2012年05月11日
ゴールデンウィークも過ぎ、年度の仕事や学業は早くも前半の山場にさしかかっています。仕事や学業の追い込みにお疲れ気味の方におすすめしたいのがここ数年静かなブームになっているパワースポットです。さあ、気力アップのためにさっそく出かけましょう。今回紹介するのは、東京都心にある意外に険しい山〜愛宕山です。モデル・ルートは、次のとおりです。
都営地下鉄大門駅〜芝大神宮〜愛宕トンネル〜愛宕山(男坂・女坂)〜愛宕神社〜NHK放送博物館
【歩行距離】約4Km 【歩行時間】約2時間
都営地下鉄大門駅A6出口を出てすぐに右折し、路地を入った左手に芝大神宮の大きな鳥居が見えます。芝大神宮の御祭神は、大照大御神と豊受大御神の二柱。伊勢神宮の神様をお祀りしているので「江戸のお伊勢さま」と、将軍家から江戸の庶民まで尊崇をあつめ、おおいに賑わったそうです。縁結びで有名な「千木筥(ちぎばこ)」は檜の曲物で藤の花が描かれた函です。このお守りのご利益は「千木」と「千着」をかけ衣装が増えますように、箪笥に入れて置きます。さらに女性の幸せ全般に効果があり、良縁に恵まれ幸せな結婚ができるという有り難い縁起物のお守りなのです。しかも、最近女性週刊誌に紹介されたそうで、女性参拝者が絶えません。

芝大神宮(左)、千木筥(右)
芝大神宮を後に細い路地を新橋方向に進んでゆくと、思わず食欲をそそられる飲食店が点在しています。ここはひとまず我慢してお帰りの楽しみにします。日比谷通りを越え、愛宕下通りを進み愛宕神社前交差点に差しかかると見えてくるのが、愛宕隧道(あたごずいどう)です。東京23区内で自然の山を掘り抜いた唯一の山岳トンネル、と国土交通省関東地方整備局の広報誌で紹介されています。記念に写真を撮りました。さて、愛宕山を目指します。
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愛宕隧道
世の中には、実際に目にしなければ本当のすごさが分からないものが、たくさんあります。麓に着くと同時に感じられたのですが、愛宕山に登るための「出世の階段」(別名「男坂」)の急勾配も間違いなくそのひとつに数えられるでしょう。傾斜角は37°、86段で踏面もせまく、踏み外すと危険なので両側に石造手摺、中央に鎖の手摺が設置されています。「こ、これは・・・」と思いましたが、せっかくここまで来たのだから由来のとおり「きっといいことがあるはず」と思いなおして登り始めます。正直30段目くらいで「あー!来なきゃよかった」と後悔しつつ、もう一段、さらに一段、また一段・・・

男坂(左)、女坂(右)
やっとの思いで山頂の愛宕神社です。境内は、都会の喧噪とは一線を画すような雰囲気に包まれていました。ここが山頂だとは思えないほど平らで、どの場所も整然ときれいに保たれていることに驚きました。大国主命を祀る大黒天社、猿田彦神を祀る太郎坊社、美しい市杵島姫命を祀る弁才天社と池などもがあり、こんとんと沸き出す水の清らかな音を聞くだけでも、この場所を訪れる価値が十分にあります。

愛宕神社(左)、弁才天社と池(右)
三等三角点「愛宕山」
愛宕山(海抜26メートル)は自然の山として都区内随一の高さを誇り、桜と見晴らしの名所として、江戸庶民に愛され数多くの浮世絵にもその姿が描かれています。明治元年には勝海舟が西郷隆盛を誘い下の写真のような眺めの山上で、江戸市街を見わたしながら会談し、無血開城へと導いたのでしょう。鉄道唱歌にもその名が唄われ、春は桜・夏の蝉しぐれ・秋の紅葉・そして空気の澄んだ冬景色と、四季折々の顔を持つ風光明媚な愛宕山は、都心でも自然の息吹を直接体験できる貴重な場所です。散策中に三角点を発見し、思わずパチリと写真を撮ってきました。

明治元年の愛宕山からの眺め(左)とその撮影場所(右)
放送博物館の展示から
ここには調和のとれた世界がありました。癒しのパワーと出世の王道「男坂」を登ってエネルギーをもらい、七福神の大黒様と弁財天様さらに猿田彦様までいらっしゃるのですから、多彩な恩恵で出世できるというのもうなづける気がします。

NHK放送博物館入り口(左)と展示(右)
最後にNHK放送博物館に向かいます。世界初の放送専門の博物館として1956(昭和31)年に開館しました。日本の放送が始ってから80余年、ラジオからテレビへ、さらに衛星放送、ハイビジョン、そして昨年からデジタル放送へと大きく進歩・発展してきました。“放送のふるさと”愛宕山は靜かにその歴史を刻んできました。博物館の展示を見ているだけでも、昭和〜平成への時代の流れを感じられます。この博物館は入場無料です。お得な感じのするウォークでした。
(Photo & Report by HT生)

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2012年04月13日

熊本城と市電のLRV(熊本市交通局提供)
2012(平成24)年4月1日、九州の熊本市(人口約73万人)は、政令指定都市に移行しました。九州では3番目、全国で20番目になります。地図センターの月刊誌『地図中心』4月号の特集は「政令指定都市 熊本」です。本特集号編集にあたっては、熊本市役所の全面的なご協力
をいただきました。移行業務でご多忙にもかかわらず、それぞれの担当部署や文化財専門相談員の方々に、熊本市の歴史、現勢、地下水、交通、食材や工芸について寄稿いただきました。この場を借りてお礼申しあげます。
阿蘇カルデラから流れ出た白川が、火山山麓から有明海に面する沖積平野に入る付近の、丘陵地に囲まれたところに、熊本城を要とする中心市街があります。世界有数の規模を誇る阿蘇火山ではぐくまれた適度なミネラルを含む地下水によって、熊本市の上水は100%まかなわれているそうです。森に覆われた竜田山(標高152m)の麓にある熊本大学周辺の緑の多い市街は、小泉八雲や夏目漱石も教鞭をとった旧制第五高等学校の時代からの、文京都市の面影を今に伝え、中央ヨーロッパの都市にも通じる風格があります。
熊本市は九州のほぼ中央にあり、交通の便が良いところです。福岡市との間に1日100往復以上も走る路線バスは、高速道路が未開通の時代からの歴史を持ち、都市間高速バスの草分けです。市内交通も充実しています。熊本市電は、戦後一時期は日本の多くの都市と同様に路線縮小が相次ぎましたが、1976(昭和51)年に存続が決まった後、積極的な施策を次々に打ち出してきました。
熊本市交通局よりいただいた特集号の記事に基づいて、熊本市電の先進性についていくつかご紹介します。

熊本城と熊本市役所付近の地形図(電子国土から)
いま先進国の多くの都市では、路面電車(トラム)の拡充が図られていて、軌道の新設、過去に廃止した軌道の再生、既設軌道の改良や延長、乗降しやすい新車輌の導入などが、都市のインフラ整備として実施されています。このような都市では、ひとは階段やエスカレータの昇降なしで手ぶらで乗り込み、歩行者とほぼ同じ目線で街区を眺めながら運ばれ、下車したその場から街歩き、というスタイルが定着しています。このような現代的なシステムに脱皮した路面電車交通をLRT(Light Rail Transit)、そこを走る高性能路面電車をLRV(Light Rail Vehicle)といいます。
日本は何故かこの流れに乗り遅れていました。未だに「路面電車」というとノスタルジーでしか捉えられない人も多いのですが、最近では、国土交通省道路局が都市の渋滞緩和策のひとつとして、LRTの導入支援を展開しています。同省ではLRTを「次世代型路面電車システム」と呼んでいます。
そんななかで熊本市電は、広島市や富山市などとともに、日本におけるLRT化の先頭を切ってきました。熊本市電の日本初を列挙すると、1978年の車輌の冷房化、1982年のインバータ制御車導入、1997年の超低床車導入、そして2002年の樹脂固定軌道です。
主動力に交流モータを用いるインバータ制御は、日本で造られる電車の大部分に普及しました。新幹線の300km/h運転やリニアモータ地下鉄、さらにいえば電気自動車やハイブリッド車は、インバータ制御なしでは実用化できなかったはずです。
乗降しやすい超低床車は、1997年当時の日本には無かった技術で、先進地ドイツのメーカから部品を輸入し、日本の車輌メーカで組み立てていました。
樹脂固定軌道は乗り心地改善と騒音防止に高い効果があります。さらに最近では、自動車との動線の交錯を少なくするサイドリザベーションなど、先進国では常識になっている軌道構造も積極的に取り入れられています。

サイドリザベーション(熊本市交通局提供)
熊本市電はいま、成熟した市街での既設路線の改良という制約の多い条件のなかで、LRT化を着々と進めています。これらが完成した暁には、都市の風格にいっそうの磨きがかかることになるでしょう。
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火山土地条件図「阿蘇山」
2012年03月09日
世界一高い634mの自立式電波塔東京スカイツリー(R)が、着工から3年8ヶ月を経て2012(平成24)年2月29日に竣工し、建設を担った(株)大林組から事業主体である東武タワースカイツリー(株)へと引き渡されました。3月2日(金)には竣工式が執り行われ、東京スカイツリーとそれを囲む商業施設「東京ソラマチ(R)」およびオフィス棟からなる「東京スカイツリータウン(R) 」の、5月22日(火)の開業(グランドオープン)に向けた準備も最終段階を迎えています。

千葉県松戸市からみた東京スカイツリーの上部
ちょうど良い機会なので、地図センターの月刊誌『地図中心』3月号で「東京スカイツリーのある街」として特集を組むことにしました。地上450mの天望回廊からの眺めや可視範囲の地図、鳥瞰図、地上634mという高さを基に簡便に距離を測量する方法、周辺の土地の歴史散策など、地図好き地理好きには大変興味深い題材です。
東京タワー(地上333m)に代わる新電波塔の建設は、2003年にNHKと民法キー局からなる在京放送事業社が「在京6社新タワー推進プロジェクト」を発足させたことに始まります。いくつかあった候補地のなかから、墨田区押上地区が、2005年に選定されました。新電波塔の名称が「東京スカイツリー」と決まった後、東武鉄道伊勢崎線の業平橋駅の貨物駅跡地で2008年7月に着工されました。「武蔵国」にちなんで高さ634mに決まったは2009年10月、目標の高さに到達したのは2011年3月でした。
東京スカイツリーへの関心が高まったのは、建設中の2010年3月に東京タワーの高さを超えた頃だったと思います。世界一の高さに向かって伸びる建設中のタワーを見ようと、繁華街の浅草から至近にありながらいまいち地味だった押上・業平地区に、多くの人々が訪れるようになりました。地元関係者らが新電波塔の誘致に向けて「押上・業平橋周辺地区まちづくり協議会」を設立していましたが、現在では「おしなり商店街振興組合」が、訪問客に向けたいろいろなキャンペーンを行っています。東京スカイツリーを核とする地元の盛り上がりの一端を、このブログでも『墨東( 旧・寺島町)を歩く』(前編・後編)と題してリポートしました。
高い塔を建て、空を飛ばずに天上に登ることへの憧れと不安は、神話・民話や小説の題材になっています。 聖書にでてくる「ヤコブの梯子」は人間が昇るのではなく、空を飛べるハズの天使が降りてくる話、同じく聖書の「バベルの塔」は言語の起源のような話で塔は脇役でした。人が登る塔(のようなもの)の話として代表的なものはイングランド民話をもとにした『ジャックと豆の木』(Jack and the Beanstalk)でしょう。雲の上にある巨人の城に主人公が乗り込んでいって宝物を奪ったうえに、城の主人を退治してしまうところは、『桃太郎』と似ています。考えてみれば随分と横暴な話ですね。登り詰めた高い所に大きな城があるというのも、何だかアンバランスな気がするのですが、これを
近代科学で裏付けた2篇のSFが1979年に刊行されました。チャールズ・シェフィールド著『星ぼしに架ける橋』、アーサー・C・クラーク著『楽園の泉』です。両作品ともに軌道エレベータを題材とし、それぞれの作者が独自に構想し書き上げた長編で、偶然同時期に刊行されたことで話題になりました。
軌道エレベータとは、赤道上空約3万6千kmの円軌道を地球の自転と同期して周回する静止衛星を重心として、そこから地表とその反対側に向けてチューブを延ばし、地上からエレベータのように宇宙に向かうことができる輸送手段です。軌道エレベータの概念は1959年頃にロシアの科学者によって提唱されていましたが、
その建設工程を、フィクションとは言え、初めて具体的に描いてみせたのが、これら2作品です。現在の技術では、強大な潮汐力に耐える資材を、建設に必要なだけ安定的に供給できる見通しがないことなどから、未だ空想的な段階に留まっていますが、基礎的な技術研究が一部で始まっています。
東京スカイツリー天望回廊の地上450mは、定期航空の巡航高度には届きませんが、ヘリコプタや小型遊覧飛行機の飛行高度には匹敵します。空を飛ばず、かといって山に登るのでもなく、垂直方向の移動で到達することによる高度感は、また格別のものになるでしょう。天望回廊からさらに宇宙の彼方に続く梯子を想像してみるには、夕方から夜にかけての時間帯が向いているかもしれません。
東京スカイツリー(R)は東武鉄道株式会社と東武タワースカイツリー株式会社の、東京スカイツリータウン(R)と東京ソラマチ(R) は東武鉄道株式会社の登録商標です。
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パノラマ浅草(夕景)
2012年02月10日
立春も過ぎましたが、寒い日が続いています。
2月6日に気象庁から「ユーラシア大陸の顕著な寒波について」という解説が公表されました。これによると、今年(2012年)1月中旬以降、ユーラシア大陸中央部に非常に強い寒気が流入していて、日本列島の寒さはその余波に過ぎないことがわかります。2月になって寒気の影響は中〜西欧にも拡がり、大雪による交通障害も報じられています。
ヨーロッパで大雪による交通障害とくれば、アガサ・クリスティ『オリエント急行殺人事件』を想い出します。おなじみ「灰色の脳細胞」を持つ名探偵エルキュール・ポワロが乗りあわせたイスタンブール発パリ行きのシンプロン・オリエント急行*が、ユーゴスラビア(当時)のヴィンコヴチ付近で大雪に閉じ込められ停車中、乗客のひとりが殺され・・・、と展開していきます。
オリエント急行が大雪で立ち往生した事件は、1929年にトルコ〜ブルガリア国境付近で起きており、これに飛行家リンドバークの子息誘拐事件(1932年)と、2つの実在事件に作者自身の乗車体験を加えて着想を練ったものと考えられます。

『オリエント急行殺人事件』は、シドニー・ルメット監督で1974年に映画化され、翌1975年に日本でも公開されました。主人公ポワロはじめ乗客たちを演じたのは、ひとりひとりが主役級の俳優たちでした。興行的に大ヒットしましたが、高くついたと考えられる人件費を回収できたのか心配になるくらいです。豪華キャストが演じた乗客たちの素性を列記してみましょう。
・ベルギー人で英国で活躍する探偵(ポワロそのひと)、
・アメリカ人の富豪(被害者)、
・被害者の秘書であるアメリカ人青年、
・被害者の執事である英国人、
・派遣先のインドから帰国途上の英国軍大佐、
・バグダッドで教師をしていた英国人女性、
・老齢のロシア貴婦人 、
・貴婦人の使用人であるドイツ人女性、
・おしゃべりなアメリカ人中年女性、
・宣教師であるスウェーデン人中年女性、
・フランスへ赴任途上のハンガリー外交官、
・外交官夫人の若い女性、
・自称「スカウトマン」のアメリカ人男性、
・アメリカで自動車販売を営むイタリア人男性、
・フランス人の車掌、
・ギリシア人の医師、
・国際寝台車会社の重役(名前からイタリア人か)
原作者が英国人であるためかもしれませんが、英国人・アメリカ人の比率が高くなっています。実際、中近東(オリエント!)から南アジアにかけての英国植民地の経営に関わる高官や豪商が、シンプロン・オリエント急行の主要な顧客だったそうですから、この設定は不自然では無さそうです。
ウィーン西駅に到着するオリエント急行ブダペスト行(1995年)
植民地を持つことの適否は別として、近現代史のなかで、英国はじめ西欧諸国が最も効果的に地図や地理学を活用して、活動の場を拡げていました。乗客たちの会話からも地理に親しんでいる背景が伺えます。「帝国主義」といってしまえばその通りであり、彼ら彼女らの視点の中に異教・異民族への偏見もあって、その残滓は現代の英会話の授業にも微かな違和感をもたらしているけれども、結果として、世界中から得た多くの事物や知見が独占されずに人類共通の財産となり、英語が事実上の国際標準語となってきたことは事実でしょう。
地図中心誌の2012年3月号(通巻473号)の特集は「地理教育と地図教育展望」です。
上越教育大学の志村喬さんの記事に紹介されたイングランドの地理授業では、小学校低学年に空中写真を見せて訪れた場所を当てさせ、中学1年生に英国測量部(Ordnance Survey)の地形図の(コピーではなく)現物を配布し、読図や地域についての説明をさせているそうです。 生徒が身につけるのは、国語(=英語)、算数(数学)と並ぶ基本的な技能(リテラシー)として、地図などの記号・図表を読み解き使いこなす「グラフィカシー(graphicacy)」という技能です。英国の海外領土は今でもありますが、現在の地図教育の目的は、これからの持続可能な社会の形成者・参画者としての市民の育成とみるべきなのでしょう。
日本でも、順次施行されつつある新しい学習指導要領では、いわばグラフィカシー向上をかかげ、学校の授業において地形図やGISを利用することを薦めています。現役の学校の先生、地理学科出身の保護者、研究者そして文部科学省の教科書調査官といった方々に、地図教育の現状と目指していることについて書いていただきました。
* オリエント急行
西〜中欧と南東欧そして中近東をむすぶ国際列車群の変遷史は、それだけで本1冊以上書けてしまうので、ここでは最小限の説明をします。
1883年に運転を開始した「オリエント急行」は、パリからドイツ南部〜オーストリアを経由してルーマニアのブクレシュティ、そしてトルコのイスタンブールと結んでいました。第一次大戦後に走り始めた「シンプロン・オリエント急行」は、スイス〜イタリア〜ユーゴスラビア経由でイスタンブールと結び、大戦間の最盛期を支えました。『オリエント急行殺人事件』の舞台もこの列車です。この他にもいろいろな区間・経由地の名を冠した「○○オリエント急行」も生まれては消えていきました。
南ドイツ経由の「オリエント急行」は21世紀まで走り続けましたが、フランスの高速鉄道TGV東ヨーロッパ線の開業(2007年)によりストラスブール〜ウィーン間に短縮され、2009年12月に廃止されました。
オリエント急行全盛期の1929年に造られた車輌が、いま箱根ラリック美術館に展示されています。大型ソファと軽食ができるテーブルを備えたサロン車(プルマン車)で、映画の車内シーン・セットのモデルと同系車です。当日申込みで車内の見学もできます。ルネ・ラリックがデザインした豪奢な客室で、名探偵になったつもりで
「さて、皆さん・・」
とやってみるのも乙なものかも知れません。
オリエント急行の車内(1995年)
奥に座っているオジさんが、何となくポワロさんに似ています。
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地図センターネット販売 海外地図データ
2012年02月01日
地図展 日本橋と五街道、さる1月29日(日)に、ご好評のうちに全日程を終了いたしました。
地図展では初めての仕切りのない公共空間での展示。多くの方々の目にとまる環境の一方で、展示物の管理等に若干の不安もありましたが、おかげさまで無事に会期を終えることができました。
約1ヶ月の期間中に、約4万1千人の方々が足を止めて展示を見てくださいました。
会場に来ていただいた皆様、デパートでの買い物や地下鉄の乗り換えの途上で展示を眺めていただいた皆様、何度も足を運んでいただいた皆様、ありがとうございました。
2012年01月19日
地図展が催されています。
題して「地図展 日本橋と五街道」。
会場は、東京〜というより日本の街道の起点、日本橋のすぐ傍、国道4号の地下歩道です。地下鉄三越前駅の地下通路と言ったほうが判りやすいかもしれません。このブログで前々回に紹介した「日本橋架橋100周年記念− 街道(みち)の数だけ日本がある−日本橋『日本百街道展』」と同じ会場です。
「地図展」は、地図に親しんでもらおうと、毎年全国の主要都市で開催されています。今回の主催は地図展推進協議会、NPO法人全国街道交流会議、名橋日本橋保存会です。会場に掲げられた「ごあいさつ」を以下に引用します。
・・・
日本橋を起点にして、五街道が伸びています。五街道につながる道は全国津々浦々に通じています。日本橋は、全国各地とつながり、江戸幕府開府以来今日まで、多くの人や物が、日本橋から全国へ、全国から日本橋へ行き来してきました。江戸下町の中心地だった日本橋のまちは、今日も日本経済の中心地であり、ますますにぎやかなまちになっています。
日本橋のまちは順風満帆のときばかりでなく、火災、震災、戦災の惨禍に痛めつけられたこともありました。それでも日本橋のまちは、その都度再生してきました。架橋後100年を経た重要文化財日本橋は、幾多の試練を乗り越えて生きてきたまちの風格を象徴しているようです。
皆様には、江戸時代から今日までの日本橋のまちの姿を、地図を通して見ていただきたいと思います。地図を通して俯瞰する日本橋のまちのありのままの姿は、皆様に、本や街歩きで得るものとは違う、新たな発見や意外な面白さを感じていただけるのではないでしょうか。
どうぞごゆっくりと、「地図展 日本橋と五街道」をご覧ください。
地図展推進協議会
NPO法人全国街道交流会議
名橋日本橋保存会
・・・
展示は昨年12月末から行っていますが、開会式は1月5日(木)に、国土地理院長、中央区 区長他約50名のご出席により執り行われました。
地図展会場では、計16本の柱の周りに各々設けられたボード4面に、地図などのパネルを掲げ、一部の床面には日本橋周辺の空中写真を貼り付けてあります。半蔵門線改札寄りから銀座線改札に向かって「地図で見る日本橋」「地図で見る五街道」「海図で見る東京の海」「江戸東京の大災害」と4テーマに区画し、それぞれ江戸から現在までの地図類を展示しています。土曜・日曜には、銀座線改札寄りの一画で、地図類や関連書籍を販売します。
会場周辺にも見どころがあります。
先ず、なんといっても重要文化財日本橋。現在の石橋は、昨年に架橋100周年を迎えています。橋の中央部には、日本国道路元票があります。
伊能忠敬は、若き日の本業でも日本橋周辺をたびたび訪れているはずですが、晩年の住居兼「地図御用所」跡が日本橋茅場町二丁目にあります。
街道の絵で有名な歌川広重の住居跡が京橋一丁目にあります。
さらに、歩きでは少し遠いですが新川二丁目に、陸地測量部が日本水準原点の標高を得るために用いた荒川河口霊岸島量水標跡があり、現在は国土交通省関東地方整備局の河川観測施設となっています。
1:10,000地形図「日本橋」の一部に加筆.
今回の地図展会場は、地下鉄銀座線と半蔵門線の乗換通路で、地図展では初めての仕切りのない公共空間での開催となり、会期も2011(平成23)年12月29日(木)から2012(平成24)年1月29日(日)までと、地図展史上最長となっています。もちろん入場無料・予約不要です。通勤やショッピングの合間に気軽に、そして、もし気に入られたら何度でもご来場ください。
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日本橋周辺の散策に...
書斎で詳しく調べたいとき... 
2012年01月13日
「地図展」は、地図にもっと親しんでもらおうと、毎年全国の主要都市で開催されている地図の世界の一大イベントです。主催は地図展推進協議会、(NPO)全国街道交流会議、名橋「日本橋」保存会で、会場は東京地下鉄(メトロ)三越駅前コンコース銀座線・半蔵門線連絡通路(国道4号地下歩道/東京都中央区日本橋室町)です。地図展としては初めて仕切りのない公共空間での開催となります。昨年29日から開催中の『地図展 日本橋と五街道』オープニングセレモニーが2012(平成24)年1月5日(木)に国土交通省国土地理院長、中央区 区長他約50名のご出席により執り行われました。

1月5日(木):オープニングセレモニー
【展示会場】


会場は東京地下鉄メトロ連絡通路という公共空間で開催しておりショッピング、お仕事がえりでも間に合いますのでご来場をお待ちしています。この地図展をご覧になって頂くと明日からちがった日本橋の風情が見えてくるかもしれません。
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2012年01月06日

砂浜の美しい人魚像。ここは、新潟県上越市大潟区の日本海に面した九戸浜海岸です。人魚像といえば、アンデルセン童話『人魚姫』をモデルにしたコペンハーゲン(デンマーク)のそれが有名です。あちらは人間の王子様との悲恋のお話しですが、こちらにも人魚にまつわる悲恋伝説があります。
・・・海岸に沿った松林に覆われた大きな砂丘上に、沖行く船のための常夜灯を備えた古い神社があった。いつも献灯している若者が、常夜灯めざして佐渡から毎夜海を渡ってくる女と知り合い逢い引きを重ねるが、一晩献灯を休んでしまった翌朝、海岸に女の屍があがる。女の下半身は魚だった・・・。
人間界に憧れる女(人魚)とそれに気づかず見捨てる男 (人間)。アンデルセン童話と話の流れは似ていますが、オチは怪異譚によくあるパターンです。「女は人魚だった」という代わりに、若者が女を追って入水するバージョンもあり、柏崎や佐渡にも伝わっていますから、越後と佐渡との交流史のなかのエピソードに、海難事故や人魚にまつわる別の言い伝えが重なったのだと思います。
人魚像から北へ数百メートルの雁子浜に人魚伝説の碑があります。元の人魚塚は近くの別の場所に現存しているようなのですが、こちらは1993(平成5)年に小さな公園として整備されました。維持管理はされているようですが、冬は日本海からの寒風が吹きつける環境で、ちょっと荒涼とした雰囲気です。
上越市出身の作家、小川未明(1882-1961)が1921(大正10)年に発表した『赤いろうそくと人魚』という童話をご存じでしょうか。小学校または中学校の国語の教科書で読んだひともいるかもしれません。雁子浜の人魚伝説をモチーフとして、さらに美しく、しかし怖い結末の物語に昇華されています。
人魚は、南の方の海にばかり棲んでいるのではありません。北の海にも棲んでいたのであります。北方の海の色は、青うございました。
・・・人間界に憧れた人魚が、海岸の丘にある神社に子を産み落とす。人魚の子は、神社の麓でロウソクを売る夫婦に育てられ、美しい娘に成長する。娘は恩に報いようと、白いロウソクに赤い絵具で絵を描く。神社に灯された絵入りロウソクは幸運を招き航海の安全を守ると評判になり、ロウソク屋も神社もそのふもとの町も賑わう。
しかし評判を聞きつけた香具師(やし)にそそのかされ、老夫婦は娘を売り渡してしまう。香具師に連れ出されるとき、人魚の娘は真紅に染めたロウソクを残していく。 その晩、髪の濡れた女が赤いロウソクを買い求め神社に灯すと、海が荒れ多くの船が難破する。以後、神社に灯される赤いロウソクは不吉を招くようになり・・・
幾年もたたずして、そのふもとの町はほろびて、滅くなってしまいました。
ほのぼのと展開しかけた物語が、老夫婦の心変わりとロウソクが赤く染められることによって暗転し、冒頭の青く冷たい海に引き戻されます。突き放したような最後の一文には、大人になって再読したときゾッとさせられました。
ここ大潟区付近は頸城平野(高田平野)の一画で、砂丘を載せた海岸砂州に閉塞された後背地が潟湖やデルタ(三角州)となり、内陸の山地・丘陵地から流れ込む河川の沖積作用で低地が形成されています。日本海側の平野によくみられる地形の組合せです。多くの平野で潟湖は埋立てや干拓で縮小・消滅していますが、ここでは平野面積の割には広い水域が残っています。一帯は頸城油田で、1956年に帝国石油(株)が試掘を行っていたところ温泉が湧出し、1958(昭和33)年に「鵜の浜温泉」と名付けられました。海岸砂丘に沿って、数件の温泉旅館と第三セクターの公衆温泉施設や海水浴場があります。比高30m以上、幅2km以上におよぶ砂丘の背後に、松林に囲まれて7つの潟湖があり、冬には白鳥が飛来します。内陸側の低地には、広大な水田がひろがり、米どころとなっています。
夕日が沈む日本海、あるいはシベリアからの寒気とともに吹き寄せる雪雲の下の日本海を眺めながら、やや塩辛い温泉で温まり、地元の海の幸をサカナに米どころの地酒を・・、などと書いていると、それだけで旅心をそそられます。
国土庁(1973)『土地分類図(新潟県)』((財)日本地図センター発行)から
「地形分類図」に加筆。
海岸砂丘の上を、国道8号、JR東日本信越本線、北陸自動車道がほぼ並行に走り、信越本線犀潟駅から分岐する北越急行ほくほく線が頸城平野北部を横断しています。鵜の浜温泉へは、信越本線の潟町駅下車、北陸自動車道では柿崎ICから国道8号を南西へ約5kmのところです。北越急行線に乗ると、米山(993m)を北に見ながら160km/hで駆け抜け、頸城平野の地形の成りたちと、内陸に向かって積雪が急に増す様子とが、短時間で一覧できます。
鵜の浜温泉は、いわば海浜型リゾートで、上越市郊外として集落も発達していますが、あまり大規模ではなく、海岸砂丘と松林を中心とする景観が保たれています。
山の上には松が生えていました。その中にお宮がありました。海の方から吹いてくる風が、松のこずえに当たって、昼も、夜も、ゴーゴーと鳴っています。
人魚塚近くの砂丘の上、松林内にある諏訪神社は小説の描写そのままでした。 風と海の音だけが聞こえる境内に、献じられた灯籠が並んでいました。
小川未明(1951)『小川未明童話集』新潮文庫,257p.に収録された「赤いろうそくと人魚」からの引用です。
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2011年09月09日
日本橋架橋100周年記念
- 街道(みち)の数だけ日本がある- 日本橋『日本百街道展』開催中!
NPO法人全国街道交流会議「街道交流首長会 」 は、名橋「日本橋」保存会、日本橋架橋100周年記念事業実行委員会と共催で、「-街道(みち)の数だけ日本がある- 日本橋『日本百街道展』」を、地下鉄( 東京メトロ)三越前駅の銀座線と半蔵門線との乗換通路 〜公式には東京都中央区日本橋室町の国道4号地下歩道で開催しています。
日本橋は、徳川家康公の初入府(1590)から13年後の慶長8年(1603)に架けられ、翌年慶長9年 (1604) に四代将軍家綱の代になって五街道の起点として定められました。日本橋はお江戸の街の中心であるばかりでなく、徳川幕府が関東平野に張り巡らした内陸水運のターミナルでもありました。今でも日本の道路網の起点であり、橋の中央に道路原標が設置されています。現在の石造り2連アーチの美しい橋は、いまや日本を代表する橋となっています。
街道の起点である日本橋が現在の橋になって100周年を迎えるにあたり、街道景観の保全・活用や街道文化への関心を喚起することを目的とする展示の、スケジュールは次のとおりです。
○「日本百街道展 特別展」8月20日(土)〜 9月21日(水)
○「木曽中山道展」 9月23日(金)〜10月23日(日)
○「因幡街道展 」 10月25日(火)〜11月24日(木)
○「しずおか東海道展 」 11月26日(火)〜12月25日(日)
優美なアーチを描く江戸時代に架けられた木橋は、歌川広重による「東海道五十三次之内 日本橋 」など、多くの絵画の題材にもなりました。日本橋川には、全国の物産が集まる河岸(かし)が多数立地し、当時の貨物輸送の主力だった全国の水運のネットワークがすべてここに繋がっていました。下総国香取郡佐原村で醸造業・河岸問屋を経営し、また村の役職も担っていた伊能三郎右衛門〜若き日の忠敬は、商用や佐原河岸の公認を巡る幕府との交渉などで、日本橋付近の河岸に何度も降り立ったはずです。
江戸は火災の多い都市で、日本橋も何度も火事でやけ落ちその度に架けかえられてきました。明治44年(1911)、東京市の技師米元晋一(よねもとしんいち)の設計と大蔵省臨時建築部長の妻木頼黄(つまきよりなか)の監修による、橋長 27 間(約49m)、幅員15間(約27m)のルネッサンス式石造石拱橋が完成し、百年を経て現在に至っています。この間、関東大震災(1923)や戦災(1945)に遭いながらも、美しい姿を保ちつづけたのは奇跡としか思えません。
また、日本橋が国道4号(旧奥州街道)で東北地方に通じていることを踏まえ、「よみがえれ! みちのくの街道 」コーナーにて、奥州街道や岩手県陸前高田市から青森県八戸市まで三陸海岸の各地点を結ぶ三陸浜街道など、街道の歴史や風景を写真や史料で紹介し、この度の東日本大震災で被害を受けた道路やその復興状況も展示されています。これと併わせて震災復興を応援する「みちのく街道復興支援市」が毎週金、土、日に開かれ、東日本各地からの特産品などの販売応援がされることになっています。ちなみに開催日初日と二日目は、福島特産の桃の試食販売だったそうです。 今が旬の美味しい桃の購入には風評被害など考えない方が多く、「黄金桃」はちょっぴり酸味があり美味しく、「まどか」はあまくて大好評ということでした。こういうニュースを聞くと何だか嬉しくなりました。
会場は東京メトロ三越前駅の半蔵門線と同銀座線との乗換コンコースの一部となっています。日々お忙しい方も、通勤途上あるいは少し足を伸ばしてデパートでの買い物も兼ねて、お立ち寄りになってみてはいかがでしょうか。日本橋の街がちがって見えてくるかもしれません。
2011年08月19日
墨東( 旧・寺島町)を歩く(後編)
江戸 〜 東京の街歩き。NHKの人気番組『ブラタモリ』もその興味のなかで視聴したひとも多いと思われます。しかし、そこはタモリ氏、単なる懐旧趣味に陥ることなく、街路を這いつくばり坂をよじ登って見出す高低差から、江戸〜東京の地理的な成りたちに迫っていました。
前回に引き続き、永井荷風『墨東綺譚』(原題で「墨」は、さんずい辺に墨の旧字体、以下同様)をベースに、作者の永井荘吉氏(荷風)と主人公の大江匡氏との3人連れの散歩を続けましょう。
[東向島(旧・玉の井)](承前)
大江氏は、東武鉄道玉の井駅の少し北千住寄りで線路と交差している土手に夏草をかきわけて登り、街並みを見下ろします。この土手は、刊行前年の1936(昭和11)年に廃止された京成電気軌道(現・京成電鉄。以下「京成」)白鬚線の築堤跡です。
崩れかかった石段の上には取払われた玉の井停車場の跡が雑草に蔽われて、此方から見ると城址のような趣をなしている。
梅雨期に雑草に蔽われた場所では蚊に襲われはしないか、という野暮な詮索はさておき、ここで言及している「玉の井停車場」は、京成白髭線にあった、もうひとつの玉の井駅です。廃墟や城跡は、ひとを惹き付けるものがあります。主人公を先ずここに登らせたのは、小説の舞台となる街を俯瞰することが目的でしょうが、同時にこの作品の基調となっている過去の風物への郷愁をいっそう喚起する意味合いもあったのかも知れません。
東京から千葉県北部に路線網を持つ京成は、東武の浅草雷門への乗り入れと同じ年に、青戸から分岐する別線で隅田川に架橋し、上野に乗り入れます。東武、京成の両社が、渡河に至るまでの試行錯誤の跡は、地図にも表れています。
京成白鬚線は、1928(昭和3)年に当時のターミナル押上駅から2駅目の向島駅(今はない)で本線から分岐し、隅田川左岸(東岸)の白髭神社付近まで開業した路線でした。1947(昭和22)年発行の1:25,000地形図「東京首部」では鉄道路線は修正の対象になっておらず、すでに無い京成白髭線の表示がそのまま残っています。下り向きに分岐しており、白髭橋を渡った対岸にある、同じ軌間( 1372 mm )の王子電気軌道(現・都電荒川線)は郊外をむすぶ路線であり、はたして都心乗り入れを意図した路線だったのかどうか判然としませんが、みるからに半端な区間です。
荷風のもうひとつの代表昨『断腸亭日乗』によると、小説の取材のために玉の井を頻繁に訪れるのは1936(昭和11)年になりますが、その前にも何度かこの近辺を散策し、営業中の京成白髭線も目撃しているハズです。高い建物が少ない当時、築堤を走る白髭線の視覚的な存在感は大きかったに違いないのですが、『日常』にそれらしい記述はありません。
京成玉の井駅跡から隅田川河畔にかけては、江戸時代に設けられた民間庭園で現在は東京都が管理している向島百花園、古い太陽神とみられる猿田彦命を祀る白髭神社など、向島の歴史を伝えるスポットがあります。旧町名「寺島」は、小学校の名に残っています。一方、東へ水戸街道との間にかけては、かつての畦道をそのまま路地にしたような迷路のような街並みで、昭和戦前期には私娼街だったそうです。この街を取材しながら荷風が描いた手書きの地図が『断腸亭日乗』に掲載され、さらにそれを基に挿絵画家が描いたと思われる地図が『墨東綺譚』に載っています。
築堤を降りた大江氏は、この迷路に踏み込んですぐ夕立に遭い、傘をさしたところに若い女が飛び込んできて『奇譚』の本筋が始まるわけです。ドブ川が匂い立ち、蚊が跋扈する迷路の街を背景に、そこに暮らす女神(ミューズ)のようなヒロインお雪さんと主人公との交歓を、荷風はわりと乾いた筆致で描いています。
玉の井の街の大半は1945年の空襲で焼かれ、今では平凡な下町ですが、迷路然とした路地のパターンは殆ど変わらず、一部の建物には歓楽街だった頃の面影が残っています。
東向島付近(1:10,000地形図「青戸」の一部に加筆)
[鐘ヶ淵]
伊勢崎線は東向島を出ると鐘ヶ淵に向かって高架から地上に降りていきます。京成白髭線跡を横切っているハズなのですが、築堤は跡形もありません。土地条件図をみると、付近の地形は埋土であり0mの地盤高線がみえます。地盤沈下に伴い、築堤を構成していた土は、周囲の地盤に埋没してしまったのでしょうか。
鐘ヶ淵の名は、「お寺の鐘を小舟に積んで隅田川を渡ろうとしたところ、舟が傾いて鐘が沈んでしまい・ ・ ・ 」、という由来だそうです。明治時代の殖産興業政策に沿って設置された鐘ヶ淵紡績工場の後身が、有名な化粧品会社です。
鐘ヶ淵駅構内は広く、片隅に大型の保線機械群が昼寝をしています。これとは対照的に狭い駅前には、6方向からの道が集まって踏切となっており、朝夕の交通事情が気になりますが、それぞれの道は適度に狭く、歩きやすい活気のある商店街となっています。
[堀切]
東武伊勢崎線は、鐘ヶ淵駅と堀切駅の構内でそれぞれ急カーブを描き、その間は荒川の堤防に張り付くように走っています。1902(明治35)年開業時には、もっと緩いカーブで東側を回り込んでいましたが、荒川放水路(現・荒川)の開削(竣工は1930(昭和 5)年)によってつけ替えられました。河川敷では、天気の良い日には大勢のひとびとが散策したり運動したりしていますが、あまりに広大なため少々歩いたくらいでは景色が全く変わらず、ある意味で街歩きより疲れます。
堀切駅は、旧・荒川本川の隅田川と放水路との間隔が狭まった付近にあります。今は対岸にある菖蒲園の最寄り駅でしたが、放水路によって分断されてしまいました。堤防脇の小さな駅舎はローカル線の駅のようで、明治学院大学の原武史教授は「いま永井荷風が散歩に降り立ってもおかしくない雰囲気をとどめている」と評しています。
1932(昭和7)年1月、永井荷風は堀切駅に降り立ちます。そして、竣工間もない放水路の水辺を散策し、その数日後に初めて玉の井を訪れています。
見渡すかぎり枯蘆の茫々と茂りたる間に白帆の一、二片動きもやらず浮かべたるを見る
放水路の眺望を好んだ荷風は、ここを何度も訪れ、エッセイ「放水路」を書き上げます。堀切駅前には、墨田水門から隅田川をつなぐ短い堀割があり、首都高速の高架橋がその上空を通っていますが、この堀割がかつての綾瀬川の旧流路であることを、「放水路」のなかで推察しています。
放水路の水辺と、その周辺の風物に創作意欲をかき立てられた荷風は、さらに勢いづいて寺島町を取材、そして『墨東綺譚』の上梓となっていくわけです。
斜体文字は、『摘録断腸亭日乗』(岩波文庫)および『墨東綺譚』(岩波文庫)からの引用です。
2011年08月05日
古地図を片手に江戸〜東京の街歩きが、趣味の一分野として定着しています。
目的地に行くための手段としてではなく、風物を観察しながら歩き回る「散歩」を最初に実践しエッセイとして公表したのは、永井荷風( 1879-1959 )といわれています。今世紀に入った頃から、定年を迎えようとしている中高年男性の一部を中心に、荷風の何者にも束縛されない生き方に共感した街歩きが、静かなブームとなってきました。さらに、究極の「おひとりさま」としての荷風の生活に価値を見出す女性も増えているようです。
永井荷風の街歩きに関わる代表的な著作は、江戸切絵図を片手に散策する『日和下駄 一名 東京散策記』(1915)でしょう。 目次をみると「日和下駄」「淫祠」「樹」「地図」「寺」「水 附渡船」「路地」「閑地」「崖」「坂」「夕陽 附富士眺望」とあり、一部に古めかしい用語はあるものの、地理学・地図学の参考書にそのまま使えそうな項目が並んでいます。「富士眺望」とくれば、筑波大付属高の田代博さんが主催する「山の展望と地図のフォーラム」の前身のようにも思えます。
荷風の作品には、『日和下駄』以外にも、エッセイやフィクションに関わらず、舞台となった場所の生き生きとした描写が特徴です。代表作『墨東綺譚』(1937)では、作者自身がモデルと思われる主人公・大江匡が次(原題で「墨」は、部首はさんずいに墨はつくり字体、以下同様)のように語っています。
小説をつくる時、わたくしの最も興を催すのは、作中人物の生活及び事件が開展する場所の選択と、その描写とである。
「墨東」とは隅田川の東岸の土地を表し、いまの墨田区とほぼ同じ範囲とみられ、今では、2012年に完成する東京スカイツリーを間近で眺めようとするひとびとで賑わっている界隈です。永井荘吉氏(荷風)と大江匡氏との3人連れで、東武伊勢崎線に沿って歩いてみましょう。
[業平橋]
いままさに東京スカイツリーが建っている現場です。浅草駅から東武伊勢崎線に乗って最初の駅。ホームからあまりに近いので、首が痛くなるほどに見上げることになります。駅周辺の食堂や商店では、スカイツリーに因んだ商品も提供し、いつも賑わっています。
そば処 かみむら、名物「タワー丼」
業平橋の駅名は、平安時代の歌人・在原業平に由来します。藤原氏との抗争に敗れ、無冠のままでの諸国放浪は『伊勢物語』のモデルになっています。『古今和歌集』の撰歌となっている、
名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと
という歌は、隅田川の渡舟で詠んだとされています。駅前を通る道路を北西に行くと隅田川を渡る言問橋に至ります。
業平橋駅は、1902(明治35)年に吾妻橋駅として開業し、一時休止をはさんで、1910(明治43)年に浅草駅と改称され、長らく東武鉄道(以下「東武」)のターミナルでした。1931(昭和6)年、隅田川に架橋して浅草雷門(現・浅草)駅を開設したとき、現行名となりましたが、広い構内を活かして操車場や貨物駅が併設されていました。貨物駅は2003(平成5)年に廃止され、不要となった広い敷地が東京スカイツリーの建設地となりました。2012年のスカイツリー完成に併せて「東京スカイツリー駅」に改称される予定です。
1:25,000地形図「東京首部」1947年修正
[曳舟]
スイカイツリーの建設現場を右にみて、北へ急カーブを描くあたりから、いろいろな鉄道路線が絡み合ってきます。地下鉄半蔵門線から押上駅を経てきた線路が、地下からせり上がってきて上下線の間に分け入り、直ぐ脇をかすめた京成線の下をくぐってきた亀戸線がさらに合流し、3路線併せて曳舟駅に入ります。周辺は、いかにも「昭和」のイメージそのままの商店街と、工場跡地に新築された高層マンションとが隣り合っています。
駅名は、江戸時代に古利根川から引かれた葛西用水路の、江戸近郊での通称「曳舟川」に由来します。江戸に集まる物資を満載した高瀬舟を、水路沿いの道から牽く航行法がそのまま水路の名となりました。隣の押上駅とで「押し・曳き」というペアになりますが、地元の資料によると、水路に江戸湾の潮が常に「押し上がってきた」ことに由来するそうです。
大江匡氏は、小説の取材のため、「六月末の或夕方」に、東武の玉の井駅周辺、当時の町名では寺島町を訪れます。
踏切の両側には柵を前にして円タクや自転車が幾輛となく、貸物列車のゆるゆる通り過るのを待っていたが、歩く人は案外少く、貧家の子供が幾組となく群をなして遊んでいる。降りて見ると、白髯橋から亀井戸の方へ走る広い道が十文字に交錯している。
現在の、水戸街道(国道6号)と明治通との交差点で、今とはかけ離れた光景です。伊勢崎線は高架化され踏切はなくなりました。玉の井駅は町名変更に合わせて東向島駅に改称されていますが、駅名標には旧名が併記されています。高架下には東武博物館が設けられ、蒸気機関車から1世代前の特急電車までの実車展示、関東平野を模した鉄道模型ジオラマ、電車やバスの運転シミュレータが揃い、夏休み期間中は鉄道好きの少年達が集まってきます。
(つづく)
水戸街道(国道6号)を跨ぐ東武鉄道と背景のスカイツリー
斜体文字は『古今和歌集』『墨東綺譚』からの引用です。
2011年07月08日
地震・防災関係の書籍が相次いで刊行されています。本年(2011年)6月9日に発行された寺田寅彦『天災と国防』(講談社学術文庫)もそのひとつで、「津浪と人間」など災害について言及したエッセイ12編が収録され、これに失敗学に関わる著作の多い畑村洋太郎東京大学名誉教授による38ページにも及ぶ解説が付いています。この解説自体が、自然災害に関わる危機管理についての小論となっていて、充分に読み応えがあるのですが、ここでは寺田の著作をみていきましょう。
寺田寅彦(1878−1935)といえば、東大地震研究所に勤めた地球物理学の研究者であるとともに、夏目漱石門下のエッセイストとしても知られています。「天災は忘れた頃にやってくる」はあまりにも有名です。この言葉を文字通り書いた文章は無いといわれていますが、本書に収められた12編のなかで、同趣旨の考察が何度も書かれています。
今回の東北地方太平洋沖地震・津波は千年に一度の規模といわれています。ただし三陸海岸に限っていえば、明治三陸津波(1896年)以降、顕著な災害をもたらした津波が襲ってき間隔は、37年、27年、51年です。ひとが忘れないうちに対策を施し得る期間内にあるように思えるのですが、寺田はこう書いています。
さて、それから更に三十七年経ったとする。その時には、今度の津浪を調べた役人、学者、新聞記者は大抵もう故人となっているか、さもなくとも世間からは隠退している。
(中略)
津浪に懲りて、はじめは高い処だけに住居を移していても、五年たち、十年たち、十五年二十年とたつ間には、やはりいつともなく低い処を求めて人口は移って行くであろう。そうして運命の一万数千日の終りの日が忍びやかに近づくのである。
(中略)
これが、二年、三年、あるいは五年に一回はきっと十数メートルの高波が襲って来るのであったら、津浪はもう天変でも地異でもなくなるであろう。
大津波の発生間隔が5年として、天変地異でなくなるかどうかは微妙なところですが、近代以前には毎年発生する規模の洪水氾濫は織り込み済みの土地利用がなされていたことを念頭に置いたのかもしれません。37年を日数で読み替え、発生頻度に関する属性を仮に変えてみたりと、視点の大幅な転換が、寺田のエッセイにはよくでてきます。自然現象を見直すために効果的なこの手法は、SFでよく使われます。次のような一節があります。
夜というものが二十四時間ごとに繰返されるからよいが、約五十年に一度、しかも不定期に突然に夜が廻り合せてくるのであったら、その時に如何なる事柄が起るであろうか。
「津浪と人間」の初出は、昭和津波直後の1933年。その8年後、寺田の課題提起に応えたようなSFが書かれました。アイザック・アジモフ(1920−1992)「夜来たる」(1941)です。6つの恒星からなる多重連星系にある惑星に、2500年ぶりの夜が訪れる。その惑星に住む知的生物は、高度な文明を築いていたが、文明の絶頂期を迎えるたびに炎上し滅びてしまうという伝説があった。夜を知らなかった彼らが、実際の夜の闇に直面し、恐怖に駆られて周囲のものに火をつけはじめ、伝説は現実のものとなる、という話です。
津波災害の懸念が三陸だけではないことにも言及されています。その懸念は寺田没後の1944年に起きた東南海地震、1946年の南海地震で現実となりました。過去の災厄の経験に学ぼうとしない社会に、寺田は軽妙な筆致のなかにも、強い警鐘を鳴らしています。しかし結びにあたって、未来に希望を託しています。
人間の科学は人間に未来の知識を授ける。
災害に関する科学知識の水準を高めることによって、天災の予防が可能になる。その水準を高める原動力として、寺田は教育の重要性を掲げています。
☆ ☆ ☆
寺田寅彦の作品は、作者没後50年を越えて著作権が消滅し、人類共有の財産となっています。青空文庫版(http://www.aozora.gr.jp/)を基に部分引用しました。
(財)日本地図センターは、東日本大震災で被災された学校へ地図や図書などを寄贈しています。→ 東日本大震災被災学校への地形図等の配布についてhttp://www.jmc.or.jp/other/earthquake110314/repo2.html
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2011年06月10日
東北地方太平洋沖地震/東日本大震災 (3) 須知徳平「三陸津波」
今回の大津波をきっかけに、吉村昭(1927−2006)が1970年に発表した『三陸海岸大津波』 が売れているといいます。近代以降、この作品が書かれた1960年代までに三陸地方を襲った明治三陸津波(1896年)、昭和三陸津波(1933年 ) 、チリ地震津波(1960)年について、岩手県下閉伊郡田野畑村などでの被災体験者への取材をもとにしたルポルタージュで、客観的な記録だけでなく、明治、昭和戦前期、昭和戦後期とそれぞれの時代のひとびとの防災意識などが語られています。
三陸津波について書かれた作品は他にもあります。それらのなかから、今回は岩手県出身の児童文学者である須知徳平の「三陸津波」を、次回には物理学者でエッセイストでもあった寺田寅彦の「津浪と人間」をとりあげます。
「三陸津波」は、明治の津波で夫を、昭和の津波で息子を失いながらも、下閉伊郡田老村 ( 当時 )で一生を過ごし、 チリ地震津波の前年に天寿を全うした女性の物語です。吉村作品がどちらかといえば記録性が強いのに対し、こちらはフィクションなのですが、背景として興味深い実名エピソードが紹介されています。
地震学者の今村明恒(1870−1948 )が、明治の津波について国際学会で報告したとき、壊滅的だった田老のそれよりも被害が比較的小さかった釜石の写真の方が、外国人研究者には強い印象を与えたのだそうです。波高5.4m* だった釜石では、瓦礫や陸に乗り上げた船舶などの凄惨な光景であるのに対し、波高15m* で全人口の7割以上が犠牲となった田老では人工物が全て流され、自然の砂浜と区別がつかなくなったためです。
作者の須知徳平(1921−2009)について、ご存じない方も多いかもしれません。少し前の五千円札に描かれた新渡戸稲造の『 武士道 』が1998年に再刊されたときの、英語で書かれた原作の日本語訳者です。が、それよりも「ミルナの座敷」の作者といえば、ある年代の方々はピィーンと来るのではないでしょうか。
1972年、NHK少年ドラマシリーズのひとつとして、須知徳平原作「ミルナの座敷」は放映されました。作者はこの前後の時期に、中・高校生向けの小説を多く手がけています。師事した折口信夫(1887−1953)の影響を受けた、民俗学的な事柄を背景に展開するミステリ仕立ての作品群を、当時の少年たちはワクワクしながら読んだものです。
「三陸津波 」は、作者が少年時代に住んでいた宮古で昭和の津波に遭遇し(波高3.6m*)、また地方行政官として災害救助に携わった父親をとおして交流のあった、被災家族の話などから着想を得たのでしょう。 桃の節句の未明、海底を浚う引き潮からやがて砲声のような衝撃音が聞こえ、閃光に照らされて押し寄せてくる津波の迫真の描写は、実体験した作者ならではのものがあります。
この作品は、講談社文庫から1978年に刊行された『春来る鬼』に収められています。なお表題作も1989年に小林旭の監督で映画化されました。現在は絶版のようで、古本でしか入手できないのが残念です。
* 三陸津波での各地の波高については、羽鳥徳太郎(2009)「三陸大津波による遡上高の地域偏差」.歴史地震, 第24号から引用しました。
[おことわり]今回紹介した著者や研究者は、いずれも評価が確立した方々なので、敬称は付けていません。
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2011年05月20日
新緑の時期になり、ウォーキングに最適な季節が訪れました。そこで今回は、短時間で歩けてNHK大河ドラマの今年の主人公「江」(「江姫」)が眠る増上寺 (東京港区)を中心に回る『見にウォーク』と称して「地図の散歩道」でご紹介します。
*都営大江戸線大門駅〜大門〜三解脱門(三門)〜増上寺(徳川将軍家霊廟)・貞恭庵〜東京タワー(「江」展)
【歩行距離】3.2Km 【歩行時間】約2時間 
NHK大河ドラマ「龍馬伝」はかなり盛り上がりましたが、それに続く「江〜姫たちの戦国〜」も好調なスタートをきりました。 男性中心の戦国の世を生き抜き、平和で安定した江戸時代の始まりに影で貢献した強くしなやかな女性「江」にあやかろうと放送開始以来多くの女性参拝客が訪れているようです。
はじめに「江」が夫 ・秀忠公と一緒に眠る増上寺をめざします。都営地下鉄大江戸線大門駅 (A6) 出口を目指して歩いていると、1904(明治37)年の東京の巨大パノラマ写真が壁に掲示されています。地上に出るとそこは大門通り。浄土宗大本山増上寺の総門・表門にあたり、地名の由来になっている大門をくぐります。
*明治37年の東京増上寺近辺(1904年)
*この大門は増上寺の総門ですが、昭和12年に造られた比較的新しい建造
その先約200m(108間)には、国の重要文化財である三門がどっしりと構えています。増上寺の表の顔として、東京都内有数の古い建造物であり東日本最大級を誇るこの門は、浄土宗大本山の中門にあたり、正式名称を三解脱門といいます。この門は三つの煩悩「むさぼり・いかり・おろかさ」を解脱する門ということになります。門をくぐると何となく身を清められた感じがします。

*三門(三解脱門)
*【増上寺と東京タワー】 お江戸と東京がマッチングした不思議な写真スポット
増上寺は1393年(明徳4年)に開かれ「江」の義父である徳川家康の帰依をきっかけに、徳川家の菩提寺に選ばれ発展し、徳川将軍6名と将軍らの正室たちも眠っています。本殿の右側に回ってその徳川将軍家霊廟を目指します。霊廟には荘厳な鋳抜門 (葵紋) が配され、昇り龍と下り龍が鋳抜かれています。思わず歴史の重みに圧倒され言葉にいい表せない印象がしました。墓所の一般公開は年に数回ですが、今年は4月15日(金)〜11月30日(水)まで特別公開されます。拝観料は500円で記念品として絵葉書がつきます。時間は10時〜16時までです。

徳川将軍家霊廟に向かって左へ進み、増上寺本堂の裏手に抜ける途中左奥に、「貞恭庵」があります。和宮(十四代家茂公正室)ゆかりの茶室です。この貞恭庵は、茶室としてはめずらしい雨戸のある茶室です。これはお客様を迎える茶室としてだけではなく、生活をしていた場でもあるそうです。
茶室「貞恭庵」で抹茶と和菓子いかがでしょうか?
【開催日】5月22日(日)、6月26日(日) 【時間】10時〜16時
【場所】貞恭庵(会費1,000円)
そして最後に向かうは、東京タワーです。この地は、二代将軍・秀忠公が江戸城から楓を移植し、お江のために紅葉山を築いた場所と言われています。3階特設会場では平成23年2月26日(土)〜12月25日(日)10時〜20時30分まで、波乱万丈の人生を歩んだヒロイン「お江」をテーマに東京タワー 「江」 展が好評開催中です。展示は無料・有料ゾーンに分かれており、無料ゾーンでは大奥・御鈴廊下が再現されており、思わず撮影してきました。また、隣のお土産コーナーには、お江にまつわるグッズがたくさんあり一番の売れ筋の「お江」のれん(ピンク)を教えて頂きました。
現在は東京タワーが建ち、江と秀忠の時代に紅葉山が築かれたこの場所は、地形学的にみると、温暖化で海水面が今より少し高かった縄文時代には海に突き出した岬でした。思想家・哲学者である中沢新一氏の著書『アースダイバー』(2005)によると、ここは縄文時代から現世と幽冥界とを繋ぐ聖地であり、死者の霊があの世に還っていく場所ともされていたそうです。東京タワーは、それを計画し建設したひとびとが必ずしも意図せずに造りあげた、天と地とを結ぶ架け橋の象徴ということなのでしょう。
この芝増上寺から東京タワーにかけてのエリアは、都心なのに緑も多く、この時期の散策には最適です。江を通して江戸の始まりに想いを馳せ、さらに縄文の昔まで見通すこともできるこの場所は、もしかすると東京最強のパワースポットなのかもしれません。

*大奥・御鈴廊下
*「お江」のれん(ピンク)1,575円(税込)
*東京タワー「江」展の詳細は、下記Webサイトをご覧ください。
http://www.tokyotower.co.jp/cgi-bin/reg/01_new/reg.cgi?mode=1&no=1438
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2011年05月13日
東北地方太平洋沖地震/東日本大震災 (2) 最大規模の地震
今回の地震はモーメントマグニチュード(Mw)9.0で、日本列島付近で観測された最大の地震となりました。 文書記録から推定した近代以前の地震を含め、 これまで最大規模だった地震は、1707年に発生したMw8.7 の宝永地震でした。この地震は、駿河湾から紀伊半島沖〜四国沖にかけての駿河トラフ 〜南海トラフで、概ね百年毎に発生している大地震のなかでも、トラフ沿いの一連の断層が同時に活動したと見られる地震で、今世紀中の再来が懸念されている「東海・東南海・南海地震」のなかでも最大のものでした。一方、東日本沿岸の太平洋沖にある日本海溝付近では、次の発生が迫っているとされてきたマグニチュード (M) 7クラスの宮城県沖地震はじめ、海溝沿いの各地域で各々数十年間隔でM7.0〜7.5程度の地震が起きていて、政府の地震調査研究推進本部では、各地域毎の長期評価を公表していました。そしてこれらの地域では、津波災害が大きな課題でした。
岩手県南部から宮城県北部の三陸海岸はいわゆるリアス式で、山地・渓谷がそのまま海に没した形の湾や入江が連なり、これまで数十年間隔で大きな津波を被ってきました。一方、仙台平野から福島県の浜通り地方にかけては直線状の浜が続き、三陸海岸に比べて津波被害は小さいとされてきました。
ところが、平安時代に編纂された『日本三代実録』には、869(貞観11)年に陸奥国で大地震が発生し津波によって仙台平野にあった国府が被災したという記述があります。また、これに関係しているらしい伝承が、茨城県、福島県、宮城県の沿岸部に断片的に伝わっています。独立行政法人や大学の研究者たちが、仙台平野で地質調査を行ったところ、 これらの古記録を裏付けるような津波堆積物を見出し、数十年間隔の地震・津波より一回り大きな地震・津波が数百年〜千年に1度くらいの間隔で起こっていたらしいことが判ってきました。この研究は、2007年の第173回地震予知連絡会で報告されました。
いま率直にふり返ると、当時は本格的な調査研究が始まったばかりで、一部の研究者は危機感を持っていましたが、多くの関係者には「こんなことも起こり得るかも知れない」と考え始めた段階ではなかったかと思います。その後3年間で調査研究が進みました。過去3千年間に貞観津波含め4回の大津波があって、このうち2回は日本海溝の地震によることが明らかになり、津波の到達範囲から見積もられた貞観地震の規模はM8.4と推定されました。この調査研究結果は、政府の地震調査研究推進本部の長期評価へ反映され、本年度にも公開される手筈になっていたそうです。
しかし、自然は人間の営みや都合など一顧だにせず、その圧倒的な力を見せつけました。2011年3月11日、推定されていた貞観地震よりさらに大きな地震と大津波が発生し、それによって引き起こされた東日本大震災に、いま日本の国が総力で取り組んでいるのです。
東日本大震災で被災された方々に謹んでお見舞い申し上げるとともに、救援活動等に携わる方々の安全・無事を願い応援いたします。
「地震・津波に関連する地図類を紹介するWebページ」へはhttp://www.jmc.or.jp/other/earthquake110314/にリンクします。
2011年04月22日
2011(平成23)年3月11日14時46分頃、三陸沖(北緯38.1度、東経142.9度、牡鹿半島の東南東130km付近)の深さ24kmを震源とするモーメントマグニチュード(Mw)9.0 の巨大地震が発生しました。
この地震により宮城県北部の震度7をはじめ、東北地方から関東地方にかけての広い地域が強い地震動に見舞われ、さらに同地域太平洋沿岸を中心に、最大波高9.3m 以上(相馬市)・最大遡上高約39m(宮古市)の大きな津波が来襲しました。気象庁はこの地震を「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」と、また英語名として「The 2011 off the Pacific coast of Tohoku Earthquake」と命名しました。
政府の緊急災害対策本部の4月17日付け資料によると、この地震・津波による人的被害は、死者13,756名、行方不明14,141名、負傷者4,928名、建築物被害は、全壊58,384戸、半壊16,344戸、一部損壊182,337戸、避難者136,470名という甚大なものとなっています。これに加えて、東京電力福島第一原子力発電所では、地震時に自動停止したものの、地震動や津波による電源喪失で炉心冷却機能が失われ、懸命な防護活動により数量は低下しつつも、放射性物質の拡散が続いています。さらに生産拠点や発電所の被災により、直接的な被災地以外でも、産業や日常生活への影響もでてきています。
政府は4月1日の持ち回り閣議で、東北地方太平洋沖地震と津波およびこれに伴う原子力発電所事故による災害について、「東日本大震災」と呼称することと決定し、対策組織等の名称に用いることになりました。
顕著な被害地震では、自然現象としての地震とそれによって社会が 被った災害(震災)と、それぞれに固有名が付けられ、両者は区別して扱われます。関東大地震と関東大震災(1923年)、兵庫県南部地震と阪神・淡路大震災(1995年)などがこれまでの例です。
東北地方太平洋沖地震のMw9.0という規模は、兵庫県南部地震(M7.3)の数百倍にあたります。これほどの規模になると個々の余震の規模も大きく、単独で起きても「大地震」とされるM7クラスの余震がいくつも起きています。
緊急災害対策本部が毎日公表している人的被害数と建物被害数も、本震発生から1ヶ月以上経過した現在も増え続けています。この災害の規模が空間的に大きいだけでなく時間的にも大きく、未だ状況把握の段階を脱していないことを物語っています。
このように東北地方太平洋沖地震/東日本大震災では、広大な地域での復旧・復興と並行して余震も含め被害時の初動や状況把握を行うという、長期にまたがる広域で多面的な対策を余儀なくされています。(財)日本地図センターも、地図や地理情報を活用して、震災対策を支援していきたいと思います。
当センターで扱っている、地震・津波に関連する地図類を紹介するWebページを掲載しました。また『地図中心』誌では、本年5月号の特集を急遽「東日本大震災速報」とし、現時点での地震と震災の記録を伝えていくこととしました。
地図中心5月号目次はこちらへ
東日本大震災で被災された方々に謹んでお見舞い申し上げるとともに、救援活動等に携わる方々の安全・無事を願い応援いたします。
「地震・津波に関連する地図類を紹介するWebページ」にhttp://www.jmc.or.jp/other/earthquake110314/index.html/リンクします。
第15回地図地理検定まで2ヶ月を切りました。地図地理検定の受検を決めかねているあなた! 本番前のウォーミングアップとして練習問題に挑戦してみませんか?
(問1) ユニバーサル横メルカトル図法について述べた文として最も適当なものを、次の 銑い里Δ舛ら一つ選んでください。
面積関係が正しい正積図法である。
航程線(等角航路)が直線で示される図法である。
16世紀の地図学者メルカトルが考案した図法である。
現在、国土地理院の地形図に使われている図法である。
(問2)京都の地名について述べた文として適当でないものを、次の のうちから一つ選んでください。
一条、二条など数字のついた通りは、北にある通りのほうが少ない数を使う。
平安京当初の朱雀大路は、現在の烏丸通ではない。
番地は、御所に向かって通りの右側が偶数、左側が奇数になっている。
左京区は東側に、右京区は西側にある。
解答と解説はこちらへ
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(問1) 正解は
世界の多くの国で、ユニバーサル横メルカトル図法が地形図の図法として採用されています。この図法は等角図法ですが、メルカトル図法とは違って、航程線((等角航路))は、一直線とはなりません。
参考資料---日本国際地図学会編『地図学用語辞典 増補改訂版』((技報堂出版/1998/6,6000円)
(問2) 正解は
京都市内の地名の付け方・呼び方には、他の都市にない特徴が沢山あります。
第15回地図地理検定お申込みはこちらへ
地図地理検定受検勉強には、まず過去の問題集にアタック !
「地図力かこもん」・「楽しい地図入門(改訂版)」 ・「地形図図式画報」・「地形図の手引き(五訂版)」などがあります。

2011年04月01日
いくつかの内乱を経て明治新政府が安定期に入った明治10年代の、東京中心部の姿を、1軒1軒の家屋や池の形状が華麗な色彩で描いた地図を復刻し、現在と照合できるよう新しい地図を基にした図葉ごとのオーバーレイを付けて大版の冊子にとりまとめました。
五千分一東京図測量原図では、当時の東京市街の広がりや土地利用の様子もわかります。明治維新により街並みは大きく変わりましたが、街道網は幕末の江戸そのままです。帝都防衛のために新政府が鋭意作製したこの地図は、120年以上経た今日、国土地理院に大切に保管されています。本書は、世界に唯一のこの原図を忠実に復刻したものです。
図葉ごとに用意されたオーバーレイを利用すれば、現在との位置関係を照合できます。また、同一地域を対象として、内務省地理局が刊行した「東京実測全図」も収録されています。この地図には地番が表記されていますので、各種の史資料に記録されている事物の位置確認に利用できるほか、文学作品を楽しむためにも大いに参考になるでしょう。
本書は、A3版。構成は、五千分一東京図測量原図が35面、東京実測全図が36面、当センター研究顧問で新宿区文化財保護審議会委員でもある清水靖夫先生による解説(3頁通常の冊子ならば6頁分)が付いています。定価は18,000円+税。(財)日本地図センターの地図の店(東京都目黒区)はじめ、いくつかの地図販売店で購入できます。
東京の街探検には欠かせない一冊です。
詳細はこちら
2011年03月11日
「地図展」は、地図にもっと親しんでもらおうと、毎年全国の主要都市で開催されている地図の世界の一大イベントです。第43回目は、東京都大田区の産業プラザPiO(京急蒲田駅徒歩3分)で、3月10日(木)から3月12日(土)まで「地図展in おおた」として催されています。サブタイトルとテーマは、「空から見た国際都市 大田 / 空から見よう、地図から知ろう、自分のウチ」です。
3月10日(木) :オープニングセレモニー
展示のみどころは、大田区全域1/2500最新航空写真(縦4.5m×横6.3m)と地図で見る大田の変遷6時期〔フランス式彩色地図(明治9〜19年)/明治後期の地図(明治39〜42年)/関東大震災直前(大正5〜10年)/昭和戦前期(昭和3〜11年)/高度成長期(昭和30〜35年)/10年前の地図(平成11〜17年)]の巨大フロア展示です。床面張り付けた地図や写真の上に乗って、日常目にしている景観とは違った上空から見下ろす視点で大田区をご覧いただき、街の歴史をたどることがでます。ご来場された皆様が、我が家や想い出の場所を確かめるべく、熱心にかがみ込んでご覧になっているのが印象的でした。

日本の地球観測衛星「だいち」が上空約700kmの軌道から取得した蒲田駅から羽田空港に至る付近の衛星画像にICタグを仕込み、ペン型センサで画像上の場所を指定し同じ場所の各種地図を表示する「時空ナビ」もあります。
日本の技術を支えるものづくりの街大田、海苔の街大森、戦前期に英国のGarden Cityに着想を得て開発された田園調布、大正昭和初期に流行の発祥地であった蒲田など、時代を先取りしてきた街の変遷を地図・写真で展示したコーナーには、地元の皆様が集まって懐かしい思い出など語られていらっしゃいました。そして何と言っても昨年平成22年10月21日、羽田空港に国際線ターミナルが開業し、32年ぶりに本格的国際空港に復帰した羽田空港。明治時代の一大行楽地から「Made in Japan 羽田オンリーワン」をコンセプトに楽しさ満載の空港に生まれ変わり、日本の玄関口の国際空港に変貌しつつある羽田の変遷を紹介するコーナーもあります。

本日11日(金)18時〜19時30分には、大田区観光協会の栗原洋三氏らによるパネルディスカッション「地図で楽しむ大田の観光」があります。お仕事帰りでも間に合いますので、ご来場をお待ちしています。12日(土)10時30分〜12時には地図研究家の今尾恵介氏による「地図でたどる蒲田・羽田の鉄道」、13時30分〜15時には地図研究家の清水靖夫氏による「五千分一東京図には何が描いてあるか」の講演があります。
http://www.jmc.or.jp/event/chizuten_ota/kouen.pdf
◆先着700名様にプレゼント
毎日先着700名様に『東京都内バス・ルートあんない』((財)国土地理協会編)を、ご来場者全員に「500万分1日本とその周辺」図柄のクリアファイルをプレゼントいたします。地図愛好家なら是非とも欲しい商品を“ご来場記念としてプレゼント”します。地図が大好きな人は、大田区産業プラザへ集合!
左:「東京都内バス・ルートあんない」 右:「500万分1日本とその周辺」クリアファイル
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2011年02月09日
霧島山の新燃岳(しんもえだけ)が噴火を起こしました。火山噴火予知連絡会の見解によれば約300年ぶりの本格的なマグマ噴火だということです。日本列島はここ数年大災害を引き起こすような地震も火山噴火もなく、比較的静かで平穏でしたが、地震列島、火山列島といわれる日本に平穏な日々はそう長くは続かないことを改めて実感したところです。今回の噴火では大量の降灰があり、周辺の住民の生活に多大なる影響を及ぼしています。長期間の活動継続も予想されるところですが、と幸いにも今回の活動による死者・行方不明者ゼロが続いていますので、早急な終息を願うばかりです。
霧島山は複数の火山体からなる火山群ですが、近年活発な活動を繰り返しているのは、今回噴火した「新燃岳」とその南東方向に位置する「御鉢(おはち)」です。御鉢はここ数百年ではもっとも活発で、幕末に坂本龍馬が妻おりょうと一緒に登った、天の逆鉾がある高千穂峰の真西わずか1km足らずの距離にあります。龍馬の登山コースは御鉢経由だったようですが、龍馬も噴煙を見ながら登山していたのでしょうか。霧島山は気象庁による活火山のランクではBとなっていますが、今回の噴火によってランクが1つ上がってランクAになるかもしれません。
現在、防災関連機関や大学等で様々な観測がされ、新燃岳の噴火の今後の推移を予測する努力がされているところです。火山にはそれぞれに固有の、噴火の「クセ」みたいなものがあるのですが、その「クセ」を把握するのが難しいようです。「クセ」には地震学的、測地学的な見地からの「クセ」と地形地質学的な観点からの「クセ」がありますが、北海道の有珠山が2000年に噴火した時は、地震学的、測地学的な「クセ」がだいたいわかっていたことにより、噴火直前に周辺住民を避難させることができました。地震学、測地学に関する近代的な観測がされるようになったのはせいぜいここ100年くらいですので、年中噴火を繰り返しているような火山であれば地震学的、測地学的な「クセ」はつかみやすいのですが、1990年から噴火が始まった雲仙普賢岳や今回のように何十年〜何百年ぶりに噴火する火山であればそうはいきません。
では、そのような火山は防災上どう対応すればよいのでしょうか。火山噴火といってもいろいろな現象があって、今回の新燃岳のように主に火山灰を出したり、伊豆大島三原山のように主に溶岩を流したり、雲仙普賢岳のように主に火砕流を起こしたりします。もちろんこれらの現象は複合的に発生することがほとんどであり、周辺に人がいれば多大なる災害をもたらすわけですが、実は火山はこれらの活動によってみずから成長し現在の山体を形作っているのです。つまり、山体をよく観察すると、これらの活動の過去の痕跡が残っているのがわかります。その痕跡とは、「地形」と「地質」です。この「地形」と「地質」を綿密に調査することで、溶岩流や火砕流がどの方向にどのように流れるかなどの地形地質学的な「クセ」を把握することができるのです。
物質は高い方から低い方へ流れるのは当たり前ですが、例えば溶岩が流れ下る方向に小高い山があったとします。ほんの小さい山であれば溶岩は乗り越えてしまうかもしれませんが、少し高い山であれば溶岩はそれを避けて流れます。火砕流も同じです。これは地形を見れば予測できることです。また、今回の一連の噴火では、爆発的噴火に伴う「空振」により、窓ガラスが割れるなどの被害が発生していますが、この空振被害をうけた建物の分布は新燃岳から見て地形的にさえぎる山がない地域に集中しているらしいのです。よく考えれば当たり前なのかもしれませんが、被害は地形にかなり影響されることがわかります。一方、溶岩がハワイのキラウェア火山のようにあたかも水が流れるがごとくさらさらと流れるのか、それとも雲仙普賢岳のように溶岩ドームを形成して火砕流を引き起こすのか、はたまた複合的な活動をするのか、これらは地質を見れば明らかとなります。
これらの特徴を地図で見ることができれば、防災上非常に有益です。霧島山は気象庁からランクBの活火山に指定されているため、地形・地質の詳細な調査が行われています。その結果として、国土地理院から「火山基本図」および「火山土地条件図」が、産業技術総合研究所から「火山地質図」が刊行されています。
火山基本図はいわゆる地形図の一種ですが、縮尺が1:10,000であり、等高線の間隔が5mと、精密な地形を把握することができます。また、火山土地条件図は、火山山体とその周辺の地形が、例えば溶岩流とか地すべりだとか、どのような成り立ちで形成されたのかを主に空中写真により解読し、わかりやすく色を付けて表現した地図です。これを見ることによって、新燃岳における今までの山体形成過程における「クセ」を把握することができ、今後も大まかには今までと同じ傾向で現象が発生するとすれば、新燃岳が溶岩を流したり、火砕流を発生させたりしたときに、どのような方向にどういった広がりで流れるのかといった大まかな傾向を把握することができます。火山地質図も火山土地条件図と似ていますが、火山土地条件図が主として「地形」からその成り立ち・形成を見ているのとは対照的に、火山地質図は「地質」という観点から、例えばその場所がどの火山から噴出したどのような溶岩で形成されているか、霧島山でいえば火山群の構成がどのようになっているかなどがわかるようになっています。火山土地条件図、火山地質図ともに地図の裏面などに、これらの地図の使い方や火山の地形的地質的特徴などが詳しく解説してあるので、火山基本図も併せ、これらを複合的に利用すれば、防災マップ作成などの防災対策上、非常に有用です。
なお、1:10,000火山基本図「霧島山」、1:30,000火山土地条件図「霧島山」、1:200,000数値地質図は、全国の地図販売店、地図センターのネット販売などで入手することができます。また、火山基本図から作成した数値地図10mメッシュ(火山標高)はCD-ROMで販売されています。これらに関するお問い合わせは日本地図センターの「地図の店」(TEL 03-3485-8120)までお願いします。
おわりに、今回の噴火で被災された方々に謹んでお見舞いを申し上げます。
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2011年02月04日
レギュラー登場人物のひとりが地図大好きな刑事、という設定の最近はじまったテレビドラマがあります。彼女は「地図力博士」も取得しているということなので、(財)日本地図センターが実施してきた地図力検定試験を受け最高レベルの成績を収めたのでしょう。
地図力検定試験は、地図の知識を豊かにし、地図を楽しく読み・使う力を養うことを目的とし、2004(平成16)年10月に第一回から概ね年に2回程度のペースで実施してきました。昨年は6月に第13回試験、そして11月には第14回試験を行いましたが、この回から名称が微妙に変わっていることに気づかれた読者も多いのではないでしょうか。
これまで地図力検定試験は(財)日本地図センターが主催していましたが、第14回試験から(財)国土地理協会に加わっていただき、両法人の共催で実施することになり、名称も「地図地理検定」と改めました。主催者や名称変更を機会に、試験問題に地図だけでなく地理や地名に関する事項を増やしました。また、試験問題が難しすぎるという指摘も多かったので、地図や地名についての一般的な知識を問う「地図地理検定(一般)」と、実務経験者、専攻・研究・指導者、あるいは趣味として深く関わっている方々向けの「地図地理検定(専門)」の2段階に分けました。
情報技術と測位技術の発達と融合によって、これまで地図表現とは馴染みのなかった情報も含め、位置に関わるデータを併せ持つことによって、世の中に在るあらゆる情報を地図のように扱うことが可能となってきました。
このように情報機器で扱う情報はコンピュータが扱いやすい仕様にして、人間には分析結果だけを文字や音声で知らせればよいと言うひともいます。しかし、最近の携帯端末を使った情報検索では、地図を媒介とする検索が7割以上を占めているというデータもあります。ひとが端末の小さな画面に表示された地図を目で見て操作するのですから、記号を含めた地図表現の工夫は不可欠あり、その基になる紙などに印刷された地図の重要性はますます高まっています。
地図地理検定は誰でも受験できます。受験資格は問いません。この検定により、地図・地理に関する知識・レベルが判定できますから、個人だけでなく教育活動にも活用できます。(一般)試験で高得点のひとは「合格」を、(専門試験)で高得点のひとは高い順から「地図地理力1〜3級」を、最高クラスの特典のひとは「地図力博士」改め「地図地理力博士」を認定します。詳しくは当センターのWebサイトをご覧下さい。3月下旬までには申し込み用紙付のリーフレットの配布も開始します。

写真:立正大学熊谷キャンパスでの受験風景.立正大学の地理学教室では、初年次学生を対象とした必修科目に地図地理検定を導入し、受験していただきました。
2011年01月18日
この記事が公開されるのは1月半ば過ぎ。毎年この時期の話題は、成人の日、大学入試センター試験そして阪神・淡路大震災(1月17日)でしょうか。
1995(平成7)年1月16日、広島から山陽新幹線の東京行き列車に乗り、午後4時頃に六甲トンネルを抜け兵庫県西宮市街を通過しました。その約13時間後、ニュース番組は、関西で顕著な地震があったこと、にもかかわらず各地の被害情報がほとんど入ってこないこと、そして放送局の窓から鉄道の高架橋の一部が崩れ落ちているのが見えることを報じていました。
阪神・淡路大震災(*)の原因となった兵庫県南部地震(マグニチュード7.3)は、明石海峡付近の地下14kmを震源とする、いわゆる直下型地震で、死者・行方不明者6千人以上、被害総額10兆円以上の都市型地震災害をもたらしました。淡路島では、『新版日本の活断層』(1991)などに活断層として記載されていた野島断層に沿って地表に断層のずれが現れ、「活断層」という用語が一般市民に知られる契機となり、活断層調査が政府の地震防災のための事業として行われるようになりました。
被害の集中した神戸市、芦屋市、西宮市付近の地表には顕著な断層のずれは確認されませんでしたが、地震動や地殻変動の観測から、六甲山麓から淡路島北部にかけて全長約50kmの断層群が活動し1〜2m程変位したとみられています。
この震災では、1960〜70年代に造られた建物や鉄道・高速道路の高架橋などの被災が大きく社会問題になり、耐震構造の見直しや既設構造物の耐震補強工事などが行われました。もちろん以前も無策だったわけではなく、建築基準法は1971年と1981年に大きく改正され、耐震基準はそのつど厳しくなってきています。
山陽新幹線は、西宮市内で阪急今津線を跨ぐ付近の高架橋が落ち、80日間不通となりました。一方、六甲トンネルをはさんで反対側孔口にある新神戸駅には顕著な被害はありませんでした。
1972年開業の新神戸駅は、六甲淡路断層帯を構成する活断層のひとつ諏訪山断層の直上にあり、新大阪方面のホームが断層の北側(山側)の地層に、列車が走る線路が断層破砕帯に、博多方面のホームが断層の南側(海側)の地層にそれぞれ載っています。1995年には幸い現れませんでしたが、万一の地表断層変位に備えて、2本のホームと線路は3つの独立した構造物として、それぞれの地層に載せることで被害を最小限に抑えるという工夫がなされているそうです。
「のぞみ」や「こだま」に乗って新神戸駅に停車したとき、山側と海側とでが全く異る車窓風景が見られます。E席から眺める六甲山地側は、断層運動で隆起し張り出した尾根が迫り深山幽谷の様相です。これに対しA席から眺める海側は、隆起する六甲山地から流出した風化花崗岩の砂が積もって形成された平滑な扇状地上に広がる神戸市街が見わたせます。
1:25,000都市圏活断層図をみると、諏訪山断層がもたらした六甲山地の直線的な山麓線の両側に対照的な地形が明示されています。
* 「兵庫県南部地震」は、気象庁が命名したこの地震の固有名。「阪神・淡路大震災」は、災害復興事業を効果的に進めるため政府が閣議決定したこの災害の固有名。
1:25000都市圏活断層図「神戸」から新神戸駅付近

地図センターの彩色地図から新神戸駅付近
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2011年01月14日
神戸港に浮かぶポートアイランドは、六甲山地から切り出した土砂で海を埋め立てた人工島。1981(昭和56)年に『ポートピア’81』という地方博が街開きとして開催され、今年で30年を迎えます。その後、団地も造られ、港湾施設だけでなく、居住・生活空間としても発展してきました。
その人工島と既成市街地を結ぶ唯一の公共交通機関がポートライナー(神戸新交通ポートアイランド線)。ポートライナーは営業路線としては日本で最初の新交通システムで、『ポートピア’81』会場への交通手段として開業したので、こちらの歴史も30年。もう“ 新 ”交通とは言えないかもしれません。新交通システムについての詳しい説明は専門家に譲りますが、30年前に登場した際、一番驚いたのが、“運転手さんがいない”こと。“Automated Guideway Transit(AGT)”といい、自動で案内軌道上を走る交通機関で、全てコンピュータで制御され、遠隔操作されているのです。現在はポートライナーに限らず、東京湾の「ゆりかもめ」やマレーシアのLRT(軽電車)など世界各地で運転手のいない乗り物が運行され、ものめずらしい乗り物ではなくなりました。とはいえ、驚きはしないまでも、「運転手さんやっぱりいないよねー」と何となく確認してしまうのは私だけでしょうか? ホームにはホームドアが完備されているため転落の心配もなく、乗り降りの様子は監視カメラが見てくれているので、駅員さんがいない場合も多く、無人駅も数駅あります。また、全線が専用の高架で出来ているので踏切事故や交通渋滞も起きません。

(地図画像は電子国土より)http://portal.cyberjapan.jp/denshi/opencjapan.cgi?x=135.217333&y=34.664629&s=10000
30年前に街開きをした第一期地区だけでなく、分譲が続く第二期地区では「神戸医療産業都市」の形成が進み、さらにその南には神戸空港島が作られました。それにともなってポートライナーの路線も延伸し、山をバックに街から海へ、海上都市を抜けると終点の神戸空港からは飛行機が空に向かって飛んで行きます。都市計画の善し悪しについては意見が分かれるところでしょうが、街を俯瞰しながらポートライナーに乗っていると、“空を乗り物が走り、機械で街が安全に動いている”、そんな子供の頃に描かれていた未来都市のイメージが目の前にあるのを感じます。
無事故を誇るポートライナーも、この30年の間に不通になった時期があります。16年前、1995(平成7)年1月17日の阪神・淡路大震災。ポートアイランドは液状化による地盤沈下が起こり、ポートライナーも橋脚や駅舎などに被害を受け、長期間運休を余儀なくされました。7月31日に全線開通するまでは、代替バスが島の交通を支えました。震災後、多くの仮設住宅が建設された時期もあります。震災に続く不況の影響も深刻ですし、決していいことづくしの描いたとおりの未来ではなく、現実を積み重ねての現在があります。でも、第一期地区の街路樹や公園の木々は、とても海の上の造成地とは思えないほど根を張って成長しています。同じように、人々の暮らしの積み重ねとともに街も成長し、この場所で生まれ育ってきた世代にとってはまぎれもなく地に足のついたふるさとであり、原風景となるのでしょう。
今年、島内の施設の移動や新設にともなって駅名変更が予定されているそうです。そのうちの一つは次世代スーパーコンピュータがやってくることから「京(けい)コンピュータ前駅」になるそうです。新しい顔を加えて街が発展していく様をまた先頭車両の一番前の席から眺めに行こうと思います。
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2010年12月17日
線路は駅と駅をつなぎ、人や物を運ぶと同時に、場所を分断してしまう存在でもあります。線路が境となって、一つながりだった“もの”がつながりをなくしてしまうことも少なくありません。
下記の地図(2万5千分1地形図「西宮」(昭和55年修正)の一部)は、約30年前の阪急電鉄西宮北口駅周辺です。鉄道と鉄道が交差する場合、大抵はどちらか一方を高架化もしくは地下化するというのが常套手段です。でもこの地図の交差部分を見てみても、立体交差の表現は見られません。
西宮北口駅は、東西に走る阪急神戸線と南北に走る阪急今津線が交差する乗換駅です。1920(大正9)年に神戸線がまず開業。その翌年、今津線のうち、宝塚−西宮北口間が開業しました。当初は“西宝線”と呼ばれていたそうです。1926(大正15)年、今津まで南に延伸し、それと同時に“今津線”に改称。宝塚−今津間の全線営業がはじまりました。阪急沿線で育った私は幼い頃、“ここの線路はとても珍しい”のだと教えてもらった記憶があります。ここにはかつて、「ダイヤモンドクロス」と呼ばれる直角平面交差線路があったのです。どのように運用されていたのか、細かいことはよく覚えていないのですが、神戸線と今津線の運行がぶつからないように上手にダイヤが組まれ、西へ東へ、北へ南へ、縦横に電車が行き交っていたのでした。ちなみに、かつての阪急西宮球場跡地に2年前にできた大型ショッピングモールの中にある「阪急西宮ギャラリー」には、1983(昭和58)年当時の西宮北口駅周辺の150分1ジオラマが再現されていて、ダイヤモンドクロスの様子も見ることができます。

そんなダイヤモンドクロスですが、1984(昭和59)年に姿を消してしまいました。都市化が進んで乗客数が増えたことから、電車の運行本数が増えてダイヤがきつくなり、また、車両数を増やすために神戸線のホームを延長し、今津線が神戸線を横切ることができなくなってしまったのです。しかも、高架化も地下化もできず‥。結果、今津線は、宝塚−西宮北口間(北線)と西宮北口−今津間(南線)とに分断。それぞれ個別に運行され、現在に至っています。最近、南線のホームを高架にする工事をしていたので、「もしかしてまた一本につながるのか!?」と期待したのですが、周辺道路の交通渋滞解消のためでした。12月5日から新ホームは供用を開始し、南線への乗換は楽になり、改札口も新設されて便利になりましたが、北線は地上ホームのままだし、2階コンコースに線路を通すのは無理だし。分断状態はこれからも続くようです。
でも、路線の呼び名は、南線はもちろんのこと、今津には行けない北線も“今津線”のままです。別の路線としてやっていくのなら、北線を昔のように“西宝線”に改称してもよさそうなのに‥。それをしないのは、宝塚−今津間の全線運行復活の可能性をあきらめなくてもよいということなのでしょうか?
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