2010年12月

2010年12月17日


線路は駅と駅をつなぎ、人や物を運ぶと同時に、場所を分断してしまう存在でもあります。線路が境となって、一つながりだった“もの”がつながりをなくしてしまうことも少なくありません。

下記の地図(25千分1地形図「西宮」(昭和55年修正)の一部)は、約30年前の阪急電鉄西宮北口駅周辺です。鉄道と鉄道が交差する場合、大抵はどちらか一方を高架化もしくは地下化するというのが常套手段です。でもこの地図の交差部分を見てみても、立体交差の表現は見られません。


08 西宮北口駅

 

 

西宮北口駅は、東西に走る阪急神戸線と南北に走る阪急今津線が交差する乗換駅です。1920(大正9)年に神戸線がまず開業。その翌年、今津線のうち、宝塚−西宮北口間が開業しました。当初は“西宝線”と呼ばれていたそうです。1926(大正15)年、今津まで南に延伸し、それと同時に“今津線”に改称。宝塚−今津間の全線営業がはじまりました。阪急沿線で育った私は幼い頃、“ここの線路はとても珍しい”のだと教えてもらった記憶があります。ここにはかつて、「ダイヤモンドクロス」と呼ばれる直角平面交差線路があったのです。どのように運用されていたのか、細かいことはよく覚えていないのですが、神戸線と今津線の運行がぶつからないように上手にダイヤが組まれ、西へ東へ、北へ南へ、縦横に電車が行き交っていたのでした。ちなみに、かつての阪急西宮球場跡地に2年前にできた大型ショッピングモールの中にある「阪急西宮ギャラリー」には、1983(昭和58)年当時の西宮北口駅周辺の1501ジオラマが再現されていて、ダイヤモンドクロスの様子も見ることができます。


08 ダイヤモンドクロスジオラマ
 
そんなダイヤモンドクロスですが、1984(昭和59)年に姿を消してしまいました。都市化が進んで乗客数が増えたことから、電車の運行本数が増えてダイヤがきつくなり、また、車両数を増やすために神戸線のホームを延長し、今津線が神戸線を横切ることができなくなってしまったのです。しかも、高架化も地下化もできず‥。結果、今津線は、宝塚−西宮北口間(北線)と西宮北口−今津間(南線)とに分断。それぞれ個別に運行され、現在に至っています。最近、南線のホームを高架にする工事をしていたので、「もしかしてまた一本につながるのか!?」と期待したのですが、周辺道路の交通渋滞解消のためでした。125日から新ホームは供用を開始し、南線への乗換は楽になり、改札口も新設されて便利になりましたが、北線は地上ホームのままだし、2階コンコースに線路を通すのは無理だし。分断状態はこれからも続くようです。

でも、路線の呼び名は、南線はもちろんのこと、今津には行けない北線も“今津線”のままです。別の路線としてやっていくのなら、北線を昔のように“西宝線”に改称してもよさそうなのに‥。それをしないのは、宝塚−今津間の全線運行復活の可能性をあきらめなくてもよいということなのでしょうか?

Hankyu80s
 西宮北口駅(1980年頃)


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jmcyosh at 09:40 
コラム 

2010年12月10日


  西暦2010年の今年、奈良では平城遷都1300年祭が行われ、県内各地で様々な催しが開催されています。現在(〜1月半ば)、測量をテーマにした企画展が平城宮跡資料館で行われています。先日観に行って来ましたが、田畑が広がっていた土地を1000年以上前の都の宮殿跡として発掘、保存してきた様子の一端をかいまみることができました。展示を見終わって宮跡内を散策していると、ゴトンゴトンゴトンと電車が走り抜けていきます。散策路の途中には踏み切りもあり、5分とおかず遮断機が下りて電車が通過していきます。

07 朱雀門と近鉄奈良線


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月に奈良県が、この近鉄奈良線の移設に関するアンケートを行っていました。高架化すれば景観上新たに苦情が出るでしょうし、地下化すれば地上の景色からは消せますが、地下の埋蔵資料等の問題があるそうで、経済的なことだけでなく単純にはいかないようです。1300年という時間の流れからすれば短いかもしれませんが、1914(大正3)年に開業してから100年弱、奈良の中心市街地と大阪方面を結んで現代人を運び続けている鉄道も重要な存在です。さて、アンケートからはどのような意見が示されるのでしょうか? 日本地図センターが今年発行した「集成図『奈良』セット」には、現在の「5万分1集成図『奈良』」と共に100年前、200年前の地図が入っています。100年前の地図は1908(明治41)年当時のもので、現在の近鉄奈良線が敷かれる前です。まだ史跡公園として保存整備される前。広くて障害物がないこの土地に線路を敷くという考えは、当時としては妥当だったように個人的には思います。

その100年前の地図を眺めていて、「こんなとこに鉄道走ってたかな?」と別の場所に目が止まりました。現在のJR奈良駅から加茂方面へ見たことのない線路が描かれているのです。“だいぶつ”という駅名の注記も見えます。
07 奈良

現在の地図で確認すると、“これはきっと線路跡に違いない”と思える、よく似た形状の道路が描かれています。気になったので、その道を歩きに行ってみました。大仏駅があったあたりには“大佛鐡道記念公園”という一角が設けられ、そこにこの鉄道についての説明板がありました。関西鉄道の大仏駅は1898(明治31)年に開業し、加茂から奈良市街へその経路を通ってお客を運んでいたのだそうです。翌年には奈良駅まで開通しましたが、1907(明治40)年、10年も経たずに廃止になってしまったのだとか。(この地図は鉄道廃止後の作成ですが、まだその頃には線路が残っていたのでしょうか?)大仏駅があった辺りから現在のJR大和路線鹿背山トンネル付近まで6km程度の道のりをひたすら歩きます。汽車が走っていたにしては結構なアップダウンの繰り返しです。鉄道の名残は決して多くありませんが、高架をくぐるレンガのトンネルの遺構を2箇所見ることができ、“かつて確かにそこにあった”ということを実感しました。そうすると、自分が歩いてきた道と同じところを汽車がシュシュポポシュシュポポ煙をはきながら走っている姿が目に浮かんできました。

 100年後。「昔、平城宮跡内を鉄道が通っていたんだって!」と、2010年当時の“古地図”を見ながら驚いている人達がいるのかも知れません。

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jmcyosh at 08:40 
コラム 

2010年12月06日


 このブログの前回(20101126日付け)記事では、大阪の天王寺駅から隣の新今宮駅までの120円区間を、近畿圏のJR西日本路線で大廻りした乗車記を紹介しました。この大廻りルートに含まれる阪和線と湖西線については、「地図中心」12月号の特集「新幹線と高速鉄道を地図から見る」のなかの記事「新幹線に迫る高速在来線」でも紹介しています。
 現在JR西日本に属する阪和線の前身は純民間資本の私鉄、阪和電鉄で、1930(昭和5)年までに天王寺〜東和歌山(現・和歌山)間を開業しています。時代を先取りした複線電化の高速鉄道で、阪和間61.3kmを途中無停車の特急は45分で駆けました。その表定速度81.6km/hは、当時の国鉄特急「燕」の69km/hを大きく上回り、昭和戦前期における日本で最も速い列車でした。1930年鉄道補入の地形図には、古墳が点在する丘陵地をほとんど直線で進む阪和電鉄が描かれています。
 湖西線は、1974年に開業した琵琶湖西岸に沿う鉄道で、東海道新幹線で培った技術を取り入れた高規格の在来線です。複線電化の線内に踏切は1カ所もなくカーブも在来線としては緩く「ミニ新幹線」と呼ばれたこともあります。新幹線と在来線が直通する現在の「ミニ新幹線」とは別のものです。信号設備をさらに改良すれば最高速度160km/h程度の運転は可能といわれています。
 湖西線の前身は、浜大津から近江今津まで51.0kmを結んでいた江若鉄道という単線非電化のローカル私鉄です。
5万分の1地形図「北小松」の1992年と1965年の地図画像を重ねてみました。湖西線の一部区間で江若鉄道の路盤をそのまま引き継いでいて、急カーブの区間は短絡していることが判ります。

近江舞~1


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jmctsuza at 08:30 
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