと思われる初音漁港付近の集落は、谷地を塞いだ砂州(砂碓)の上に載っています。夏は海水浴場になる砂浜からは、晴れていれば、相模湾をはさんで富士山や伊豆半島がみえます。小説では、漁港の南にある断崖が「塚が崎」、崖下に「つぶやき岩」、突端の先に岩礁「鵜の島」、そして「塚が崎」には旧日本軍が「本土決戦」に備えて掘削した洞窟があります。
 三浦半島にみられる岩は新第三紀の凝灰質堆積岩で、掘削しやすい割には崩れにくく、旧軍の重要施設が多かった三浦半島には、実際に要塞跡の人工洞窟がたくさんあります。
 海岸からは岩山にみえる「塚が崎」の上は照葉樹林に覆われ、その背後の広い台地面上は大根畑(夏は西瓜畑)です。「つぶやき岩」のある荒磯には、海面から1〜2mの高さの岩棚があり、釣り人に絶好の足場となっています。

  「塚が崎」の南は、小網代湾という東西に細長い湾入で、小説やドラマにもでてくるヨットハーバーがあります。このあたりから三崎港にかけて、海岸の出入りが著しく、海食崖と小さな浜が交互に現れます***。
 小網代湾の南に突き出た長さ約1kmの細長い半島も、頂部は台地面(三崎面)となっており、リゾートホテルやマリンパークなどの観光施設が立地しています。この半島の南に食い込む湾入は油壷湾で、国土地理院の験潮場があります。
見にウォーク(5b)では、油壷験潮場を見学します。

mitohama_topo
三戸海岸付近の地形図画像

mitohama_photo70s
1970年代の空中写真

mitohama_landcon
地形分類(土地条件図)

*   学校の夏休み期間は、地域によってかなり違うので、季節感は補正して読んでください。

** NHK少年ドラマシリーズについては、充実した情報サイトがいくつもあります。この記事ではここを参照しました。本ブログでも、2011年6月の記事『東北地方太平洋沖地震/東日本大震災 (3) 須知徳平「三陸津波」』で言及しました。

***岬先端部の崖下は足場が悪く干潮時でも歩いて通り抜けることは不可能です。

home



2012年07月12日

  田坂虎之助が留学していたころ、普墺戦争(1866)でオーストリア帝国を破り、普仏戦争(1870〜1871)ではナポレオン契ぁ船僖蝓Ε灰鵐潺紂璽未離侫薀鵐垢鯒砲辰織廛蹈ぅ札鷁国は、スイス、オーストリアを除くドイツ語圏を統一してドイツ帝国(1871〜1918)を成立させました。王国の首都だったベルリンは帝都となり、人と財が集中し「バブル時代」を迎えていました。中央集権国家の建設を急いでいた日本は、測量地図技術を含め、そのお手本を当時の戦勝国ドイツに乗り換えたわけです
 (2)からの続きです。

 「バンベルヒ」か「バンベルク」か。現在の標準ドイツ語では、 Bamberg の語尾 -g は「ク」と発音すると教えられます。例えばドイツ南部バイエルン州の Bamberg という街は、地図の注記やガイドブックでは「バンベルク」と記されています。

 低地ドイツ語(Niederdeutsch)というドイツ語の「方言」があって、ドイツ北部からオランダ東部にかけて広く話されています。分布域内にあるラジオブレーメンのインターネット放送で低地ドイツ語で話されるニュース番組を聴くと、語尾 -g は 「ヒ」と発音しているようにも聞こえます。一方、カールバンベルヒ社のあったベルリンで話されるのは、ザクセン州などで話される東中部ドイツ語(Ostmitteldeutsch)に属する「方言」で、その分布は低地ドイツ語域に半島のように張り出しています。ザクセン州の商都 Leipzig は、日本では「ライプツィヒ」「ライプチヒ」などと表記されています。

Deutschland
 地図:ドイツ全図.
 Webサイト「白地図専門店」提供の図から作成しました.


 この話を伺ったのは、2007-2008年にオランダITC(The Faculty of Geo-Information Science and Earth Observation)に留学され、現代の測量・地図について学んで来られたNyさんからです。オランダ語にも堪能なNyさんによると、低地ドイツ語の綴りや発音は、標準ドイツ語よりオランダ語や英語にも近いという印象を持たれたそうです。語尾 -g は英語では「グ」ですが、オランダ語では「ヒ」に近いものがあり(「ヒ」そのものではないのですが)「ク」とは決して読まなかったとのこと。

 1870年代の帝都ベルリンは、ドイツ国内だけでなくヨーロッパ中から人や物や文化が集まる「世界都市」となっており、東中部ドイツ語や低地ドイツ語だけでなく、いろいろな言葉を話す人々がいたはずです。明治時代にドイツに学んだ先達は、現地で話されている多様な言葉を聴き、その発音を書き取ったうえで、「バンベルヒ」(あるいは「バムベルヒ」)という表記を選択したものと思われます。
 医学でもそうですが、明治時代にドイツから導入された科学・技術の用語は、事実上の日本語として定着しました。それらの表記が、海を越え、時を越えて当時のドイツで話されていた言葉の音声を伝えているのだとすれば、なんと素晴らしいことではないでしょうか。そう思ってあらためて「カールバンベルヒ」と発音してみれば、当時の最先端だったドイツ文化の空気さえ感じられます。

<参考文献>
西田文雄(2010):カールバンベルヒかカールバンベルクか?.国土地理院広報第508号.
山田 明 (2007):『剱岳に三角点を!』.桂書房.

(おわり)___script by jmchako.

  陸地測量部の柴崎芳太郎測量官が三角測量のため剱岳に登頂したのは、1907(明治40)年7月28日です(撰点は生田信測夫が登頂した7月13日)。当時の登山装備では標石を山頂まで運べなかったため、剱岳の位置と高さは、周辺の山々に置かれた三角点から測量されたものの、三角点標石を埋設することができませんでした。YmamadaTSURUGI
 2004(平成16)年8月、国土地理院は剱岳山頂に三等三角点を埋設し、現代の技術であるGPS測量などによって山頂標高2999mを得ました。この数値は、約百年前に柴崎測量官らがカールバンベルヒ三等経緯儀を使って得た標高値とほとんど同じでした。

[地図センターHomePage]



jmcblog at 15:00 
コラム 

2012年07月10日

  昨年(2011年)秋に亡くなられた作家・北杜夫さんは、少年時代から昆虫が好きで、いくつかの作品のなかで、作者がモデルとおぼしき主人公の想いを象徴させるように昆虫を登場させています。また、そのものずばり『どくとるマンボウ昆虫記』(1961)という著書もあります。北さんが学ばれた東北大学では、理学部自然史標本館で4月28日から6月17日まで(すでに終了しましたが)『追悼・北杜夫 どくとるマンボウ昆虫展』が催されたことを、地図センターのメールマガジンで5月頃にお知らせしました。この展示会では、北さんが採集された昆虫標本や、使用されていた採集用具などが展示されたそうです。

Dr_Mambow_s
 北杜夫『どくとるマンボウ昆虫記』
 新潮文庫,昭和41年発行.カバーデザインと解説は串田孫一.

 『どくとるマンボウ昆虫記』は、いわゆる「どくとるマンボウ」シリーズのエッセイ集であすが、昆虫に関する博物誌としても十分に価値の高いものといわれます。その最初の章では、いろいろな蒐集家の行動が面白おかしく描かれています。何に取り組むにしても、先ずその対象を観察または採集・蒐集し、名前を付け分類することから始まります。
 少年少女時代に始めた蒐集も、途中で興味を失ったり体力的に息切れがして続かなくなるひとも多く、中には投機的な方向に進むひともいますが、好奇心と想像力を持続させ、その関係の職業に進んだり、アマチュアながらプロを凌ぐような貢献をなすひともいます。
cover478
  このブログの読者は、多かれ少なかれ、機会をみつけては地図を集めている方も多いのではないでしょうか。地図センター発行の地図中心』通巻478号(2012年7月号)は、地図蒐集家を特集しました。題して「お宝発見!地図コレクターの世界」。同誌に連載中の2つのシリーズ、鈴木純子さんの「絵葉書の地図コレクション」、山下和正さんの「古地図ワンバイワン」。この2つの連載が、双方ともこの号でちょうど第100回を迎えたことから、これを記念して企画しました。

 2つの連載では、歴史的に貴重な資料や面白い地図がカラーで紹介され、これを楽しみに定期購読されている読者も多数おられると思います。連載の著者である鈴木さん・山下さんに加えて、井口悦男さん・清水靖夫さん・富原道晴さんら、『地図中心』誌でおなじみの、大の地図好きの方々に集まっていただき、地図センター参事役で地図コレクターでもある長岡正利の司会により、地図収集の楽しみについて語り合っていただきました。対談記事は、まさに談論風発。「もっと凄い話もあったのでは?」と想像しながら行間を読む楽しみもあります。

 この特集に登場する地図コレクターは、座談会出席者のほか、蘆田伊人さん、岩田豊樹さん、大塚隆さん、大矢雅彦さん、中村拓さん、藤本一美さん(50音順)です。いずれも、地図学や地理学の分野で、十分に実績を築いておられる方々なのですが、その好奇心、想像力、そして何よりも行動力には、全く敬服してしまいます。

地図センターHomePage
mailtt



2012年07月05日

 「カールバンベルヒ」か「カールバンベルク」か?ドイツ語のカタカナ表記について、測量史に詳しい2名の方から貴重な情報が寄せられました。今回は、その主旨を紹介したいと思います。 (1) からの続きです。

 わが国の主な公的機関においては、ドイツ由来の機器すべて「カールバンベルヒ」と表記しています。

 (1) 国土地理院(地図と測量の科学館)では、展示機器等の説明書きで「カールバンベルヒ」と表記。

 (2) 国立天文台では、天体観測機器について「カールバンベルヒ子午儀」「カールバンベルヒ経緯儀」と表記。

 (3) 国立科学博物館では、展示機器について「カールバンベルヒ子午儀」と表記。document

 国立公文書館に保管されている、ドイツの測量機器購入に際して書かれた1881(明治14)年1014日起案の公文書(図)には、「ベルリン府中リーニエン町五十八番地 カルルバンベルヒ発売」と住所と発売元が記されています。この器械購入文書の起案者は、後の初代陸地測量部長となる小菅智淵で当時、測量課長のときの直筆です。

 また、測量機器ではありませんが、航空機に搭載する羅針盤購入に際しての文書(1926)では「大正15212日 陸軍省陸軍航空本部起案 総予備兵器使用の件 羅針盤バンベルク三号型」など羅針盤を「バンベルク」としています。
 一方、寺田寅彦(1878-1935)は、
1909(明治42)年5月から1年半、ドイツのベルリン大学に留学して地球物理学を学び、ヘルメルト博士の「地球の形」の講義を受けています。1935(昭和10)年9月に東京朝日新聞に発表した随筆『小浅間』の中で「バムベルヒの天頂儀」と書いています。

 

 ドイツ文学者・ドイツ語研究者の石原あえか東京大学教養学部准教授は、2009(平成21)年4月から1年間、ドイツの光学機器メーカーであるカールツァイス社の創業地イェーナ(「イエナ」とも表記)のフリードリッヒ・シラー大学に研究滞在し、ゲーテと測地学について調査しています。帰国後に出版された著書『科学する詩人ゲーテ』(慶應義塾大学出版会2010)の中で、Carl Bambergを人名、社名とも「カール・バンベルク」と記しています。

 どうやら、ベルリンに滞在または交渉した測地学・地球物理学の関係者が「カールバンベルヒ」を使用していたことが伺えます。

 情報を寄せてくれたNsさんは、後世の日本の測地学に大きな影響を与えた田坂虎之助(1850-1919)によるところが大きいと話していました。前回でも言及しましたが、田坂は、測量地図作成を学ぶため長期に渡るドイツ留学(18711883年)を陸軍省から命じられ、ベルリン大学で測地学、天文学等を学んでいます。大学の所在地ベルリンの方言、あるいは大学生活の中で、日本人には「・・ヒ」と聞こえる発音する人物から強く影響されたのではないか、ということです。
 もうひとかたの情報については、次回に書きます。
___script by jmchako
(3) へつづく)

地図センターHomePage



jmcblog at 11:00 
コラム 

2012年07月02日

 2009年に公開された映画『劔岳 点の記』のなかで、陸地測量部の測夫・生田 信(いくた のぶ)役の松田龍平さんが、真鍮製の測量器を点検している場面がありました。この測量器は、当時の陸地測量部でよく使われていたドイツ・カールバンベルヒ社製の経緯儀です。
theod

  わが国の近代的な測量網の骨格は、ドイツ「カールバンベルヒ(Carl Bamberg)社製」測量器によって測量されました。一・二・三等三角測量では、それぞれ「カールバンベルヒ社製」一・二・三等経緯儀が用いられ、一等水準測量も、同社製の一等水準儀によって実施されました。国土地理院の地図と測量の科学館でこれら経緯儀等の優美な姿を見ることができます。
  
 それまで日本の測量は、海軍のオランダ式(幕末期)測量やイギリス式(維新後)測量、北海道開拓使のアメリカ式測量、工部省のイギリス式測量、内務省のイギリス式およびアメリカ式測量、そして陸軍のフランス式測量がそれぞれ採用されていました。しかし、測量機関は徐々に統合が図られ、残る内務省の測量も1884(明治17)年に陸地測量部の前身である参謀本部測量局へ、人・器材・予算とともに統一されました。 
 
 陸地測量部は、近代的測量を開始するに当たって、1871(明治4)年から12年間、ドイツ帝国(当時)の測量事業と三角測量事業を習得した田坂虎之助(1850-1919・広島藩生まれ)にその指導を託しました。当然、ドイツ方式の測量が取り入れられ、測量器も新たにドイツ製のものが多数購入されました。地図においてもフランス式の「多色図式」からドイツ式の「一色線号式」に変更されました。早速、田坂は測地測量の作業指針である「三角測量方式草案」を作成し、これに基づき全国測量が開始されたのです。 
 
 さて、最近、この測量器の製造社名"Carl Bamberg"は「カールバンベルヒ」よりも「カールバンベルク」と表記する方がよりが正しい、という指摘があります。これはドイツ語の「母音+g」は「ヒ」と発音するが「子音+g」は「ク」と発音するからというものです。いろいろ資料を調べて見ましたが、陸地測量部が作成した資料では、すべて「ヒ」と記してあり、例外はありません。12年間ドイツに滞在した田坂であってもカナ文字に表現する際に苦労があったのか・・・。因みに「醤油」は英語で「ソイ(soy)」、「人力車」は「リクショー(rickshaw)」・・・とか。言葉も母国を離れると発音が変わるようです。最初、影響力の強い人が日本語表記したものが、その後、慣用的に広く、長く使われてきた例はこのほかにもいろいろあるかも知れませんね。
__Script by jmchako( (2) へつづく)

地図センターHomePage

jmcblog at 16:00 
コラム 
記事検索