2012年05月

2012年05月25日

5月21日(月)の金環食、当日の天気予報は「全国的に雲が多い」でしたが、良い方に少しズレて、雲の晴れ間や薄い雲をとおして、多くのひとが観ることができたようです。なかには「注文していた遮光眼鏡が翌日に届いた・・」という事例もあったようですが、使う機会はちゃんとあります。6月6日(水)の金星の太陽面(日面)経過です。
(1) からのつづきです]

星取山に陣取ったアメリカ隊
venus3 ジョージ・デイビッドソン(George Davidson)博士(合衆国沿岸測量局次長:写真3)を隊長とするアメリカ隊一行8名は、大平山に陣取り、観測所を設けました。大平山からは、北西の眼下に長崎港を一望でき、大浦天主堂の尖塔も見えました。現在では星取山と言っていますが、この名は金星日面経過の観測を記念して改名されたもので、天体観測が地名として残っているのは全国でも珍しいことです。
 焦点距離42メートルの水平望遠鏡カメラがその主力で、隊員中には3名の写真師がいて撮影を担当しました。
 観測には、手が足りないためデイビッドソン夫人と長男も人員に追加され、記録掛や時計掛を受け持たされました。アメリカ隊らしい観測風景であったことでしょう。

日本人写真師も金星観測に参加
 venus4デイビッドソンの観測日記に11月6日の項に"Phot Uyeno commences today at 150 plates." という記載があります。アメリカ隊に雇われた上野彦馬(写真4:わが国初の営業写真館を開き、明治維新当時の坂本龍馬、高杉晋作、伊藤俊介(博文)、西郷隆盛などの血気さかんな志士、剣客たちを写した)が、この日150枚の湿板を作りはじめたと記されています。また、1878年出版のアメリカ隊の観測報告には「ナガサキのウエノ、第三助手写真師」とその名が記録に残されています。

星取山の観測機器
 写真5は、彦馬の撮影によるもので、星取山の山頂全体を使った水平望遠カメラの全景です。本装置は、左端の木小屋の前に運転時計と回照儀とレンズ(写真6)を組合せたものを置き、日光を常に水平右方向へ導き、画面中央の水平桿(焦点調整用)を通し写真右側の木小屋の写真暗室に導いています。暗室にはカメラ取枠部があり、ここに直径42センチほどの太陽がうつる仕組みになっています。また、左端の木小屋には経度測量のための子午儀(写真7)が整置され、夜間、星の観測を行なったものです。中央の三角小屋内には赤道儀が整置され、金星の接触時刻の眼視観測を実施しました。
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 写真5.星取山山頂の金星観測施設  写真6.水平望遠カメラの頭部

venus7写真7.デイビッドソン子午儀

アメリカ隊の金星観測
 ここでアメリカ隊の金星観測(写真8)の瞬間をデイビッドソン夫人が郷里にあてた手紙から1部紹介します。観測の様子を伺い知ることができるからです。venus8
 「・・・太陽は雲のうすいカーテンを脱ごうともがいていました。そして正に適時に雲を破り、そのとき突然夫が「commence(はじめ)」と叫び、私は飛び上がるほどビックリしました。これは室外の写真担当者に時刻到来を告げるためでした。数秒ののちデイビットソン氏はさらに喜びの大声をあげました。彼は『第1接触を捕らえた』と語り、私はそれを野帳に記録しました。それから私たちに僅かの間望遠鏡をのぞかしてくれ、また観測をつづけるうち雲がきて邪魔をしました。約30分経って第2接触の際どい時刻が迫りましたが、天候もだんだん悪くなってきました。しかし、再び太陽はうまい時期に顔を出してくれて、第2接触もノートしました。第1接触は10:24ごろで、その後最終触は3:10ごろの予定でした。そこで第2触の終わったあとは大分におしゃべりなどの時間がありました。第2触ののちすぐに雲が掩ってきて、ときどき僅かに太陽を見ただけで、午後3時に近づくにつれて雨雲になって、第3触を捕らえる望みは薄くみえました。予定時刻の直前に太陽の通りみちにあるすべての小さなうすい雲の孔を心配気にみつめながら、みなは部署についていました。そして第3触も観測されました。そのあと太陽は厚い雲の土手に没しました。間もなく空は太陽の意気地ない退却にたいして涙をこぼしはじめました。かくしてこの大きなイベントは終わりを告げたのです。」
 アメリカ隊は、この観測で金星経過写真を150枚ほど撮る計画で用意していましたが、当日天候が薄曇りであったため、結局、金星が写っていたのは50枚だったといいます。
 しかし、残念ながら、この大きなイベントを記録した貴重な観測写真は、現在のところ日本にもアメリカにも1枚として見当たらないということです。

経度差の観測
 デイビッドソンは、金星観測に先立ってウラジオストックと長崎間の経度差を観測しました。これは金星と地球間の距離を求めるために地球上の2地点間の基線を正確に求める必要があったからです。このためには、できるだけ正確なそれぞれの経緯度を求めることが重要でした。
 当時、経緯度の観測には、星々の南中高度や時刻を測定したり、月の運行を観測したりしていました。これをより高い精度で決めるため、各観測隊は、現象が起こる2〜3カ月も前に来日して星々や月の観測に励んだのです。
 ところが、アメリカ隊は、従来のこうした観測に電信を使う方法(電信法)を取り入れ、これまで以上の精度で経度を決定することを試みました。すなわち、長崎とウラジオストックで同じ星々の南中時刻を測定し、電信を使ってその結果を交信しました。つまり、2地点のそれぞれの時計を電信で合わせておいて、同一星の子午線通過の時刻を両所で測定すれば、測定時間差がすなわちウラジオストックから長崎の経度差になるわけです。ウラジオストックの経度が分かれば、この観測で得られた経度差を加えて長崎の経度が求められることになります。
 日本政府としてはその意義も目的も恐らく理解できなかったにちがいありません。そこで政府は、お雇い外国人の一人アメリカ人デイビッド・モルレーにそのことについての解説をもとめています。モルレーは数学・天文学を修めた学者でした。
「・・・電信法ノ利益ハ、第一ニ容易、第二ニ精密ナリ。夫レ経度ヲ求ムルニ電信を交替スル事僅かに3晴夜ナル時ハ、一百年間太陰ヲ視測シテ得ル所ヨリモ一層精確ナルヘシ
と記しています。
 この電信を使った経度決定は、わが国で始めて行なわれたもので、海軍省水路寮や文部省の注目するところとなり、この技術は、その後の日本経緯度原点を確定する作業(図5)につながって行くことになります。
venusFig5図5.電信経度連結之図

(3)へ つづく]

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地図測量の史跡 

2012年05月21日

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 2012(平成24)年5月15日、沖縄県宜野湾市で、沖縄県と日本国政府との共催による、復帰40周年の式典が催されました。40年前の1972(昭和47)年5月15日午前0時、前年に日米で結ばれた「沖縄返還協定」が発効し、沖縄の施政権がアメリカ合衆国から日本国に返還され、沖縄県が誕生しました。

  寺島尚彦が作詞・作曲し、ちあきなおみや森山良子が唄った『さとうきび畑』という歌があります。歌詞にあるように、第二次大戦では本邦唯一の地上戦が行われ、沖縄島南部を中心に多数のひとびとが亡くなりました。戦後は米軍施設が集中的に造られました。1960年代から一部が徐々に返還されていますが、日本国土にある米軍施設の数としては、むしろ沖縄県への集約が高まっています。

cover_476 『地図中心』5月号(通巻476号)の特集は「戦中戦後の沖縄住民の戸惑いと復興」です。沖縄を語るうえで無視することができない第二次大戦における地上戦や戦後の米軍施設などについて、地図を読み解きます。
 たとえば、普天間飛行場の問題がマスメディアによく採り上げられますが、それが沖縄のどこにあり、以前には何があって、ひとがどのような生活をしていたのか、という視点の報道は少ないようです。
 地理学や地形学の研究者の方々に、戦前の沖縄の景観、沖縄戦の状況などを、GISを使って客観的・具体的に明らかにしていただきました。これらを後生に伝えていくことは、地理空間情報に関わる私たちの義務なのでしょう。
  IMGP0862ssシーサーがいる家

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地図中心 

2012年05月18日

  • venusFig1
    2004年と2012年の日面経過位置(理科年表から)

    天文異変
     本年(2012)5月21日に、日本列島の九州南部から四国〜東海〜関東〜東北南部にかけて金環食がみられることが、全国的な話題となっていますが、6月6日にも金星の太陽面経過(日面経過)という天文異変があることをご存知でしょうか。日本では午前7時頃から昼過ぎにかけてこの現象が見らます。
     この現象は珍しい現象で、前回は2004(平成6)年6月8日に、日本でみえる日面経過では、前々回は1874(明治7)年12月9日に起こりました。明治時代が始まったばかりのこのときには、世界各国から天文学者等が観測条件の良い日本に訪れ、科学的な業績を持ち帰りました。維新直後の混乱期にあったものの、日本政府は、金星日面経過観測の終了を待ってアメリカ隊に経度原点の決定を依頼し、東京に日本最初の経度原点(チットマン点)を設けることができました。このエピソードについて3回に分けて紹介します。

金星観測

venusFig2 水星も金星も地球の内側の軌道を回っている惑星なので、太陽と重なって見えることがあります(図2)。これが金星の太陽面通過とよばれる現象です。
 このような現象は、ごく稀に起こります。20世紀では見られない現象でしたが、今度はわずか8年の間をおいて2度のチャンスがやってきます。2004年6月8日と2012年6月6日の2回です(図1)。これを見のがすと2117年まで見ることができません。
 この金星日面経過観測の目的は、地球から金星までの距離、ひいては太陽までの距離である「一天文単位」の長さを決定することにありました。これらは、ハレー彗星で有名なエドモンド・ハレー(1656 - 1742)がこの提言を発表していました。

ハレーの提言
 ハレーは「地球の南北両半球上ほぼ同じ経線上の2点から金星の太陽面経過を観測すると、2点から見る方向のちがいで、太陽面に投影された金星は少し上下にずれて見えるであろう。このズレが「視差」であって、この量を測ることによって金星までの距離が求められる。」と提言しました。つまり、地球大の基線長を利用した金星との三角測量を行なうということです。
 
続々と各国から日本に
 130年前の日本は、明治新政府が産声を挙げたばかりで、まだ国の方向が定まらず、九州では西郷隆盛が征韓論に破れ下野した翌年に当たります。また、江藤新平が佐賀の乱を起こした年でもありました。このように混乱した日本へ、金星の日面経過の瞬間を待ち望んでいた欧米諸国の観測隊が、地球上の観測条件の良い地点の1つとして日本を選び目指しました。
venusFig3 金星が太陽面を経過するには「進入」から「退出」までに4時間半ほどの時間がかかります。その全経過が見られるのは、東経135度前後の経度帯に含まれる地域に限られ、日本は観測には絶好の位置にあったのです。ハワイでは進入しか見られず、カイロでは退出しか見られませんでした(図3)。だからこそアメリカ・フランス・メキシコから万里の波濤をこえて観測隊がはるばる日本国に到来したのでした。

観測隊の入国許可
 受け入れ側の日本は開国して日も浅く、明治政府の要人たちは観測の意図がよく飲み込めませんでした。「測量のための入国要請」には神経をとがらせたらしく、時の政府閣僚の太政大臣三条実美、内務卿伊藤博文、外務卿寺嶋宗則、海軍卿勝安芳(海舟)、文部卿木戸孝允等は純粋に自然科学探求のための入国要請であることを理解するまでに時間を要したようです。まさに「科学における黒船」でしたが、明治政府は観測隊の入国を許可し、この壮大なスケールで展開されたプロジェクトに対し海外からやってきた天文学者を手厚く迎え入れました。


国際電信網に結ばれていた長崎
 フランス隊・アメリカ隊は、長崎を観測地点に選定しました。これは、1871(明治4)年に上海〜長崎、ウラジオストック〜長崎の海底ケーブルが早くも敷設され、我が国で初めて国際電信業務を開始していたことを考慮し選定したものです。天文観測を行なうには、世界と結ばれた正確な時計が必要で、開国まもなく国際電信網に結ばれた長崎は適地であったのです。

フランス隊の記念碑
 フランス隊はJ.ジャンサン(Jules Janssen:パリ経度局)、ティスラン(トウールーズ天文台長)を主任とした一行8名が来日し、 長崎市内の金刀比羅山の前山に布陣しました。現在、金刀比神社の近傍に残るピラミッド型の観測記念碑(写真1)は、このときの観測を記念し、ジャンサンが長崎在住の大工棟梁に依頼し建てたものです。
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写真1 フランス隊が残した観測記念碑
 1993(平成5)年、この記念碑から東の地点で観測台が発見され、長崎県の史跡に追加指定されました。この観測記念碑正面には、フランス語で「VENUS(金星)通過を観測したのはこの位置である。1874年12月9日、観測者フランス天文学者ジャンサン、パリ科学会会長・・・(隊員の名)」と刻まれています。130年以上の櫛風沐雨に碑は苔むし風化がはなはだしく、文字もやっと読める程度で、他の3面は素人での解読はなかなか難しいようです(写真2)。興味のある方は、解読に挑戦してみてはいかがでしょうか。

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写真2 記念碑の正面(左)と西面(右)


記念碑を造った棟梁
 高さ2メートルほどの四角錐の巨大な石の塔は、地元の大工の棟梁、山田與四郎が、ジャンサンから文部省をとおし請け負い建設したものです。“碑を大至急つくってくれ”という急な仕事で約半月かかって完成させています。山田は寝食を忘れ仕事に没頭したことが家族によって断片的に言い伝えられています。記念碑を造った岩石を、どのようにして山頂まで運び上げたものか。当時は道もなかっただろうし、観測のための道を造ったとしても小さなものだったに違いありません。
 しかし、その苦労の甲斐があり、山田がジャンサンから受け取った報酬は、その当時の長崎では家が2〜3軒建つ程度であったそうです。あまりの高額なため、虎の皮の敷物をジャンサンに贈呈したという、更にそのお返しとして、山田はギヤマンに入ったぶどう酒を2本もらい、家宝としてこのギヤマンが山田家に残されているというエピソードが、長崎新聞や雑誌(長崎手帖22号)に掲載されました。外国人居留地があり、貿易商も出入りしていた当時の長崎ならではの話です。

(2)へ つづく]

 金星観測と経度についての話題は、このブログで2009年11月に『わが国の経度のはじまり』と題して一度簡単に紹介しましたが、今回の金星の日面経過の機会に、やや詳しい話を紹介していきます。

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地図測量の史跡 

2012年05月11日

ゴールデンウィークも過ぎ、年度の仕事や学業は早くも前半の山場にさしかかっています。仕事や学業の追い込みにお疲れ気味の方におすすめしたいのがここ数年静かなブームになっているパワースポットです。さあ、気力アップのためにさっそく出かけましょう。今回紹介するのは、東京都心にある意外に険しい山〜愛宕山です。モデル・ルートは、次のとおりです
 

都営地下鉄大門駅〜芝大神宮〜愛宕トンネル〜愛宕山(男坂・女坂)〜愛宕神社〜NHK放送博物館

【歩行距離】約4Km  【歩行時間】約2時間 
 

都営地下鉄大門駅A6出口を出てすぐに右折し、路地を入った左手に芝大神宮の大きな鳥居が見えます。芝大神宮の御祭神は、大照大御神と豊受大御神の二柱。伊勢神宮の神様をお祀りしているので「江戸のお伊勢さま」と、将軍家から江戸の庶民まで尊崇をあつめ、おおいに賑わったそうです。縁結びで有名な「千木筥(ちぎばこ)」は檜の曲物で藤の花が描かれた函です。このお守りのご利益は「千木」と「千着」をかけ衣装が増えますように、箪笥に入れて置きます。さらに女性の幸せ全般に効果があり、良縁に恵まれ幸せな結婚ができるという有り難い縁起物のお守りなのです。しかも、最近女性週刊誌に紹介されたそうで、女性参拝者が絶えません。

芝大神宮千木筥
芝大神宮(左)、千木筥(右)

 芝大神宮を後に細い路地を新橋方向に進んでゆくと、思わず食欲をそそられる飲食店が点在しています。ここはひとまず我慢してお帰りの楽しみにします。日比谷通りを越え、愛宕下通りを進み愛宕神社前交差点に差しかかると見えてくるのが、愛宕隧道(あたごずいどう)です。東京23区内で自然の山を掘り抜いた唯一の山岳トンネル、と国土交通省関東地方整備局の広報誌で紹介されています。記念に写真を撮りました。さて、愛宕山を目指します。
愛宕トンネル愛宕隧道銘板

愛宕隧道



 世の中には、実際に目にしなければ本当のすごさが分からないものが、たくさんあります。麓に着くと同時に感じられたのですが、愛宕山に登るための「出世の階段」(別名「男坂」)の急勾配も間違いなくそのひとつに数えられるでしょう。傾斜角は37°、86段で踏面もせまく、踏み外すと危険なので両側に石造手摺、中央に鎖の手摺が設置されています。「こ、これは・・・」と思いましたが、せっかくここまで来たのだから由来のとおり「きっといいことがあるはず」と思いなおして登り始めます。正直30段目くらいで「あー!来なきゃよかった」と後悔しつつ、もう一段、さらに一段、また一段・・・
男坂女坂
男坂(左)、女坂(右)

やっとの思いで山頂の愛宕神社です。境内は、都会の喧噪とは一線を画すような雰囲気に包まれていました。ここが山頂だとは思えないほど平らで、どの場所も整然ときれいに保たれていることに驚きました。大国主命を祀る大黒天社、猿田彦神を祀る太郎坊社、美しい市杵島姫命を祀る弁才天社と池などもがあり、こんとんと沸き出す水の清らかな音を聞くだけでも、この場所を訪れる価値が十分にあります。
愛宕神社弁天池
愛宕神社(左)、弁才天社と池(右)

三角点三等三角点「愛宕山」

愛宕山(海抜26メートル)自然の山として都区内随一の高さを誇り、桜と見晴らしの名所として、江戸庶民に愛され数多くの浮世絵にもその姿が描かれています。明治元年には勝海舟が西郷隆盛を誘い下の写真のような眺めの山上で、江戸市街を見わたしながら会談し、無血開城へと導いたのでしょう。鉄道唱歌にもその名が唄われ、春は桜・夏の蝉しぐれ・秋の紅葉・そして空気の澄んだ冬景色と、四季折々の顔を持つ風光明媚な愛宕山は、都心でも自然の息吹を直接体験できる貴重な場所です。散策中に三角点を発見し、思わずパチリと写真を撮ってきました。
慶應元年
撮影場所
明治元年の愛宕山からの眺め(左)とその撮影場所(右)
放送博物館の展示から

ここには調和のとれた世界がありました。癒しのパワーと出世の王道「男坂」を登ってエネルギーをもらい、七福神の大黒様と弁財天様さらに猿田彦様までいらっしゃるのですから、多彩な恩恵で出世できるというのもうなづける気がします。

放送博物館テレビジョン
NHK放送博物館入り口(左)と展示(右)

 最後にNHK放送博物館に向かいます。世界初の放送専門の博物館として1956(昭和31)年に開館しました。日本の放送が始ってから80余年、ラジオからテレビへ、さらに衛星放送、ハイビジョン、そして昨年からデジタル放送へと大きく進歩・発展してきました。“放送のふるさと”愛宕山は靜かにその歴史を刻んできました。博物館の展示を見ているだけでも、昭和〜平成への時代の流れを感じられます。この博物館は入場無料です。お得な感じのするウォークでした。
旧版地形図T8

(Photo & Report by jmchashi)

03-6 時層地図
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