2012年06月

2012年06月28日

 (財)日本地図センターは、国土地理院による災害復興計画基図(DMデータ)のオンライン刊行を行っています。

 災害復興計画基図は、2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震による災害(東日本大震災)からの復興計画や新たな街づくりの計画に用いることができる基図(いわゆる「白地図」)で、同年の5月から9月にかけて撮影された空中写真から道路や建物、地形等の地図情報を読み取り、現地調査で確認をした上で作成した詳細な地図です。

  公共測量標準図式に則り、交通施設、建物、土地利用等のほか、仮設住宅やがれき集積地、休止中の公共施設等が、縮尺1/2,500(福島県沿岸部の一部は縮尺1/5,000)で表示されています。さらに3月11日地震に伴い沈降などが生じた場所の等高線(2m間隔)や津波による湛水域も描かれているので、新たな防災対策にも有用です。

 災害復興計画基図の作成範囲は、青森県八戸市から福島県いわき市にかけての沿岸部、4県39市町村の、津波被災区域・都市計画区域(約5千平方km)です。
reconstructionmap
 整備範囲(国土地理院広報から)

  なお、この製品には表示ソフトは添付されません。GISユーザー等のプロ向け製品ですのでご注意ください。また、刷地図としては刊行しておりませんが、電子国土Webによる閲覧サイトがあります。ご利用ください。

地図センターHomePageci-rogo



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商品紹介 | 防災

2012年06月15日

 つくば研究学園都市へは、多くの人々が訪れていますが、注目度が高いのは、JAXA筑波宇宙センター、地質標本館、そして地図と測量の科学館でしょう。cover477
 地図中心2012年6月号通巻477号)の特集は「地図と測量のサイエンス」。地図と測量の科学館を中心に6月3日測量の日と併せた内容です。

 国土地理院の構内にある地図と測量の科学館については、読者はすでによくご存じとは思います。国土地理院による常設展示施設として、1996(平成8)年6月に開館しました。地図を収集し所蔵する資料館としては、それまで岐阜県図書館 世界分布図センター(現・郷土・地図情報担当)がありましたが、地図作成に欠かせない測量と併せた展示館としては、日本ではじめてのものです。
 
 2階まで吹き抜けの入口ホール(ラウンジ)の床面には、日本列島空中散歩マップ(縮尺1/10万の日本地図)が敷かれていて、その上を歩いて見ることができます。十分に清掃されているので、座り込んで見入っているひともいます。専用の赤青メガネで見ると地形が立体的に浮かび上がってきます。

 2階には測量・地図の歴史や、地図とくらしとの関わり、いろいろな測量機材などが揃う常設展示室と、企画展などを行う特別展示室があります。

 屋外展示地球ひろばは、直径2mに切り取った球面上に1:20万地勢図の画像を貼りつけた日本列島球体模型、空中写真撮影に活躍した航空機「くにかぜ」(初代)、三角点や水準点などのいろいろな標石などが、ひろびろとした芝生の間に展開しています。駐車場との間にある銀色の柱は電子基準点。これは一見すると展示品のひとつのように思えますが、「つくば3」と名付けられた現役の基準点で、てっぺんのレドームに内蔵されたアンテナは、測位衛星からの電波を常時記録し、国土地理院内の測地観測センターにデータを送っています。

 地図と測量の科学館は、いまのところ公式な「博物館」ではありませんが、多くの博物館と同様に、常時展示してある事物の他に、貴重な古地図類が特別収蔵庫に保存されています。古地図研究家としても国際的に知られている建築家の山下和正さんに、今回の特集号のため特別収蔵庫を取材いただき、収蔵されているいくつかの古地図について紹介していただきました。

JICA_participants2011
 国土地理院では外国からの技術研修員を毎年受け入れ、地図センターが研修の運営を担当していますが、平成23年度の8名の研修員の方々にお願いし、地図と測量の科学館の感想を書いていただき、その日本語訳を特集記事のひとつとして掲載しました。今たまたま日本人が教える立場にありますが、研修員は母国で選ばれた優秀な方々であり、彼ら彼女らの深い経験と知識に、こちらも教えられることは少なくありません。
 
 さて、展示をひととおり見学したら、休憩をかねて売店に立ち寄ってください。地図だけでなく地図を使ったガイドブック、地図学や地理学の入門書や専門書、地図記号手拭いなどのグッズが揃っています。

[地図センターHome] 

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地図中心 

2012年06月01日

 金星の太陽面経過では、地球人は金星の夜の側を太陽を背景に眺めていることになります。では仮に金星人がいたとして、彼らから地球はどこに、どのように見えているのでしょうか。ザッと計算したところ、地球時間6月6日の金星の夜空では、さそり座付近に順光の地球が見えていることになります。赤い一等星さそり座α星(アンタレス)のすぐ傍に青い地球が輝いているのですから、なんとも豪華な星空です。金星人が羨ましい!
[6月6日、末尾に追記しました]
(2) からのつづきです] 

金星観測の副産物としての経度測量
 金星観測は、世界の一大事業として取り組まれました。その副産物として世界各地の経度が測定され、サンフランシスコと長崎とウラジオストックとヨーロッパとがこのことによって経度の比較がおこなわれ、電信法による計時観測が世界を一周して結ぶことができました。この観測に間に合うようにロシア帝国はサンクトペテルブルクからシベリヤを横断して電信線をウラジオストックまで接続していました。一方、長崎は、1871(明治4)年にはウラジオストック(1400km)や上海(880km)が海底電信線で接続されていました。従って、長崎も東京も西欧と電信線で接続されたことになります。つまり、この時以降、日本各地の経度は遠くヨーロッパと電信法で比較できるようになった訳です。このことは、ただの天文学上の進歩にとどまらず金星経過観測は国際通信網の推進に期せずして大きな役目を果たしたと言えます。

それまでの日本図
 江戸期に精密な日本図の製作を成し遂げた伊能忠敬は、経度測量を行なうため、全国の測量に「垂揺球儀(すいようきゅうぎ)」という振り子時計を持ち歩きました。これは経度差の測定に用い1日の時間や日食、月食の始まりから終わりまでの時間などを測ったものです。さて、どのような原理で振り子時計を使って経度差を得たものなのでしょうか。
 地球は1日かけて一回転する極めて正確な時計です。この地球の上で我々は太陽を中心に営んでいます。たとえば太陽が我々のいる真上を通過(南中)した瞬間、これを正午と呼んでいます。これは、日本のどこに住んでいるかによって太陽が真上に来る時刻が異なりますのでそれぞれその時刻は微妙に違ってきます。忠敬は旅先でこの南中時刻から日食や月食などの天文現象が生じるまで、時計の振り子が何回振動したかを測りました。これは日本のどこにおいてもこの天文現象の瞬間を見ることができるからで、この現象を利用して大阪や京都でも予め予報に基づいて連絡をとりあい、この日を待って同じ測定を行いました。さて、この3地点の振動回数を比べるとその回数は異なった結果となります。この振動回数の差が経度差ということになります。1日の振動数も現地で測られていますが約59,000回あまりの記録があり、この間に地球が一回転しますので振り子の振動数1回当たりの角度が得られ、観測地点の経度差を角度で表すことができます。
 以上がその原理ですが、実際には忠敬の測量班出張期間中に13回しか日食や月食が発生せず、更に現地と大阪・京都の3地点の天候が同時に観測可能だったのがわずか2回しかありませんでした。このため伊能図の作成には役立てられなかったようです。
 しかしながら、このような方法で江戸・大阪・京都間の経度差は、多年の観測値があるため忠敬はこの値に基づいて、出来上がった地図上に経度線を引いたと推察されます。因みに1809(文化6)年「伊能忠敬幕府上呈の日本図」では経度線は「京師(京都)を中度とし東西に分かつ」とあり、京都より東西に各1度ずつ経線が描かれ、「東四度」が東京付近、「西五度」が鹿児島付近に引かれています。いずれも本格的な経度測量によってグローバルな経度が測量されるのは明治の近代測量開始まで待たなければならなかったのです。

長崎から東京の経度測量
 1874(明治7)年12月9日の金星観測終了後、デイビッドソン隊長は、長崎に引き続き滞留し天文士2名(チットマン、エドワーズ)を東京に差し向け、長崎・東京間の経度差を測量することにしました。これは、わが国がグリニッジを基点とした正確な経度を持っていなかったことや、電信による経度測量の技術に興味をもった柳大佐(海軍省水路寮長官柳猶悦)が懇願したもので、帰国を延期してデイビッドソン隊長は日本側の要求に応えました。この仕事は、まったくデイビッドソン隊長自身の好意であり、アメリカ沿岸測量局本来の業務ではなかったため、旅費・日当等は自弁でおこなわれたものでした。
 チットマンとエドワーズの両人は12月14日長崎を出帆し東京へ向かいました。観測場所は、東京麻布飯倉町の水路寮海軍観象台(写真9)構内が選ばれました。そこに従来からある石盤上に「煉化石」の仮小屋を建てて、ここを観測点としました。天体観測そのものは「晴天3日にて充分」とのことでしたが、長崎との電信交換のため、飯倉町観象台から赤羽電信局間に新たに電信架線が電信寮の手で接続されました。観測は12月20日から1月2日までの晴天7夜に時計信号の電送ができました。チットマンら2名は1月23日に横浜からサンフランシスコに向け帰国の途につきました。この観測点(経度点)は、チットマンに因んで「チットマン点」と呼ばれています。直ちにこの測定値は、翌1875(明治8)年1月9日の海軍初めの日に明治天皇に報告されました。venus10
 チットマンは、長崎のダビットソン点との間の経度差のみを測った訳ですが、地理局の観測した観測値やそののちマドラス・シンガポール・ケープ・セントジェーム・香港・廈門(アモイ)・上海・長崎と経度差測量で結んだ(図5)結果も加えられ、チットマン点の経度(グリニッジ東経)は、139°44′30″.30(1886年)とされ、参謀本部は、これを三角測量の計算原子としました。

日本経緯度原点
 現在、わが国の位置情報の原点となっている「日本経緯度原点(写真10)」は、チットマン点のわずか5.1m西に位置しています(図6)。これは、陸地測量部が全国の測量を開始して間もなく三角点に経緯度を与えるため経緯度原点を東京天文台の子午環(子午儀ともいい、天体望遠鏡の一種)中心と定めた(1892年)ことによるものです。このため、前述のチットマン点の経度は子午環の位置に計算され直され、日本経緯度原点の最初の経度値は139°44′30″.0970とされました。その後、経度値は1918(大正7)年に+10″.405修正された経緯があります。
venusFig6図6.チットマン点の位置.

 1923(大正12)年関東大地震による影響については、その差は少なく、実用上の見地から改正は行なわれませんでした。
 2002(平成14)年、世界測地系の採用により測量法が改定され、日本経緯度原点の経度数値が改定され、さらに2011(平成23)年には、東北地方太平洋沖地震の影響による大きな地殻変動が観測されたため、同年10月21日に次の数値に改定されました。

 経度 東経 139°44′28″.8869
 緯度 北緯  35°39′29″.1572
 方位角    32°20′46″.209
 (つくば超長基線電波干渉計観測点に対する値)

 日本経緯度原点の住所は、東京都港区麻布台二丁目十八番一地内で、国土地理院が管理しています。ここは、前述のとおり水路寮海軍観象台構内でしたが、1932(明治21)年に敷地と業務の一部を東京帝国大学理科大学東京天文台に吸収され、関東大震災ののち東京天文台が三鷹へ移転しました。このため、そこに東京大学理学部天文学教室(写真11)が残留しました。第二次大戦後、天文学教室が東京大学理学部三号館(文京区弥生)へ移転したあとには、国土地理院関東地方測量部の入った総合庁舎が建てられました。
 現在、同地域には「日本経緯度原点」の標石と説明の碑が建てられているのみで、当時を偲ぶものはなにも残っておりません。もちろん「チットマン点」の石盤なども見当たりません。
venus11写真10.日本経緯度原点

おわりに
 明治以来、日本の測地関係者の間では「チットマン点」という名が知られていました。しかし、この点が金星日面経過観測の副産物として産まれた長崎の経度値を用いて決められたことは忘れられていました。
 今世紀2回目の金星日面経過を機会に、宇宙への果てしない探究心と電信という新技術を利用してダイナミックな測量に挑んだ、世界から集まった人々の挑戦と友情に思いを馳せて見てはいかがでしょうか。 (by jmchako)

参考文献・Webサイト
斎藤国治篠沢志津代:金星の日面経過について-.東京天文台報,第16巻第1冊,第2冊
斎藤国治:『写真の開祖「上野彦馬」』産業能率短期大学出版部
原口孝昭:『明治7年の金星日面経過観測』平成10年度文部省科学研究費補助・奨励研究(B)報告書
国立天文台:Webサイト「
金星の太陽面通過」.

 6月6日が近づいてきました。今世紀最後の金星の太陽面経過です。次は2117年12月11日。くれぐれも太陽を直視しないよう遮光眼鏡やピンホールなどを活用して安全に観測してください。
 あっ、その前に6月4日夕刻の部分月食もお見逃しなく。

[6月6日追記]
 当日は、関東地方以北があいにくの天気でしたが、それでも雲のすき間から、太陽面を通過する金星を見たひとも多かったようです。
 さて、今年の日本から見える天体異変は、これで終わりではありません。8月に金星食があります。地球を追い越した金星は、見かけで太陽の西側に抜けていき、明けの明星となります。そして8月14日の夜明け前、月齢25.5の月がその前を横切り、金星が背後に隠されます。今度は安心して双眼鏡などで観察できます。

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