2011年08月
2011年08月19日
墨東( 旧・寺島町)を歩く(後編)
江戸 〜 東京の街歩き。NHKの人気番組『ブラタモリ』もその興味のなかで視聴したひとも多いと思われます。しかし、そこはタモリ氏、単なる懐旧趣味に陥ることなく、街路を這いつくばり坂をよじ登って見出す高低差から、江戸〜東京の地理的な成りたちに迫っていました。
前回に引き続き、永井荷風『墨東綺譚』(原題で「墨」は、さんずい辺に墨の旧字体、以下同様)をベースに、作者の永井荘吉氏(荷風)と主人公の大江匡氏との3人連れの散歩を続けましょう。
[東向島(旧・玉の井)](承前)
大江氏は、東武鉄道玉の井駅の少し北千住寄りで線路と交差している土手に夏草をかきわけて登り、街並みを見下ろします。この土手は、刊行前年の1936(昭和11)年に廃止された京成電気軌道(現・京成電鉄。以下「京成」)白鬚線の築堤跡です。
崩れかかった石段の上には取払われた玉の井停車場の跡が雑草に蔽われて、此方から見ると城址のような趣をなしている。
梅雨期に雑草に蔽われた場所では蚊に襲われはしないか、という野暮な詮索はさておき、ここで言及している「玉の井停車場」は、京成白髭線にあった、もうひとつの玉の井駅です。廃墟や城跡は、ひとを惹き付けるものがあります。主人公を先ずここに登らせたのは、小説の舞台となる街を俯瞰することが目的でしょうが、同時にこの作品の基調となっている過去の風物への郷愁をいっそう喚起する意味合いもあったのかも知れません。
東京から千葉県北部に路線網を持つ京成は、東武の浅草雷門への乗り入れと同じ年に、青戸から分岐する別線で隅田川に架橋し、上野に乗り入れます。東武、京成の両社が、渡河に至るまでの試行錯誤の跡は、地図にも表れています。
京成白鬚線は、1928(昭和3)年に当時のターミナル押上駅から2駅目の向島駅(今はない)で本線から分岐し、隅田川左岸(東岸)の白髭神社付近まで開業した路線でした。1947(昭和22)年発行の1:25,000地形図「東京首部」では鉄道路線は修正の対象になっておらず、すでに無い京成白髭線の表示がそのまま残っています。下り向きに分岐しており、白髭橋を渡った対岸にある、同じ軌間( 1372 mm )の王子電気軌道(現・都電荒川線)は郊外をむすぶ路線であり、はたして都心乗り入れを意図した路線だったのかどうか判然としませんが、みるからに半端な区間です。
荷風のもうひとつの代表昨『断腸亭日乗』によると、小説の取材のために玉の井を頻繁に訪れるのは1936(昭和11)年になりますが、その前にも何度かこの近辺を散策し、営業中の京成白髭線も目撃しているハズです。高い建物が少ない当時、築堤を走る白髭線の視覚的な存在感は大きかったに違いないのですが、『日常』にそれらしい記述はありません。
京成玉の井駅跡から隅田川河畔にかけては、江戸時代に設けられた民間庭園で現在は東京都が管理している向島百花園、古い太陽神とみられる猿田彦命を祀る白髭神社など、向島の歴史を伝えるスポットがあります。旧町名「寺島」は、小学校の名に残っています。一方、東へ水戸街道との間にかけては、かつての畦道をそのまま路地にしたような迷路のような街並みで、昭和戦前期には私娼街だったそうです。この街を取材しながら荷風が描いた手書きの地図が『断腸亭日乗』に掲載され、さらにそれを基に挿絵画家が描いたと思われる地図が『墨東綺譚』に載っています。
築堤を降りた大江氏は、この迷路に踏み込んですぐ夕立に遭い、傘をさしたところに若い女が飛び込んできて『奇譚』の本筋が始まるわけです。ドブ川が匂い立ち、蚊が跋扈する迷路の街を背景に、そこに暮らす女神(ミューズ)のようなヒロインお雪さんと主人公との交歓を、荷風はわりと乾いた筆致で描いています。
玉の井の街の大半は1945年の空襲で焼かれ、今では平凡な下町ですが、迷路然とした路地のパターンは殆ど変わらず、一部の建物には歓楽街だった頃の面影が残っています。
東向島付近(1:10,000地形図「青戸」の一部に加筆)
[鐘ヶ淵]
伊勢崎線は東向島を出ると鐘ヶ淵に向かって高架から地上に降りていきます。京成白髭線跡を横切っているハズなのですが、築堤は跡形もありません。土地条件図をみると、付近の地形は埋土であり0mの地盤高線がみえます。地盤沈下に伴い、築堤を構成していた土は、周囲の地盤に埋没してしまったのでしょうか。
鐘ヶ淵の名は、「お寺の鐘を小舟に積んで隅田川を渡ろうとしたところ、舟が傾いて鐘が沈んでしまい・ ・ ・ 」、という由来だそうです。明治時代の殖産興業政策に沿って設置された鐘ヶ淵紡績工場の後身が、有名な化粧品会社です。
鐘ヶ淵駅構内は広く、片隅に大型の保線機械群が昼寝をしています。これとは対照的に狭い駅前には、6方向からの道が集まって踏切となっており、朝夕の交通事情が気になりますが、それぞれの道は適度に狭く、歩きやすい活気のある商店街となっています。
[堀切]
東武伊勢崎線は、鐘ヶ淵駅と堀切駅の構内でそれぞれ急カーブを描き、その間は荒川の堤防に張り付くように走っています。1902(明治35)年開業時には、もっと緩いカーブで東側を回り込んでいましたが、荒川放水路(現・荒川)の開削(竣工は1930(昭和 5)年)によってつけ替えられました。河川敷では、天気の良い日には大勢のひとびとが散策したり運動したりしていますが、あまりに広大なため少々歩いたくらいでは景色が全く変わらず、ある意味で街歩きより疲れます。
堀切駅は、旧・荒川本川の隅田川と放水路との間隔が狭まった付近にあります。今は対岸にある菖蒲園の最寄り駅でしたが、放水路によって分断されてしまいました。堤防脇の小さな駅舎はローカル線の駅のようで、明治学院大学の原武史教授は「いま永井荷風が散歩に降り立ってもおかしくない雰囲気をとどめている」と評しています。
1932(昭和7)年1月、永井荷風は堀切駅に降り立ちます。そして、竣工間もない放水路の水辺を散策し、その数日後に初めて玉の井を訪れています。
見渡すかぎり枯蘆の茫々と茂りたる間に白帆の一、二片動きもやらず浮かべたるを見る
放水路の眺望を好んだ荷風は、ここを何度も訪れ、エッセイ「放水路」を書き上げます。堀切駅前には、墨田水門から隅田川をつなぐ短い堀割があり、首都高速の高架橋がその上空を通っていますが、この堀割がかつての綾瀬川の旧流路であることを、「放水路」のなかで推察しています。
放水路の水辺と、その周辺の風物に創作意欲をかき立てられた荷風は、さらに勢いづいて寺島町を取材、そして『墨東綺譚』の上梓となっていくわけです。
斜体文字は、『摘録断腸亭日乗』(岩波文庫)および『墨東綺譚』(岩波文庫)からの引用です。
2011年08月05日
古地図を片手に江戸〜東京の街歩きが、趣味の一分野として定着しています。
目的地に行くための手段としてではなく、風物を観察しながら歩き回る「散歩」を最初に実践しエッセイとして公表したのは、永井荷風( 1879-1959 )といわれています。今世紀に入った頃から、定年を迎えようとしている中高年男性の一部を中心に、荷風の何者にも束縛されない生き方に共感した街歩きが、静かなブームとなってきました。さらに、究極の「おひとりさま」としての荷風の生活に価値を見出す女性も増えているようです。
永井荷風の街歩きに関わる代表的な著作は、江戸切絵図を片手に散策する『日和下駄 一名 東京散策記』(1915)でしょう。 目次をみると「日和下駄」「淫祠」「樹」「地図」「寺」「水 附渡船」「路地」「閑地」「崖」「坂」「夕陽 附富士眺望」とあり、一部に古めかしい用語はあるものの、地理学・地図学の参考書にそのまま使えそうな項目が並んでいます。「富士眺望」とくれば、筑波大付属高の田代博さんが主催する「山の展望と地図のフォーラム」の前身のようにも思えます。
荷風の作品には、『日和下駄』以外にも、エッセイやフィクションに関わらず、舞台となった場所の生き生きとした描写が特徴です。代表作『墨東綺譚』(1937)では、作者自身がモデルと思われる主人公・大江匡が次(原題で「墨」は、部首はさんずいに墨はつくり字体、以下同様)のように語っています。
小説をつくる時、わたくしの最も興を催すのは、作中人物の生活及び事件が開展する場所の選択と、その描写とである。
「墨東」とは隅田川の東岸の土地を表し、いまの墨田区とほぼ同じ範囲とみられ、今では、2012年に完成する東京スカイツリーを間近で眺めようとするひとびとで賑わっている界隈です。永井荘吉氏(荷風)と大江匡氏との3人連れで、東武伊勢崎線に沿って歩いてみましょう。
[業平橋]
いままさに東京スカイツリーが建っている現場です。浅草駅から東武伊勢崎線に乗って最初の駅。ホームからあまりに近いので、首が痛くなるほどに見上げることになります。駅周辺の食堂や商店では、スカイツリーに因んだ商品も提供し、いつも賑わっています。
そば処 かみむら、名物「タワー丼」
業平橋の駅名は、平安時代の歌人・在原業平に由来します。藤原氏との抗争に敗れ、無冠のままでの諸国放浪は『伊勢物語』のモデルになっています。『古今和歌集』の撰歌となっている、
名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと
という歌は、隅田川の渡舟で詠んだとされています。駅前を通る道路を北西に行くと隅田川を渡る言問橋に至ります。
業平橋駅は、1902(明治35)年に吾妻橋駅として開業し、一時休止をはさんで、1910(明治43)年に浅草駅と改称され、長らく東武鉄道(以下「東武」)のターミナルでした。1931(昭和6)年、隅田川に架橋して浅草雷門(現・浅草)駅を開設したとき、現行名となりましたが、広い構内を活かして操車場や貨物駅が併設されていました。貨物駅は2003(平成5)年に廃止され、不要となった広い敷地が東京スカイツリーの建設地となりました。2012年のスカイツリー完成に併せて「東京スカイツリー駅」に改称される予定です。
1:25,000地形図「東京首部」1947年修正
[曳舟]
スイカイツリーの建設現場を右にみて、北へ急カーブを描くあたりから、いろいろな鉄道路線が絡み合ってきます。地下鉄半蔵門線から押上駅を経てきた線路が、地下からせり上がってきて上下線の間に分け入り、直ぐ脇をかすめた京成線の下をくぐってきた亀戸線がさらに合流し、3路線併せて曳舟駅に入ります。周辺は、いかにも「昭和」のイメージそのままの商店街と、工場跡地に新築された高層マンションとが隣り合っています。
駅名は、江戸時代に古利根川から引かれた葛西用水路の、江戸近郊での通称「曳舟川」に由来します。江戸に集まる物資を満載した高瀬舟を、水路沿いの道から牽く航行法がそのまま水路の名となりました。隣の押上駅とで「押し・曳き」というペアになりますが、地元の資料によると、水路に江戸湾の潮が常に「押し上がってきた」ことに由来するそうです。
大江匡氏は、小説の取材のため、「六月末の或夕方」に、東武の玉の井駅周辺、当時の町名では寺島町を訪れます。
踏切の両側には柵を前にして円タクや自転車が幾輛となく、貸物列車のゆるゆる通り過るのを待っていたが、歩く人は案外少く、貧家の子供が幾組となく群をなして遊んでいる。降りて見ると、白髯橋から亀井戸の方へ走る広い道が十文字に交錯している。
現在の、水戸街道(国道6号)と明治通との交差点で、今とはかけ離れた光景です。伊勢崎線は高架化され踏切はなくなりました。玉の井駅は町名変更に合わせて東向島駅に改称されていますが、駅名標には旧名が併記されています。高架下には東武博物館が設けられ、蒸気機関車から1世代前の特急電車までの実車展示、関東平野を模した鉄道模型ジオラマ、電車やバスの運転シミュレータが揃い、夏休み期間中は鉄道好きの少年達が集まってきます。
(つづく)
水戸街道(国道6号)を跨ぐ東武鉄道と背景のスカイツリー
斜体文字は『古今和歌集』『墨東綺譚』からの引用です。
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